1 春、猫追い、訪ねる樫の森の家(1)
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「なっさけない。なにやってんだお前」
大の字に地面に横たわった長谷川勝彦に、容赦ない罵声が飛ぶ。
――仕方ないじゃん。木なんか登ったことないし。心の中で反論する長谷川を、木の上から一匹のネコが無邪気にながめている。バランスを崩して木から無様に墜落していく人間の姿を目の当たりにして、このネコはどんなことを思ったのだろうか。動物の気持ちは分かりようもないが、心なしか笑われているような気がする。
ネコはしばらく長谷川の目を見ながらジッと枝の上に立っていたが、そのうち興味をなくしたのか昼寝でもするかのようにうつ伏せになった。
春も半ばの暖かな日差しの中、広場にぽつんと立っている木の上で、真っ白な毛に身を包み寝そべるその姿は、季節外れの雪のようだ。そんな場違いなことを考えていると、また乱暴な言葉が投げつけられる。
「落ちたときどっか打ったか? ――なんだ大丈夫そうじゃんか。ほら、どいてどいて」
声の主は新谷亮月という名の少女である。
彼女はあの木の上のネコと同じくらい無邪気な笑顔で、長谷川の手をつかみ無理矢理引っ張りあげる。そして――私の出番だね。といって長い髪を結わえもせずに木にしがみつき、器用によじ登って行った。
世間的には――この亮月というのは、花も恥じらう女子高生というカテゴリに分類されるはずだった。それなのに、一体どんな蛮族の文化で育ったものか、世間のステレオタイプに真っ向から異を唱えるがごとく、彼女は乱れた日本語を操り、後先考えない猪突猛進な性格でこの世界に存在している。
――いや、むしろこれこそが、現代らしい女子高生像なのかもしれない。
そんなことを考えながら亮月の様子を眺める。薄手のライトグレーのパーカーと黒のジーンズを身にまとった亮月は、日曜日の日中を過ごす一般的な現代っ子らしく決起果敢に木登りをしている。靴も靴下も木の下に脱ぎ捨て、服が汚れるのも厭わずに幹にしがみつく姿は、もうじき来る夏の日の蝉のようで――やっぱりこんな女子高生はそうそう居そうにない。
亮月と出逢ったのは、およそ一ヶ月前。――高校の入学式の翌日だった。新たな生活に対する高揚感もなく、ただこれから始まる退屈な日常の到来に怯えて鬱没としていた長谷川に、
「私、知ってるよ。長谷川君の日常を変えてくれる『英雄』」
などと、どこかの新興宗教の教祖でも口に出すのをためらうような言葉をかけたのが、全ての始まりだった。
その後で紹介された――長谷川よりも一歳歳上の少女の愁眉端麗な貌が、亮月の「英雄」という単語を聞いた途端、一瞬にして苦虫を二十匹ぐらい口に突っ込んだような表情になったことは、長谷川の脳髄に今でも鮮明に記録されていた。
そして、その英雄少女を引きずりこんで、亮月が巻き起こした事件は、全国を――とまではいかないまでも、日本中の暇な主婦連をも巻き込むぐらいの大騒動にまで発展したのだった。
長谷川はその事件で確信した。この亮月とは、間違いなく腐れ縁になるであろうことを。