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其の五 邪馬台国について考える

日本史の謎の1つ邪馬台国の場所について何処か考えた人は多いのでは無いでしょうか、筆者の子供の頃は大分県の宇佐説が割と受け入れられていましたが畿内説や宮崎県の高千穂説など今だに確定はしていません。


そこで今回は魏志倭人伝の記述から邪馬台国の在った場所を探ってみます。


魏志倭人伝によると邪馬台国の場所は帯方郡から一万二千余里となっています、そしてその途中までは研究者が突き止めています。


先ず帯方郡から海岸線を南進・東進して狗邪韓国まで七千余里を進むとあります、筆者は狗邪韓国の場所はよくわかりませんがそれは今回問題では無いので無視します。


狗邪韓国からは海を渡って対馬国(現在の対馬)に行きます、この渡海距離が千余里となっています。


次に南に海を渡って一大国(現在の壱岐)に着きます、この渡海距離も千余里となっています。


さらに海を渡る事千余里で末盧国(現在の佐賀県唐津市)その後東南に陸行五百里で伊都国(現在の福岡県糸島付近)さらに東南百里に奴国(福岡県博多付近)とここまで研究者が突き止めていてその先が謎となっています。


ただ筆者はこの末盧国から先は研究者が間違っていると思っています、理由は魏志倭人伝の記述をかなり逸脱していると思われるからです。


そこで筆者が魏志倭人伝を読み解くとどうなるかと言うと、一大国からは方向の指定無しで水行千余里となっています、そこで千余里がどれくらいの距離なのかと言うと前述してあります、対馬から壱岐までの距離です。


それを踏まえると壱岐から佐賀県唐津市までは距離が短すぎます、では何処かと言えば方向指定が無いのでおよそ千余里と思われる場所で末盧国に当てはまるのは福岡県福津市辺りになります。


その後は陸行で東南に五百里となると福岡県田川市よりもう少し東寄りのような気がしますが伊都国の特定は難しいです、なのでさらに東南百里の奴国も同じように特定は難しいです。


ですがその後は東に百里で不弥国となっていてその後は再び水行となっているので、不弥国は海岸線にあると予測出来ます、なので方角と距離表示だけで予測するなら不弥国は福岡県の築上町か豊前市辺りになると思われます。


魏志倭人伝の記述はここで転機を迎えます、なのでここで一旦筆者と研究者の見解がどうして違っているのかを考えます。


誰かに聞けるわけでは無いのでこれはあくまで筆者の推論ですが、研究者は伊都国と糸島の名前が似ている事と金印の発見場所が福岡市の北の志賀島なので奴国はその辺りでは無いかと考えたからだと思っています。


ですが魏志倭人伝に照らせばそもそも壱岐から佐賀県唐津市では距離が近すぎます、そしてそこから糸島付近では近い上に方向も東南ではなく東もしくは東北になってしまいます、さらに糸島付近から博多付近も距離が近いし方向も東になります、とても魏志倭人伝の記述を読解しているとは思えません。


そもそも伊都国が糸島付近、奴国が博多付近なら陸行するよりそのまま水行する方がよほど楽だし早いです、なのでこの予測はナンセンスにしか思えません。


筆者の考えとしては伊都国と糸島の名前が似ているのはただの偶然と思っています。


奴国については志賀島で見つかった金印の文字が『漢委奴国王』だった事からこの付近と思っても仕方ないとは思います、ただ筆者は福岡県田川市の付近になるだろうと予測していますがそれには根拠があります、それは金印の発見場所が志賀島と言う事です。


つまり本当に奴国が博多付近ならば金印は志賀島それも海岸近くなどでは無くもっと内陸部で発見されないと変です、王の身分を示す証拠をなぜそんな所に持っていく必要があるのか不思議でなりません。


それよりも金印を輸送中の船が志賀島沖で嵐か何かに遭遇して難破、志賀島に漂着して船が大破したため金印が投げ出され行方不明になっていたと考える方がずっと自然です。


さてここで本題に戻ります、不弥国からは転機を迎えると書きましたが、具体的にはどうかと言うとここからは距離が『里』ではなく『日』になります、そして方向は南だけ、途中の国も一国だけとなります。


不弥国の先はかなりアバウトな記述になっているのがわかりますが、これを筆者は進む方向と目的地の方向が違うからでは無いかと推測しました。


魏志倭人伝には帯方郡から邪馬台国までは一万二千余里となっていますが不弥国までで既に一万七百里使っているので残りは千三百余里となります、その行程が不弥国からは水行二十日で投馬国、そこから水行十日陸行一月で邪馬台国となっています、


そこで考えたのは邪馬台国までの距離は奴国、又は不弥国から南に千三百余里から千四百余里の距離にあるのでは無いか、その距離は陸行だと山道ばかりで3・4ヶ月かかるので期間短縮のために水行を絡めて2ヶ月で行く道を開拓したのでは無いかと言う事です。


この一行は魏志倭人伝に記録を残している事からそれなりの規模の使節だと推測出来ます、なので足は遅いと考えられます。


さらに福岡から大分方面は険しい山道ばかりです、現代のように街道が整備されているわけでもありません、それがさらに一行のスピードを落としていたと考えられます。


もう一つ、当時は沢山の国があったという記述もあります、なので邪馬台国までの行程ではかなりの国を経由する必要があったはずです、そして正式な使節だからこそそれらの国ともある程度の交流をする必要もあったはずです、でなければ食料が持たないと考えられるからです。


これらの理由から陸行で通常通り進めば3・4ヶ月かかっただろうと推測しました。


しかし行程の多くが水行だった場合、途中の国は無視して港のある国だけの交流で済むため陸行よりかなり早く進めると考えられます。


という事で筆者は不弥国からは水行を主にした回り道をしたのではないかと考えました。


そう考えれば邪馬台国の方向は南でも進む方向は違います、具体的に言うなら不弥国からは海岸沿いに豊前海を南東へ向かい国東半島に沿って迂回して大分県の別府湾内に入り最終的には大分市辺りが水行二十日の到着点投馬国になるのではないかと考えています。


そこからさらに水行十日と陸行一月ですが、この水行は海では無く川だと推測します、そして大分市には大分川と大野川と言う割と大きな川が2つありますがその内の大野川の方であれば南に遡上して行けます。


大野川を遡上すると十日でどこに着くかと言えば正確にはわかりません、ただ大分県豊後大野市の三重町辺りでは無いかとの推測が成り立ちます、大野川はここで2つの川が交わっているからです。


ここで少し前に戻ると邪馬台国の場所は奴国又は不弥国から南へ千三百・千四百余里と予測しました、そしてそれに見合う場所は大分県竹田市の荻町や熊本県阿蘇市の波野付近で豊後大野市からは西になります。


なので大野川の二股地点からは西に進む事になり一つの川だけを遡る事が出来ないのでここからは陸行になったのではと予測しました。


そして最終的には先程の大分県竹田市荻か熊本県阿蘇市波野近辺と予測したのですが、この近くに気になる場所があります。


それは大分県竹田市菅生(すごう)と言い、ここには七つ森古墳群という史跡があります、元々七基あった古墳が現在は四基しか残っていないという事ですがこの地には少なくとも死後に古墳を作るような有力者がいた事は確かです。


もしかしたらその古墳に埋葬されたのは邪馬台国の有力者かもしれません。


最後に、金印の話が出たので筆者の見解を述べると、筆者が歴史の授業で習ったのは金印の文字から日本は中国の朝貢国の一つだったという事でした、が、筆者は現在その考えは違うと思っています。


魏志倭人伝によれば朝貢は漢の時代に始まったとされています、ですが本当に朝貢だったのでしょうか?筆者は単に隣の大国にお土産を持って交易が出来ないか挨拶に行っただけでは無いかと思っています。


魏志倭人伝には伊都国に帯方郡の使者が往来し常駐していたとあります、ならばこの常駐大使は漢の時代に来たと考えられます。


漢はその使者を対外的には王として将来的には本当に属国にしようと画策していたのでは無いか、その手段の1つが近隣国への金印の授与だったのでは無いかと考えています。


そもそも日本は漢の時代に初めて関係を持ちます、ならば日本には無い漢字や朝貢という制度を知っていたとは思えません、なので中国は国威発揚や権威強化のために対外的には相応の土産を持たせ朝貢だったという体面を繕ったが当の日本は気前の良い隣国程度の認識だったのでは無いかと考えました。


この頃なら金印の文字が属国を表す物であっても日本人にその事がわかる者は居ないのだから漢は扱いやすかったでしょう。


筆者がそう考えるのは魏志倭人伝に登場する二つ目の金印の記述からです、そこには邪馬台国の女王に『親魏倭王』の金印を送ったとなっています。


この頃になると漢字の読める日本人も増えてきていると考えられます、なので魏は対外的には金印を渡して国王を任命したから属国と言う対面を保ちながら『魏倭王』のような属国的な文字ではなく『親魏』と友人的な文字にして日本を刺激しないよう努めたのでは無いかと考えています。


もし本当に漢の時代から属国だったのなら卑弥呼に渡される金印も属国的な表現で問題なかったでしょう、ですが魏側の思惑は別にして日本側が属国と思っていなければ属国的な表現は日本側を刺激し国交の断絶か最悪戦争になる危険があるのです、そうなると魏の権威は大きく下がってしまいます。


もしそうなれば魏はその権威を上げる必要に迫られます、具体的には強権外交や戦争という事ですがそもそも外交の失敗により陥った事態なのでほぼ戦争一択と同じです。


そしてもし戦争になれば魏は負けたでしょう、魏もそれがわかっていたから日本を刺激しないように努めたのだと思います。


ここで超大国の魏と小国の日本が戦争になってなぜ魏の方が負けるのかと考えた人もいるでしょう、なのでその事を説明します。


先ずこの頃魏が日本に攻め込むには技術的に朝鮮半島から対馬を通ってしか攻めてこられないという現実があります、さらに日本は防衛側で魏は攻撃側ということも日本を有利にしています。


そして一番の理由はその進軍コースでは戦場が万里の長城の外側になるという事です。


この頃のアジアの勢力図では万里の長城を挟んで南側は魏が、北側は匈奴が力を持っています、そして万里の長城で隔てなければならない程魏と匈奴の仲は悪いのです。


そんな情勢で魏が日本に向けて兵を出せば匈奴が大喜びで潰しに来るでしょう、いくら戦術目標が日本だと言っても敵の勢力を大きく削ぐことの出来るチャンスをそうそう見逃すはずはありません、さらにいうなら匈奴としては日本侵攻が偽装で本当は南北から挟み撃ちにされる可能性があるため魏軍が長城を超えてくるなら攻める以外の選択肢は無いと考えられます、なので魏が日本に派兵してもそもそも日本と戦えるかどうかさえ怪しいのです。


というわけで筆者は、この時代魏は対外的に日本を朝貢国扱いしていたが日本は全く従属している意識は無かったと考えています。


さてまだまだ結論の出ない邪馬台国論争ですが皆さんも参加してみませんか?




結論:邪馬台国は大分県竹田市にあった・・・・・・・のかもしれない。


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