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 ある日から矢車貴久が保健室を訪れないどころか、彼女が廊下を歩いていても声をかけて来なくなった。

 そもそも会う機会がなく、顔を見かけても気づいた相手が回れ右をして行ってしまう始末だった。

 強い違和感しかなくて気にするなと言う方が無理であり、最初の内は気を引くための作成だろうかと疑いもした。

 けれど恐ろしいくらい彼からのアプローチがなくて逆に不安が胸につのる。

 目が合えば瞬間的に目を逸らすし、名前を呼んだだけでは足も止めない。

 まるで避けているかの様で、急に姿を見なくなる前は望んでいたはずが、急展開で不気味としか感じなかった。

 廊下でふいに歌声が耳に入り、卒業式で聞くメロディーに周囲を見回した。

 探して見つけ出し、壁にもたれて座っているところに声をかける。

「矢車君……」

「ーー?!」

 相手は驚いた反応を見せて、走り去ってしまう。

「ちょっ……と!」

 以前であれば軽口でもたたき、少しでも時間があれば喋りかけてくるのに、今は廊下で待ち伏せしても逃げられてしまう。

 そう、彼女は待ち伏せまでしてしまう。一人の生徒のために。

 担任に様子を伺うと彼は学校には毎日来ており、避けられる様になってから早退も一度のみで、授業もサボらずに受けているという。

 井原葵は保健室の先生、養護教諭で授業を担当する機会も少ないので、別に嫌われていても支障はない。

 ただちょっと目の前で避けられるといい気がしないだけで。

 そして何度かの失敗を重ね、その日の授業が終わってすぐ。

 昇降口から校門に向かう背中を偶然見つけ、声をかけずに全力疾走で追いかける。

 下駄箱を抜けて下校する生徒を追い越す、大人が全力疾走とかみっともないが構っていられない。

 ちょうど校門まで半分の距離で追いつき、無警戒の背中に手を伸ばして矢車貴久の手首に狙いを定めて捕まえる。

 不意打ちで腕を掴まれた彼は足を止め、条件反射で振り向いた顔には驚きが浮かんでいた。

 井原葵は軽く息を切らして胸を上下させ、逃がさないという意志を伝えるため握る手を少し強めて顔を上げる。

「はぁ、はぁ、はぁ……ちょっと! 矢車君、最近あからさまに私のこと避けてるでしょう?」

「それは……」

 まっすぐに見つめると、初めて見る狼狽えた様な、困ったみたいな反応が返ってきた。

「構って欲しいだけなら手を放すけど、そうでないなら訳を話しなさい!」

 振り払われないとも限らないので、下校する生徒の目がある中だけれど、最近の態度について問い詰める。

「私、何かしたかな? 何もしてない自信しかないんだけど」

 これまでと変わらず彼のアプローチをスルーしていたので、機嫌を損ねる様な覚えが無い。

 それに相手にされてない事を相手が今さら気にするとは思えない。

「だから、私を避ける理由を聞かせてくれるまで、この手は放さない」

「……」

 言い切ると二人の間に沈黙が流れ、見える校庭から部活動のかけ声や活気が伝わってくる。

 井原葵の知っている彼であれば、これも一種の二人の空間だと、そう茶化すのは想像に難くない。

 しかし、今目の前にいる矢車貴久はそうではなかった。

 睨み上げるみたいに視線で問い詰めると、観念した様に眉を下げて口を開いた。

「遅いけど嫌われたくなくて、どうしたら良いか悩んでいて、それでとりあえず先生から逃げてた……」

「どういうこと?」

 断片的な理由で読み取れない返事に首を傾げる。

「それは……」

 なんでも前回の生徒総会の様子を誰かがスマホで撮っていたらしく、その動画が生徒間での学校のSNSで出回り、彼はそれを観たのだという。

 そして客観的に自分を見る事が出来て、まるでストーカーではないかと、勝手に好意を押し付けて困らせているだけだと反省している事を白状した。

「先生、ごめん」

 彼女の方を見られず、顔を逸らし、足元に視線を落として謝った。

「そうね、一般的にはストーカーと言われても仕方ないかも」

 普段通りに答えて小さく彼の言葉に首肯する。同時に逃がさない様に掴んだ手に力を入れた。

 そこまで気にしているのかと逃げ出さない様に掴んだのだけれど、相手はどう取ったのか申し訳なさそうに繰り返し謝った。

「ごめんなさい。ずっと付きまとわれるなんて迷惑でしたよね。先生の気持ちを考えてませんでした」

 そしてもう一度『ごめんなさい』と口にする。

 イメージのない落ち込み具合に、彼女は少し焦りを覚えながら言葉を探す。

 表情には出さずに悩んで迷って頭を回転させていると、矢車貴久が呟きの様な言葉を漏らした。

「あれ? でも避けられてるままでも良いのに、わざわざこうして理由を聞くために追いかけてくれて。しかも拒絶されてないってことは、意識してくれてるってこと?」

 ポジティブ変換された疑問を聞き、井原葵は深いため息を吐いた。

「こら、調子乗らない。まだ校内だけのことだから、誰にも相談せずに私の胸にしまってるだけ。勘違いしない」

 漫画なんかだと叱りつつも、額や背中を優しく叩くところかもしれないが、彼女は一般的な大人として不用意な接触をせずに生徒をたしなめた。

「はーい」

 彼は適当な返事をして手を後頭部で組み、彼女に笑顔を浮かべた。

「じゃあ、勘違い野郎にならない様に頑張るんで覚悟して下さい」

 勘違いなどでなく、好きさせると宣言した。

「はぁ、またそうやって」

 息を吐いて眉を顰める彼女と目が合い、二人の間の雰囲気が避ける前に戻った。

 数分前までの悩んで落ち込んでいた姿はなんだったのか、井原葵は眉間にシワを刻んで額に手をあてる。



 校門の方からざわめきが聞こえ、二人は見合わせていた顔をそちらに移した。

「なに?」

「なんですかね?」

 下校する制服の合間から、見なれぬ制服が覗く。

 何事かと井原葵が校門へ足を向け、彼女を追って矢車貴久がついていく。

 校門前に他校の制服姿の五人が立っていて、敷地側にうちの不良生徒たちが向き合う形で通りを狭めていた。

 なので下校する他の生徒が近づくのを嫌がって足を止め、校門の手前が人によって塞がれてしまい渋滞が生まれる。

 すると校門の向こうから何やら声が上がり、僅かに人混みが左右に割れ、シャツの上からも分かる体つきの他校の男子が歩き出した。

 歩き方や服装から滲み出るヤンキー然としたオーラを醸し出していて、ベースの金髪系の色にアッシュを入れた頭が目を引く。

 髪の下の目元は厳つく、ピアスは少ないがクロスなど特徴的なデザインの物を付けている。

 ネクタイは解ける手前みたいに緩く結ばれ、手首にはパワーストーンとミサンガみたいな物、左手首にはリストバンドをつけている。

 どんなファッションだろう? と最近普通のファッションを気にしている矢車貴久は眉をひそめた後。

「先生……っ!」

 突如として前を行く井原葵の腕を引き、彼は自分の後ろに彼女を庇う。

「ちょっと! 何するの」

 いきなり腕を引かれて倒れそうになった彼女が声を上げる。が、それを無視して目の前で足を止めた他校のヤンキーと向かい合う。

「何か様ですか?」

 自身よりも背の高い男子を前に、相手の視線を正面から受け止める。

 多少敵意が覗いた矢車貴久の質問に、取り巻きとも言える四人の内一人が答えた。

「オレらがいるんだからわかんだろ?」

 口をへの字に曲げ、眉間にシワを刻んでガンをつけてくる。

 秒で威嚇してくるとか、猿的な何かなのかととぼけてみせた。

「フルーツの詰め合わせは?」

「持ってくる訳ないだろ! ふざけてんのか!」

 お礼参りで合っているらしかった。

 もし、案件が違えばすくなくとも持ってくる訳ないだろという発言は返ってこない。黙るパターンもあるだろうけれど。

「それにメガネを外したくらいで誤魔化せると思ってるのかよ! テメーの面忘れるワケねーだろ」

 報復を恐れてメガネを外していると勘違いされ、イキった不良に睨まれた上に怒鳴られる。

 そんなことより、この前の様な出来事くらいで四人組は格上のヤンキーに助けを借りたのだろうか? という方が気になった。

 どう見ても四人はヤンキーの取り巻きだった。

「一回会っただけなのによく覚えてたな」

「バカにしてんのかテメーは!」

「今なんでオレを見て言いやがった! 鳥頭とでも言いてーのか!」

 イキった不良の他にモヒカンピアスにも難癖をつけられてしまう。

 彼らはまとまって立っているので、否応なく誰かに目を向ければ視界に入る。

「なんでだよ……」

 理不尽な声に彼が呟くと、背中に庇った井原葵が上目づかいに囁いた。

「自業自得じゃないかしら? 先生を口説こうとする矢車君よ。普通の生徒とは素直に言えない生活態度だから、覚えられても仕方ないと思います。これを機に生活態度を改めなさい」

「そうですね。時間ギリギリに教室に入るのと、先生以外の教師から呼ばれたら怠そうに返事するのを見直そうかな」

「私へのアプローチは?」

「改める必要あるんですか?」

 二人がこそこそ喋っていると「オイ!」と低い声がかけられた。

 声に反応して顔を向けると、ヤンキーの男子が一歩踏み出した。

「オメーがコイツらをからかってくれた奴か」

 威圧感を放つ問には答えず、ただまっすぐ相手の目を見つめる。

「なんだ? Look at killerを呼ぶか? 最近見かけないが、転校でもしたのか?」

 集まる生徒の顔を見やり、目線を矢車貴久に戻して鼻で笑う。

「るっ……なんだって? 誰だよそれ」

 聞き取れなかった彼は戸惑う様に聞き返す。

 和訳すると目が留まったら殺すとかそういう意味だろうか? だとしたら目が合っただけで殺されるとか、そんな物騒な生徒の噂は耳にした事がない。

 どっかの魔物じゃあるまいし、目を合わせちゃいけないとか現実味が無い。

「ホント、誰? うちにいるわけ?」

 ヤンキーの彼が異名なのか通り名なのか、中二病的で恥ずかしい二つ名で呼んだ生徒は、不良やヤンキーなのだろう。

 特徴はガン飛ばす以外は、髪を染めていて耳にピアスが幾つもあいており、相手をビビらすほどの睨みを効かす奴だそうだけれど、大体の不良生徒に当てはまる特徴に信憑性が疑われる。

 他校の生徒ではないか? と。

 校門にいる不良の中には上級生もいるが、ここは同級生の一人に目で本当にいて誰なのか問いかける。

 すると微妙な表情を浮かべて小さく頷いた。

 存在はするらしいが、それは誰なのか聞こうとするよりも先にヤンキーが割り込んでくる。

「とにかく、用があるのはオメーだ。顔貸せ」

 誘いの言葉に一拍置いてから返す。

「……もちろん。ハンカチの恨みもあるし」

 ヤンキーの後ろに立つ猿面を見やるが、相手は眼差しの意味を理解していない様子だった。

「と、言いたいところだけど。そうもいかないんだよね。だから、顔は貸せない」

 言い返して背中の後ろに立つ井原葵にちらりと目配せする。

 すると彼女の不安げな表情が僅かに和らぐ。

 いくらハンカチを踏まれた怒りがあると言っても、好きな人を不安にさせてまで晴らす恨みではない。

 しかし、そんな言い分をヤンキーが納得、通じるはずもなく。

「話に聞いていた通り、ふざけた野郎だな」

 凄み睨んできて、今までそうやって相手を黙らせてきただろう想像がつく。

 これまで睨まれるくらい不良っぽい格好をしていれば数え切れないほど経験したし、井原葵に真剣な眼差しで睨まれる方が余程恐ろしかった。

「多少顔が良い野郎が言い返して来るなんて珍しくて度胸があるんだなと以外だが、それだけだ。コイツらをからかってくれたからには許さねーからな」

 ガンを飛ばされ、話し合いで解決出来るなんて露ほども考えていない彼は、先に自分から提案する。

「なら、うちのボクシング部にあるボクシングリングで勝負するのはどう?」

 矢車貴久が出した提案に真っ先に反応したのは井原葵だった。

「ちょっと! なに言ってるの。喧嘩なんて許しません!」

 誘いを側で聞いた彼女は、驚いて喧嘩をするという発言を咎めた。

「ケンカじゃないです。リングの中で他校の生徒と勝負、交流試合をするんですよ」

 彼は平然と喧嘩をする建前を口にする。

「そんな屁理屈が通ると思ってるの!」

 井原葵は触れる手前まで身体を近づけ、強い口調で彼を引き止めた。

「でも、ここで追い返しても、学校の敷地から出た途端絶対に俺は巻き込まれます。この前のように外で問題が起こるくらいなら、目の届くところの方がまだ良いんじゃないですか?」

 まともな正論が返された。

 けれども教師として他校の生徒と問題を起こすのが前提の提案を飲むわけにはいかない。

「それは……」

 確かにそうではあるけれど、喧嘩を許可する訳にはいかない事情があり、彼女は言い淀む。

 矢車貴久はヤンキーたちに向き直り、勝負の内容を説明する。

「勝負はボクシングリングで一対一のタイマン。プロレスみたいな乱入や椅子などの投げ入れは禁止。ただし、技に関してはなんでもあり。俺自身ボクシングのルールは知らないし、ケンカと同じ要領の方が良いでしょ」

「……」

 ヤンキーからの異論はなく、彼は話を続けた。

「勝敗は相手が倒れて立てなくなるか、リングから出たら負けでどう?」

 ルールを説明するとヤンキーでなく、イキった男子が横から告げ口をする。

「コイツの言葉をそのまま聞かない方がいいっすよ。マジでポリ公呼んだ奴なんで。どーせ勝負開始早々にリングから出て『はい、自分の負け。だから終わり』ってふざけやがりますよ」

 イキった男子の話に矢車貴久に鋭い視線を向ける。

「そうなのか?」

「まさか。好きな人の前でそんな卑怯でかっこ悪い真似する訳ないだろ。約束する、全力を尽くすさ」

 言い返して背後の井原葵を横目で見やる。

「ちょっ! なにどさくさ紛れになにっ……!」

「そんな怒んなくても……モチベーションアップだって。それくらい許してくれませんか?」

 眉尻を下げ、口元だけに笑みを浮かべる。

 それでも良しとしない彼女は、普段通りに叱った。

「喧嘩自体許せないのに許せる訳ないでしょう!」

「喧嘩じゃなくて試合です。先生。大丈夫ですよ」

 そう言って改めて笑いかけた。

 まだ言い足りずに納得のいかない顔の井原葵にお願いをする。

「そうだ、先にコーラを買っといて下さい。彼らを追い返した時のために。負けたとしても、先にコーラがあると心強いので」

 しばらくジッと疑いの目で見つめていたが、踵を返してボクシング部の部室を出て行った。



 ボクシング部のリングは、ノリの良い部長が貸してくれた。

 他の部員は喧嘩に使われる事にいい顔しなかったが、部長が許可したのだから文句のある奴はかかって来いと言って黙らせた。

 誰もが闘いたくなさそうに目を逸らしていた。

 噂では部内一弱く、身体が物理的に軟弱で、パンチが当たっただけで骨折するという。

 部長になったのは気質的に皆の士気を高めることが得意なのと、残りの部長候補だった部員は皆、自分のことだけに打ち込みたいからという理由で部長になる事を望んでいなかった。

 試合のリングは地面から約122センチ前後の高さにある物らしいけれど、部室の物はトレーニング様なので床から階段一段分の差しかない。

 広さは一辺約5.47メートルの正方形で、コーナーの四隅には対角に赤と青、残り二本の棒は白だ。

 その一辺に四本のロープが外縁に沿って渡され囲われている。

 矢車貴久がリングに上がると、同じくリングに立つヤンキーが、その姿を見て鼻で笑う。

「睨んでくるとか気合入ってるようだが、学校ジャージってないだろ。ウケるわ」

 ヤンキーは髪型をオールバックにし、如何にもの雰囲気を醸し出していた。

「ウケる要素が見当たらないけど、笑いのセンスないんじゃない? 高校生として運動するんだから、ジャージで間違いないだろ」

 矢車貴久は挑発などでなく、悪気なく首を捻った。

 そんな彼の前を開いたジャージからは、ティーシャツが下にのぞいている。

 ちなみに睨んでいるのはコンタクトを外しているからで、威嚇のために相手を睨んでいる訳ではない。

 すると相手が顔を寄せて睨み返してきた。

「舐めてんのか」

「いや。それより野郎が顔を近づけないで。キモいから」

 正直な矢車貴久の発言に、ヤンキーは更に睨みを効かせる。

「は? ますますむかつく野郎だな」

「余り熱くならないで下さい! ふざけたヤツなんで!」

 モヒカンピアスが向こうのリングサイドから叫ぶ。

 リングの置かれた室内には他校の不良四人と学校の不良数人、そしてボクシング部の部員に加えてトラブル好きの放送部副部長がカメラを構えた部員を引き連れている。

 元から広い部室ではないから、すし詰め一歩手前で、窓を開けておかないと窒息しそうなくらいに手狭だった。

「それより上裸って……」

 相手は上半身脱いで鍛えた肉体を剥き出しにしており、矢車貴久は呟いた。

 ヤンキーらしい喧嘩慣れしていそうな体つき、手首にあったアクセサリーは外し、代わりに両手はテーピングされていた。

 男子は時にボクシングはしないけれど、テーピングか格好良く見え、憧れて巻き方を覚えたりする。

 正直、相手の気迫に正面から立ち向かって勝てる気がしない。

 そして今小走りにリングサイドに駆け寄って来た井原葵の心配そうな瞳と目が合った。

 勝つ自信が無かったとしても、彼女の前で虚勢を張る以外の選択肢は無い。

「大丈夫ですよ。先生に情けないところは見せられないんで頑張ります。最近は筋トレして鍛えてるんで」

 言って胸の高さに上がった左の二の腕を右手で触れ、ガッツポーズを取ってみせる。

 歯を見せて笑うが、見上げてくる瞳は何か言いたそうに揺れる。

 何か言われる前にすっと彼女から視線を外し、ヤンキーと相対する。

 身長、体格は相手の方が上、喧嘩する覚悟も十分だった。

 そこでゴングが大きな音を立てて響き、飽くまで親善試合という体の喧嘩が始まった。

「矢車君……っ!」

 井原葵の声は開始の歓声にかき消される。

「さあ、来いよ!」

 ヤンキーは拳を顔の高さに上げ、脚を肩幅に広げて浅く膝を曲げる。

 軽く前傾姿勢を取って構え、更に挑発するように歯を剥き出しにして笑う。

 バリバリにやる気が伝わり、ため息が混じる。

「攻めるのは好きな人との恋だけで十分なんだけどっ!」

 矢車貴久は勢いをつけて踏み出し、先手必勝の渾身のストレートを突き出した。

 予想がついていたことだけれど、彼の拳は簡単に躱されてしまう。

 身体を横へズラしながら重心を落とし、カウンターの左ブローが彼の脇腹に刺さった。

「かっ……!?」

 痛みに浸る暇すら与えず、右フックが矢車貴久の顔に入った。

 何とかパンチに合わせて首を逸らし、勢いは逃がしたがよろけてしまう。

 脳を揺さぶられて早々倒れない様に対処したが、踏みとどまるのが精一杯で、他に脇腹の痛みが予想を上回っていた。

 想定していたよりも殴ってくる拳が速かった上に、初手から軽くあしらわれてこの先不安がつのる。

 喧嘩慣れしていて迷いの無い打撃に唾を飲む。

 人を殴ることに迷っていては負けると……そう矢車貴久は感じていた。

 四人を相手にした時とは状況が違うので、逃げ回っていても助けは来ないし、わざと倒されて怒りを治めてもらうにも、納得しなさそうな予感以前に殴られるのは嫌だ。

 まして井原葵の前では尚更。

 脇腹の痛みに歯を食いしばりながら顔を上げると、余裕で向かってくるヤンキーが瞳に映り、即座に応戦のため右脚の回し蹴りを放つ。

 彼の対応に相手は左脚を軽く上げてガード。ヤンキーは蹴りを受け止めてから、下ろした左脚を軸にしての右の回し蹴りを返す。

 その流れる様な動きに、目を見開く間もなく蹴り飛ばされてしまう。

 素人が咄嗟に出した不十分な蹴りなど、場数を踏んでいる相手には意味がない事を知らしめられた。

「矢車君!」

 もう何度目かの井原葵の声に応えるだけの余裕がない。

 まるで手の内が読まれているか、事前に動きを確認した殺陣かの様な状況に顔には出さないが焦りを覚える。

 経験の差もあるが、ちょっとした筋トレ程度では太刀打ち出来る気がしなかった。

 蹴られた勢いをそのままにロープまで下がり、構えるために崩れた姿勢を起こすが、相手の追撃の方が早く床に身を投げて回避する始末。

 二度三度踏みつける様に床が鳴り、ロープまで自ら転がって距離を稼ぐ。

 素早く身体を起こし、ヤンキーから一番遠い位置へ逃げる。

「必死だな!」

「当たり前だろ。こっちは一般人だぞ。そんなにケンカ慣れしてるなら、ボクシングでも始めたらどうだ? ドラマだとケンカっ早い奴がボクサーになるのは定番だろ」

 肩で息をしながら軽口を叩いて睨み返す。

「へぇ、ボコボコにされてるのに言うじゃねーか」

「まぁね。余裕の無い男はモテないって聞くしな。惚れてる人の前で見栄を張らないで、いつ張るってんだよ」

 ニヤリと口角を上げて答える。

 すると虚勢が気に障ったらしく、ヤンキーの眉がピクリと跳ねる。

「気に入らねぇーな! その整った顔をリングに押し付けて、這いつくばる姿をオメーが好きなヤツに見せてやるよ!」

 ダンッと相手が床を蹴って迫る。

「悪役っぽい台詞ありがとう! フラグが立って、俺が勝つ未来が確定したも当然で嬉しいよ!」

 勝利を確信する言葉を叫び、矢車貴久はロープに沿って駆け出す。

 けれど逃げてもあっという間に距離を詰められ、腕を掴まれてしまう。

「逃がすかよ!」

「ぐっ!?」

 手加減のない勢いで腕を引かれ、そのまま半円を描いてロープに身体をぶつけられる。

 リングの柵が僅かに軋み、ロープの弱い反発力で身体が押し戻される。

 そこにヤンキーの膝が腹部に直撃した。

「がはっ……!」

 襲う痛みに矢車貴久は手で押さえてその場に膝をつく。

 やっと脇腹の痛みが気にならない程度になった所の膝蹴りに顔が歪む。

 這いつくばりはしなかったものの、すぐには立ち上がれそうにない。

 与えたダメージのほどを見やり、すぐには攻撃を加えず、ヤンキーは余裕を見せて喋り出す。

「アイツらが逃げ帰ってきたからどうかと思ったが、過剰評価、思い過ごしだったみたいだな」

 ヤンキーが彼の俯く頭に声を投げ、根性が足らないのかもなと四人の方を見やった。

「矢車君!」

 井原葵の焦った声が聞こえた直後、ヤンキーの肩を狙っての前蹴りが入った。

 先ほどと比べて勢いがないので衝撃は軽いが、バランスを崩してロープに弾かれず背中を預ける形で座り込んでしまう。

「かっこ悪いな、ダサいな、それでもまだ余裕でいられるか? 降参してもダメだぞ。さぁ、立てよ。まだ始まったばっかだぞ」

「……焦るなよ。言われなくても立つさ、何発食らおうと彼女の前で倒れたままじゃいられないからな」

 痛みが続く腹部を庇いながら、床に手をついてゆっくり立ち上がる。

 歪む表情から無理矢理に歯を覗かせ、相手にニヤリと笑みを浮かべてみせた。

「それに。こっから逆転してダサい姿からの勝利がギャップで最高なんじゃんか。勝ちを確信するのは早計だと思うけど」

 相手から攻撃を受けた顔、肩、腹部、どこも動かすだけで鈍い痛みがあって、口ではうそぶきながら内心は長くなるとヤバいと呟く。

「ホント、舐めくさった態度だけは話と同じだな」

 鼻で笑うヤンキーを睨み、身体が痛むが腕を上げて構える。

 痛みに耐性があるのは、小さい頃の習い事で慣れているおかげかもしれない。

 一つ呼吸をして彼からヤンキーに仕掛ける。

 拳を右、左、右の順の交互に繰り出した。

 しかし、相手は腕でガード、上半身だけ後ろに引いて躱し、最後は外に弾いて払われてしまう。

 それでも攻めの勢いを落とさぬ様に身体を捻り、一回転させて回し蹴りを向けて放つ。

 けれどヤンキーは上半身を逸らすように彼の回し蹴りを何でもない風にやり過ごす。

「うざってーな!」

 そう叫びながら、空振りの回し蹴りをして隙だらけの矢車貴久に蹴りを入れる。

 咄嗟に腕でガードしようとしたが間に合わず、肘辺りに衝撃が襲い再びバランスを崩して片手、片膝をリング床につく。

 ところどころでリングの外にいる不良四人と、息を呑み名前を呼び小さな悲鳴を漏らす井原葵の声が混ざって聞こえた。

 早く決着は着けたいけれど、そうも言えず、歯がみしながら両脚に力を込める。

 立ち上がるとヤンキーが天井に手のひらを向けた指を続けて折り、かかって来いと挑発してきた。

 矢車貴久は挑発に乗り、たっと床を踏み切って拳を振りかぶる。

 しかし、これまでと同様にガードされてはカウンターで相手の拳が襲う。

 振り抜いた腕を掴まれ、そのまま逃げれない状態で殴られる。

 がむしゃらに空いた片手と脚を振り回し、何とか相手の握力から抜け出した。

 やはり場数の差などの経験により、優位に立てる気は皆無だった。

 うろ覚えのドラマ知識だが、ジャブで相手との距離と牽制をかけてきて、素早くヤンキーの拳が飛んでくる。

 大きく後ろに飛び退いてパンチを当てる隙を窺うが、相手の構えた右腕が脇腹とアゴをガードしていて、たかが筋トレを始めた男子校生には破れそうになかった。

 それに所詮ヤンキーのケンカなのでガードが下がる瞬間があるけれど、矢車貴久も拳を交えた喧嘩に慣れていないので、その隙を突いて狙うのは現時点では不可能に近い。

「ぐっ……!」

 もう何発もらったか分からない。

 素早く離れて間合いを取り、相手との距離を仕切り直す。

「まだ勝てる気でいるのか? オレには一発もまともにオメーの拳が入ってないんだが?」

「ハッ! 二度言わせんな。ピンチからの逆転劇が面白いんだっての。お前こそ諦めろとか言って。本当は焦ってたりして?」

 質問を質問で返して虚勢を張り、矢車貴久は素早く距離を詰め、身体を捻って逆回し蹴りを放つ。

 しかし、大きな動きで迫ったので見切りやすく、一歩足を後ろに下げ、上半身を軽く逸らす事で躱されてしまう。

 空振りに終わった蹴り足が地面に着いたタイミングで、ヤンキーは踏み込み握り拳を上向け、ブローの動きを見せた。

 矢車貴久は即座に相手の肩の付け根、ブローを繰り出す側に手のひらをぶつけ、可動域を封じてブロック。

 空いている右手で攻撃に転じる。

 けれど、殴り返した拳は相手の腕に受け止められてブロックされてしまう。

 それでも彼は引かずに脚を振り上げて攻める。

 振り上げた脚はヤンキーの股間目がけて繰り出された。が、身体の前で交差させた相手の腕によって、容易く防がれてしまう。

 すぐに脚を引き、続けて殴りかかるも捉える事は出来ず、伸ばした腕を逆に掴まれてしまった。

「う……っ!?」

 右手首を同じ側の右手で掴まれ、その右脇の下にヤンキーの左腕が回され、相手の胸の前で腕が横に抱え込まれる形に持っていかれる。

 瞬間、嫌な予感に襲われる。

 そして身体に押し付ける肘を支点に、彼の関節を逆に曲げる様に力が加わった。

 嫌な予感を覚えた瞬間、咄嗟に手と足が動いており、空いていた左拳が阻止のために相手の顔面に殴りかかる。

 しかし、ヤンキーは迫った拳を顎を上げながら上体を反らして躱した。

 と、同時に矢車貴久の右足が相手の左脚をすくったので、ヤンキーは身体を反らしていた事もあってバランスを崩す。

 不安定になった二人は、揃って後ろから床に倒れ込む。

 矢車貴久は背中を打ちつけて一瞬息が止まった。

 咄嗟に首を上げて後頭部への直撃は避けた矢車貴久は、すかさず腕を引き抜いて起き上がり、バタバタと距離を取って振り返る。

 ヤンキーは彼と違って余裕からか、ゆっくりと床から身体を起こす。

 矢車貴久は相手を警戒しつつ、関節がミシッと鳴った気がした右腕を見やり、痛み以外の異常がないか曲げ伸ばしをして確かめる。

 慌てて阻止したので異常はないけれど、想像するだけで冷や汗が止まらない。

「今、骨を折りにきたろ!」

「まっさか、そんなワケないだろ。スポーツを一生懸命やった結果、そうなることもあるだろーけど」

 相手はわざとらしく、白々しく、睨まれているのにしらばっくれる。

「どーしてもスポーツに骨折はつきものだ。つきものって言っても、骨は折れて離れるワケだけど」

 ヤンキーは何が面白いのかニヤニヤする。

「……冗談のセンス、マジないな」

 苦し紛れに言い返すが気にする様子はなく、鼻で笑われて指摘を受ける。

「オメーこそ金的狙ってたじゃねーか。男のモロ弱点狙うとかヒキョーだろーが」

「骨折に比べたら、かわいいイタズラでしょ。それにケンカ慣れしていない一般生徒が、ヤンキーを相手に挑むんだ。ハンデくらい許せ」

「ホント口が減らないな」

 ヤンキーはそう零して眉間にシワを刻む。

「下手でも会話が続かなくてどうやって好きな人にアプローチするんだよ」

 ほぼひとり言を呟いて気合を入れ直す。

 しかし、腕を折られそうになった恐怖から、この後の試合は逃げる一辺倒になってしまう。

「おい! 逃げんじゃねー!! 臆病者が!」

「知ったことか! 一度折られそうになったんだぞ。臆病になって当然だろ!」

 痺れを切らしてイライラを隠せないヤンキーに足を止め、睨み合う形になって叫び返した。

「もし治るまで好きな人にお世話してもらえるなら……ちょっと考えなくもないくらい魅力的だが、彼女は絶対俺を甘やかしたりしないから、素直にボコられなんてされるか!」

「ならOneLookkillerでも呼べよ」

 また出てきた名前に疑問を挟む。

「だから誰だって! そんな恥ずかしい二つ名を付けられてる奴は。他に特徴とか無いのかよ。頼むからいるなら俺と交代してくれ!」

 リング上から叫ぶも、観衆の中から声を上げる生徒はいなかった。

 野次馬で集まる不良生徒も、誰一人として名乗り出ず、ただ顔を見合わせる。

「とにかく! オメーが逃げるだけってんなら、飽きたんでもう終わりにしてやるよ!」

 啖呵切られて警戒しない訳がなく、さっそくロープに沿って逃げ出す。

 当然、相手は捉えようとリングの中心をショートカットして追ってくる。が、その度に戻るか走り抜けるかしてギリギリで逃れ続けた。

「まだ逃げるとか、ふざけんな!」

 追いかけるヤンキーはイラ立たしく叫ぶ。

「大逆転するんだよ! これから!」

 言い返すも息が切れて、これまでの疲労は隠しきれない。

「嘘つくんじゃねー!」

「逃げんな!」

「真面目にやれ! つまんねーんだよ!」

「ふざけた態度取りやがって、殺すぞ!」

 リング脇から野次を飛ばす不良四人組。

 矢車貴久が逃げるものだから、ロープに沿って移動しては野次を飛ばしてくる。

「クソッ!」

 外野のうるささや逃げていてもいつか捕まるのは否定のしようがなく、悪態を吐いた。

 不良共が立つロープ前で足を止めて四人を一睨みし、振り返って彼らの悪態をロープ越しに背中で受けて、突撃してくるヤンキーと向き合う。

「腹ぁ、くくったか!」

 矢車貴久が胸の高さに拳を構えて応戦の意志を示したので、ヤンキーは応じて大きく右手を振りかぶった。

 そして走る勢いのままに突っ込んでくる。

 彼はヤケクソにも聞こえる雄叫びを上げ、一発勝負に出るため前傾姿勢を取って迎え撃つ。

「うあああぁぁーーーーーーっ!!」

 たかが六メートルもないリング上の距離は、あっという間に詰められ、勢いの乗ったヤンキーの右拳が繰り出された。

 突き出された右ストレートを僅かに身体をズラして避け、放たれた相手の拳を左手で掴む。

 背中を向けるために脚を入れ換えながら、腕が伸びたヤンキーの右脇に自分の右腕を入れて捕まえる。

 相手の手首を掴んだ直後、汗で滑らないか不安が過ったが、今さらどうにもならないので勢いに任す。

 そして肩から背中、腰にかけて相手を乗せる様なイメージで、勢いをそのままに一本背負いで投げ飛ばす。

 浮いたヤンキーの身体がロープに触れ、僅かな抵抗力しか持たないロープは重みで弛み、身体が半分以上外にはみ出た状態で重力に引かれて落ちていく。

 ちょうど不良四人組の中に。

 耳の近くで間の抜けた声が聞こえ、ジャージの背中辺りを相手に掴まれた。

 けれど、ジッパーを閉めずに着ていたので、簡単に引っ張られるままに脱げていく。

 ジャージが脱げる際、左腕がヤバかったが、支えを失ったヤンキーはリングの外に放り出された。

 反射的に受け止めようとした不良四人の上に、ジャージを握りしめたヤンキーが落下する。

 四人を巻き込んで倒れ込んだ姿を確認し、リング上に残った矢車貴久はロープに掴まり動悸する胸に手を当てて息を整えた。

 足元に顔を向けて成功して良かったとティーシャツを握りしめる。

 一本背負いの理屈は理解しているが自分に出来るのか? 鍛えられて重そうな相手を投げられるのか? 一本背負いが成功したとしてロープの高さを越えられるのか? それらを検証している暇は無いし、たぶん警戒されたら二度目の無い一発きりの出たとこ勝負だった。

 これに失敗したらカウンター狙いで渾身のグーをアッパーやフックなりで一発入れ、ヤンキーの脳を揺らしてノックアウトで立てなくさせる算段だった。

 可能か不可能かはさて置き、一か八かの賭けだったのは変わらない。

 飽くまで粘ればビギナーズラックで一発くらいは入るだろうという運任せな計画に違いなかった。

「ふざけんな! こんな勝負のつけ方認められるか!」

 ロープを挟んで頭に怒声がかけられ、感情を高ぶらせて不満を叫んだヤンキーに顔を上げる。

「勝負は勝負だ。どうだっ!? 勝ってやったぞ!」

「うるさい! オレは負けてねー」

「リングの外に出たんだ。負けだろ。闘う前にルール確認したろ!?」

 不良四人も同調して抗議する中、彼は少し高い位置から見下ろして繰り返す。

「お前の負けだ。勝負は決まったんだ。余り駄々をこねるとダサいぞ」

 一応、集まった中に試合を録画している生徒もいるので、証拠には困らない。

 そう事実を返すとヤンキーでなく、不良四人が口々に訴える。

「うっせえ! 認められるか!」

「偶然お前に放り出されただけで、まだ闘えるんだ!」

「卑怯な手でしか勝てないくせにチョーシのんなよ!」

「そーだ! そーだ!」

 黙って彼のジャージを放り捨てたヤンキーは、ロープを掴み怒りに燃える瞳を向けた。

 二人はロープを挟んで睨み合う。

 ヤンキーからは今にもリング上に戻り、勝負のやり直しを始めそうな気迫が伝わってくる。

 しかし、ここで部室内中に男性の怒鳴り声が響く。

「何してんだお前たち!」

 お腹に響くほどの声は、更にヤンキーと四人の名を呼ぶ。

 そして野次馬に集まった生徒の間を大股で歩き、リングの元にやって来た。

 見知らぬ男性の顔に生徒が避けるものだから、ずかずかと威圧感を持って五人の前までやって来て足を止める。

 井原葵が呼んだ彼らの教師が到着した。

「センコウ……!」

 五人の誰かが苦々しく呟いた。

「またトラブルか! お前たち! この前起こしたばかりだろ!」

 怒鳴られて不良四人は今までの勢いから一転、萎縮したり聞こえないかの様にぎこちなく顔を逸らす。

 しかし、ヤンキーだけは男性を睨み返して噛みついた。

「仲間がバカにされたんだぞ! 黙って泣き寝入りしろってか?!」

 微妙に怪しい言葉の使い方だったが、意味合いは男性教師に通じたらしく。

「仲間思いなのは評価するが、そもそもカツアゲして返り討ちにあったのだろ? お礼参りが見当違いなのも分からないのか!」

 中年の男性教師は、やはり日頃から不良四人やヤンキーみたいなのに関わっているからか、矢車貴久の通う高校の教師の誰とも迫力が違った。

「……だけどよ! やられたままってのは!」

「それは帰ってから聞いてやる! だから今は黙れ! お前たちの行動は反省点だらけだが、仲間思いなのは正直感心する。しかし、逆恨みはただのチンピラだぞ!」

 その言葉にヤンキーは口を閉ざす。

「……」

 五人の教師は平均男性より少し低いくらいの身長だが、体格や立ち振る舞いに隙がなく、存在感に溢れていた。

「ほら、行くぞ。車で来たからその中で待ってろ。絶対に外に出るんじゃないぞ。先生はこれから謝罪して、こっちの先生たちと話し合ってから戻るからな」

 それなりのコミュニケーションは取っているのだろう。

 嫌そうな表情を見せて、それぞれに文句を垂れるが、渋々でも従うのは一目置いているためだろうことが窺えた。

 矢車貴久は勝負に勝てたとしても、ヤンキーたちが素直に引き下がって帰るなんて思っていなかったので、井原葵に向こうの学校に連絡してもらい教師を呼んでもらっていた。

 もっとも誰かは職員室に駆け込んで事情を説明し、似た状況にはなっていただろうけれど。

「矢車君!」

 井原葵が五人と入れ替わる形で駆け寄り、ロープにつかまる矢車貴久を見つめる。

 彼は目が合うとほっとした様に笑みを浮かべた。

「大丈……」

 彼女が声をかけると彼の身体が傾き、ロープから手が離れてリング上にゆっくり倒れる。

「えっ?! 矢車君!」

 目の前で突然彼が倒れ、ロープ越しの井原葵は動揺を見せる。

「矢車君! 返事をしなさい!」 

 慌ててしゃがみ込み、ロープの間から伸ばした手で肩に触れる。

 しかし、いくら呼びかけても返事は無いし、揺すっても目を開ける様子もない。

「そんな倒れたフリしても膝枕なんてしませんから! 起きなさい! 矢車君!」

 喉が引きつりそうになりながら、声をかけてただただ呼びかけ続けた。自身が保健室の先生なのも失念して。



 目を開けると彼を覗き込む顔があった。

 眉が下がり唇に揃えた指を当てて心配そうな表情で見つめていた。

 ぼんやりと思ったことが、そのまま口から零れる。

「……あ、天使って先生に似てるんだな」

 自身がどこで何でベッドで寝ているのか、そんなことは尋ねず、瞳に映った姿に言葉を漏らしていた。

「なに馬鹿なこと言ってるの」

 覗き込む相手は身体を引き、ちょっと涙声で彼を睨む。迫力はないが怒っているのは十分伝わってきた。

「心配、してくれたんだ」

「当たり前でしょう。最後、倒れたんだから。しかも中々目を覚まさないから心配しました」

「ごめんなさい。昨日は先生との事で悩んでて、余り眠った気がしなくて、それで……」

 起きなかったのは睡眠不足が関係していると明かすと彼女は言う。

「もうこういうことは止めなさい」

 いつもの注意かと普段通りのやり取りに口角が緩むが、続いた言葉にドキリとする。

「ただでさえ矢車君のことを考えないようにしてるのに、喧嘩なんて危なくて心配になるでしょう。本当に心配かけないで」

 逆に言葉にならず、彼女を見つめた。

 そして不謹慎だけれど不安げな表情も、抱きしめたくなるくらい可憐に見えた。

「……矢車君、どこか痛い所は無い?」

 不意打ち気味に顔を覗き込み聞かれ、欲望に正直になってみた。

「殴られたところはもれなく痛いけど、強いて言うなら枕が硬くて眠り辛いです。なので、膝枕をお願いします」

「……ダメです。そんなことしたら、余計……いいえ、なんでもないわ」

 なぜか途中で言葉を切り、彼女は首を横へ振った。

 止められると余計に気になり、ベッドの上から追求する。

「なんですか? 言って下さい。気になるじゃないですか」

「別に大したことじゃありません。膝枕なんて余計に調子に乗るからダメと言おうとしただけです。本当にそれだけ」

 言い切ると口を結び、眉間にシワを寄せた。

「ダウト。それ、咄嗟に誤魔化すための嘘ですよね?」

 簡単に言い切ってみせた矢車貴久は、真剣な顔を覗かせた。

 正面から相手の顔を見返し、抑揚の感じられない口調で否定する。

「……そんな訳ないでしょう」

「でも、そんなことならいつもの小言と変わらないじゃないですか。なのに言葉にするのを止める理由がないです。なので変です。おかしいです」

 じっと真っ直ぐな目に見つめられ、井原葵は根負けする。

 そして彼女は言いたく無さそうに口を開いた。

「……恥ずかしいじゃない。膝枕なんて」

 耳を赤くして怒った様な目で彼を睨む。

「それに……意識してしまいそうで嫌なの」

 意識してしまいそうで嫌だと心配する時点で、もう意識している様なものではあるけれど。

「意識……してくれてたんですね?」

 彼の疑問に今にも唸り出しそうに目を逸らし、井原葵は返事として小さく頷いた。

 目を瞬かせて半分信じられない気持ちで彼女を見つめる。

「あれだけ好きって言われて、好意を向けられていて、意識しないはずがないでしょう」

 教師なので特定の生徒一人だけを特別扱いする訳にはいかず、常に彼の前では大人を振る舞っていた。

 それに気を張っていないと動揺してしまいそうで怖かった。

 そんな葛藤がバカらしく思えてしまうくらい、理由を聞いた彼のプラス思考は通常運転を見せた。

「じゃあじゃあ、俺が好きってことでオーケー?」

 それが井原葵を逆に冷静にさせる。

 嬉しさが表情に滲み出ている彼の問に、『ほら、調子に乗る』と囁いて質問に答えた。

「危なっかしいという意味で、気になって目が離せない存在です」

「え~っ」

 不満を漏らす相手を前に、パンッ! と一度手を叩く。

「はい、元気になったのなら、早く下校しなさい」

 軽口をたたけるくらいなら大丈夫だと判断された彼は、いつもの雰囲気に戻って下校を促された。

 井原葵は何か身体に異常が表れたら、すぐに病院で診てもらうようにと言い添える。

 彼は促されるままベッドを出て、荷物を肩にかけ、扉に手をかけた所で足を止めて振り向いた。

「先生、また明日」

「はい、また明日。気をつけて帰りなさい」

 いつも通りの気のない返事。

「先生」

 落ち着いた矢車貴久の呼びかけに小首を傾げる。

「何? まだ何かあるの?」

 戸を開けた彼は肩越しにイタズラっぽい笑みを覗かせた。

「キス、してくれても良かったんですよ? せっかく待っていたのに」

 言うと見る見るうちに井原葵の表情が大変な事になり、顔を真っ赤にして今にも泣きそうな瞳で叫ぶ。

「えっ……! おっ、起きてっ……え? ええぇぇぇーーーーーーッ!!?」

 響き渡る驚きの声に、矢車貴久は嬉しそうにはにかみ、背中を向けて卒業ソングを口遊む。




            了

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