1 春、猫追い、訪ねる樫の森の家(2)
――おい。
不意に呼ばれる。ふと上を見ると、さっさと木を登り終えて、枝に腰掛けていたそのトラブルメーカーが、愛嬌のある大きな目をこちらにむけている。そして、枝の先に座っている真っ白なネコを指さして、
「こいつ、名前なんてったっけ? シロ?」
と訊く。長谷川が少し考え込んでいると、右からぼそりと声が聞こえた。
――ブラン。
小さな手提げ袋を体の前に抱えて、うつむきかげんに呟くのは、樫森という名の同級生だ。小柄で、一目見て内気な性格だとわかる樫森には、少女という名詞がピッタリくる。
そう思っていると、「え?」と上から、その「少女」のイメージからは最もかけ離れたヒトの声がふりそそぐ。
「おい、聞こえないぜ、樫森。ウラン? じゃないよな、さすがに。ま、いーや」
というと、彼女は再びブランと名付けられた白毛のネコに向かい合う。
「おい、シロ。怖くないから、こっちおいで」
ブランは、「シロ」という名の居もしない生物を樹上まで探しにきた奇特な人間の姿を認めて、にゃあ、と可愛らしく鳴いたかと思うと、亮月の方へてくてく歩み寄り、捕まえようとする彼女の手を器用にかわして、独りでするすると滑り降りてきてしまった。
樫森は降りてきたネコに駆け寄って抱き上げる。飼い主の腕で抱き上げられたネコは満足そうな顔で、にゃあ、ともう一度鳴いた。
「あ、なんだよ」
あっさりターゲットをうしなった亮月はぷくりと頬を膨らませる。
「可愛くねえな。せっかくレスキューに来てやったのに。おい、シロ! もう一回登って来いよ。助けてやるから」
そうして膨れたまま少しの間、下を見ていたが、長谷川が
「いつまでやってんの。早く降りてこいよ」
と言ったのを合図に、渋々木の幹の方に体を向け、ネコの五倍ぐらい時間をかけて降りてくる。
木から降りた亮月はつかつかと樫森に近づく。そして、
「おい、樫森。ちょっとそいつ貸して」
とシャーペンでも借りるかのように手を出した。樫森は怯えた表情をする。
「え、なにするの……?」
「もう一回、木の上に置いてくる。ちょっとそいつ反省させないとダメだよ。私がせっかく登っていってやったのに」
――え、と絶句して樫森は目を丸くする。
「亮月、僕たちが頼まれたのは、ネコの救助だろ。逆に木の上に置いてきてどうすんだよ」
――木の上に置いてどうするか。亮月が長谷川の言葉を復唱する。
「決まってるだろ。もう一回、助けに行く。そうすればさ、一石二鳥じゃん」
「どの辺が一石二鳥なの」
長谷川は反射的にそう言ったあとで、一石二鳥がどんな意味だったかを頭の中で整理する。――ひとつの行動で二つの利益を得ること、だったと思った。亮月と話していると、こんな簡単なことでさえ訳がわからなくなる。
「あの、ごめんなさい。せっかく、助けに行ってもらったのに。ほら、ブランも謝って」
ネコは飼い主に頭を抑えられて、にゃあ、と小さい声で鳴く。その姿を見て、亮月の目が潤うるむ。ネコという生物の魔力はこんな奇天烈女子高生にも効果が及ぶらしい。
「なんだ、よく見ると可愛いやつだな。――おい、お前樫森に迷惑かけちゃダメだぞ。えーと、シロ? あれ、樫森コイツ名前なんだっけ」
「あの……」
樫森が言葉を探すようにうつむく。記憶能力の低さを相手に指摘してあげるのは難しい。そう思った長谷川は助け舟を出す。
「教えても無駄だからいいよ」
絶妙なアドバイスだと思ったが、樫森は困ったような表情を続けるし、アドバイスの目的語である亮月は口をすぼめて、――なんだよぅ。と不機嫌そうな声を出す。
「樫森、この長谷川っての偉そうにしてるけど、何もしてないんだぜ。私の方がどっちかってと偉い――土壇場で拒否られて救助には失敗したけど」
最後の部分は、かなり小さな声で言った。――姑息だ。
「ブランを見つけたのは僕だよ。何もできなかった亮月よりは――」
――役に立ってるはずだ。もっとも、あのネコのどこか頭の良さそうな仕草を見ていると、結局何もしなくても勝手に戻ってきたんじゃないか、と思わないでもなかったが。
「あの、二人には、本当に感謝してるわ。ありがとう」
どちらに味方するわけにも行かず、所在なさげに惑っていた樫森だったが、大人の対応をすることを選択したようだ。
亮月の顔を見る。亮月も長谷川の方を見て、――よかったね、とでも言うように首を傾けた。
――確かに良かったな。
樫森に大事そうに抱きかかえられているネコが幸せそうに、うとうとと昼寝を始めているのを見ると、なおさらそう思った。
春眠暁を覚えず。気がつくと春のぽかぽかとした陽気によって、睡魔の気に召しそうな環境が整えられていた。
――二時か。長谷川は安物のプラスチック製の腕時計を見て確認する。
日曜日の半分以上がネコ探しで潰れてしまった。
まだ十分遊べる程度の時間は残っていたが、長谷川の精神にはすでに周囲を徘徊する睡魔の手が及んでしまっていた。
――僕も帰って昼寝でもしよう。
そう思って、二人に別れを告げようとした長谷川だったが、樫森が何か伝えたげにもじもじしていることに気づいた。
「お、どうしたの?」
亮月も気づいたらしい。こういう時、躊躇なく尋ねられる彼女の性格は便利だ。
樫森はなおも少し逡巡していたが、意を決したように頭を上げる。
「あの……。その……悪くなかったら、でいいんだけど。私の家も近いし、お茶でもどう……かな」
亮月はきょとんとする。少しして意味を理解したらしく賛意を伝える。
「おお、行く行く。樫森ん家って初めてじゃん。――良かったな長谷川」
「なんで僕なんだよ」
文句を言いつつも、長谷川も二つ返事で承諾する。それを聞くと樫森は喜ぶ――というよりも心からほっとした表情を浮かべて、
「こっち」
と、二人を先導した。