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卒業式に定番の曲を口遊みながら歩いていると矢車貴久は後ろから呼び止められた。
彼は『花』から始まる先生や友達へ巣立ちのために別れを告げる歌を止め、声に振り向くとそこには目元を険しくした養護教諭の姿。
いわゆる保健室の先生と言われる養護教諭の井原葵が立っていた。
睨んでいるのだろうけれど、まだ若いので凄味は無く、まるで怒る近所のお姉さんみたいな印象を与えた。
「また早退する気でしょ。ちゃんと授業受けなさい」
教科書や何かの資料だろうか、胸に抱いたまま彼を叱る。
「冤罪です。まだ早退するなんて一言も……」
「嘘。その歌を歌っている時の矢車君は、いつも早退してるじゃない。しかも、今『まだ』って言ったでしょう。ってことは、早退する気でいたんじゃないの。未遂でも見逃せません」
叱りながら小さな子供の様に唇を尖らせた。
彼女こそ、その仕草を直した方が生徒から教師として見られるのでは? と教えてあげようとして思い止まる。
年齢が若いせいもあり友達感覚な生徒もいるが、彼にとっては指摘した事でかわいらしい仕草を見られなくなるのは余りにも惜しかった。
なので、仕草には触れずに自然であろう言葉を返す事にした。
「先生、いい大人があげ足を取るよーなことをしていーわけ?」
「教師として学校をサボろうとしている生徒を注意したまでです。揚げ足なんて取っていません」
目の前で自信を持って言い切る井原葵。
ラフに着崩した制服に染めた髪、ピアスが何個か付いた耳、睨むような目付きの男子生徒。
それが矢車貴久だった。
不良文化の全盛期時代と比べたら優しい見た目だけれど、不良に代わりない彼に話しかける先生は少ない。
だから、彼女の様な脅えも威嚇もせずに声をかけてくる教師は希少と言えた。
しかも尖っているのは見た目だけで、矢車貴久の中身は話せば解る性格のため、声をかけてくる教師との仲は悪くない。
ちなみに彼は校内の他の不良やグループとは繋がりがなく、不良としては一匹狼状態で学校生活をおくっている。
誰にも干渉せず、干渉されず日々を過ごしていた。
「やっぱり先生、不良だったんじゃねーの?」
「脈絡なく何? 違います」
「それにしては、全然……」
「学生の頃のクラスメイトに不良がいただけです。なので、矢車君に睨まれたくらいでは黙りません」
新任も同然の年齢の井原葵が、目つきが悪いだけで周りからも敬遠気味の彼に、自然な態度で話しかけられるはずがない。
矢車貴久は彼女を疑っていた。
なので、その発言を無視する。
「ヨーヨーとか……」
「持ってません」
次の質問がくる前に、相手は先んじて答えた。
「マシンガンも撃ってませんからね。失礼な」
きっぱり言い放った彼女は頬を膨らます。
あざといとウザがられそうな仕草を目にした矢車貴久は、やっぱりかわいらしいと思う。
「先生。俺、先生のこと好きです」
「はいはい、ありがとう」
軽くあしらおうとする彼女の頷きに、真剣な眼差しで訴えかける。
「からかってるとかふざけてる訳じゃなくって、ガチで好きなんです」
「分かってます。でも、私の好みは硬派な感じの授業をサボらないかっこいい男の子です」
井原葵は好みの男性像をあげ、彼のアプローチを聞き流す。
彼女の返事に黙考する仕草を見せ、一拍置いて矢車貴久は踵を返した。
「先生、今日早退しまーす!」
「えっ、ちょっ、この流れで!? 授業を受けるところでしょう!?」
彼の告白に不意を突かれたが、早退宣言も突拍子がなくて困惑させられる。
「体調がよくねーんで」
「なら、早退する前に保健室で一度休みなさい。体調が良くないなら尚更、帰宅途中で倒れたら大変でしょう」
突然の体調不良を疑って引き止めるが、相手は平然と嘘を重ねて断った。
「男子のあれ的なそれなんで」
「保健室の先生にそんな言い訳が通じると思うの!」
あからさまなホラを前に、尚も呼び止めるけれど、矢車貴久は再び卒業ソングを口遊む。
これから授業予定があるので、一人の生徒にだけかまっていられず、小さく囁き、頬を膨らませて昇降口に向かう背中に叫んだ。
「好きなら……先生の忠告を聞きなさい!」
翌日。
「おはよう……って、矢車君なにがあったの!」
職員室へ向かっていた足を緩め、彼と向き合う形で立ち止まる。
「おはよう、先生。先生は俺って分かるんですね」
「当たり前でしょう。先生をからかってるの? 馬鹿にしてるなら許さないわよ」
軽く眉をひそめ、彼女はアゴを上げる。
「違います。俺ってわかってくれたのが嬉しくて」
些細なアピールはスルーし、さっと彼の全身に目を走らせた。
「そんなことより、どうしたの? その格好は」
「先生が硬派な感じがタイプって言ってたんでイメチェン的な」
急な相手の見た目の変化が、自分の発言が原因だと判明し、井原葵の口から声が漏れる。
「あぁー」
確かに告られていつもの様に聞き流しながら、そんな事を口にしたかもしれない。
彼の染めていた髪は黒の短髪に、ピアスも小さいのが右に一つ。
制服も首元を一つ外しただけで、下の腰履きを辞め、怠そうだった立ち姿もしゃきっと姿勢を正していた。
何よりも眉間にシワを寄せて睨む様な目付きがパッチリ開かれ、前より柔らかな印象に変わっている。
「昨日早退してから速攻行きつけの美容室に行ってさ」
初めて見る黒髪に触れ、照れくさそうに彼は口にした。
「矢車君、美容室なんだ」
井原葵は好きな人の影響を受けて変わった実例を目の当たりにして、ましてや自分のせいという事もあり、相手の話の変な所に引っかかった。
「母親にガキの頃から連れてかれてた美容室なんですけど、そこのおばちゃんに頭黒くするって言ったら、どーしてか嬉し泣きされちゃって」
染める時はお小言をもらい、戻すと感動されたと語る。
「コンタクトが一番ムズかったわ。眼に異物を入れるとか、マジビビってなかなか鏡の前から離れらんねーし」
「視力、悪かったの?」
井原葵は疑問を返し、訝しげな視線を送る。
「あぁ。身体測定の時は勘で? 視力検査を乗り切ってたからさ」
メガネはダサいし、コンタクトレンズは先述した様に怖くて手を出せずにいたからと話す。
「目付きが悪かったのは視力が悪かったからか」
納得の言葉を口にし、向かい合って立つ彼の目元を見やった。
「やっぱ、おかし?」
「え?」
「いま先生に会うここまでさ。変に周りから見られてる感じがするし、クラスの女子が話しかけてきたんだけど、俺と分からねーみたいで。俺と知ってビックリして逃げてくし」
見た目だけで言うなら、確かに気がつかないクラスメイトが居てもおかしくない。
こうして喋って話すと矢車貴久なのだが、昨日まで不良然としていた彼が急にイメチェンするなんて誰が想像できるだろう。
そのきっかけになった張本人ですら、思い立ったら即行動する彼を、予想出来なかったというのに。
「なんなんだよ、ホント。いつもより周りの視線が鬱陶しいし」
軽く顔をしかめるが、その表情すら様になっていた。
見た目が不良でも普通の生徒に変わっても、周りの目を引いて視線が集まるのは変わらないらしい。
「で、どーよ?」
「どうとは?」
質問の意味が分からず、質問を質問で返して小首を傾げる。
「決まってるっしょ、告白の返事だって。年の差を理由にするのは無しだかんね」
色々と話が飛躍気味だが、相手の告白に対して好みのタイプを口実にスルーした彼女には、意味が理解出来てしまっていた。
「大人になれば九つくらいの年の差なんて問題ねーだろ。とーぜん、色々と卒業までは我慢するからさ」
「逆に、私にそれまで恋人を作らずに待てと?」
首を傾げる彼女に、小さく強く頷く。
「ちゃんと好みのタイプになれてるっしょ」
自信に満ちた眼差しを正面から受け、一つ首を横へ振る。
「なれてないわ。私が言ったのは、ちゃんと授業を受けるかっこいい子が好きって言ったの。硬派な感じがタイプとは言ったけど、見た目だけの話じゃないの。分かった?」
言葉づかいや仕草だったり、中身も大切と説明を聞き、考える素振りを見せた彼は頷いた。
「本腰を入れて授業を受けるか」
「本腰を入れるもなにも、矢車君の本分は学業です。なに苦渋の決断を下した人みたいな顔してるの」
小さく息を吐き、成長期の男子を睨む。
自身よりも背が高い相手なので自然と上目づかい気味になってしまうのは仕方ない。
好きな人との口をへの字に曲げた表情は、例え叱られているとしても得をした気分にしかならなかった。
「でも、えくぼの浮かぶ笑った顔の方がキュートだな」
そう独り言を聞こえるか聞こえないかの小ささで呟いた。
その笑顔も矢車貴久とでなく、彼女をお姉さんの様に慕う女子生徒とのお喋りで見かけた笑顔だ。
「……また訳の分からないこと言って。早く教室に行きなさい」
聞こえていた様で、ムッとした表情を見せて指を差す。
「あと卒業式の歌は無し、歌わないこと」
「えぇ~、歌わなければ早退しても?」
「そんな訳がないでしょ。先生をからかってるの?」
ふざけた質問に眉をひそめる。
「からかってるはずないじゃないですか。好きな人と少しでも長くお喋りしてたいだけです」
「ちょっ!」
「望むなら楽しい会話ができたらなって。まぁ、先生も楽しいお喋りだったと思ってもらえたら、尚いーですけど」
軽妙なトークを望む彼にため息を漏らす。
「はぁ……? もう付き合ってられません。ホームルームが始まる前に教室行きなさい」
右手で頭を押さえた彼女は、そう相手に言って職員室へ足を向ける。
「先生! 先生!! 先生ー!」
まだ話したり無い生徒の声が、背中にかかるが無視をして歩き続けた。
「ヤバい。授業の内容がほとんど分からないんだけど」
保健室の四脚置かれた円形のテーブルで、彼が教科書とノートを広げて難しい顔を浮かべていた。
ペンは手の中で回り、筆記用具としての役目を果たせずにいる。
「いっそ諦めるか。バカはバカなりに生きて行けるし、社会に出ても勉強が役立つ機会なんてほとんどないって聞くしな」
「そこ! 諦めるの待ちなさい。努力しないで馬鹿を受け入れるのはただの愚か者です。それは好きな子の前で格好つけることを諦めるのと一緒だと思わない?」
「それはつまり、俺に『私の前では格好つけなさい』という解釈でおっーー」
「オッケーじゃありません。例え話です」
軽口遮って切り捨てる白衣姿の井原葵。
「それに社会人になって好きな人と付き合う時とか、一般的な収入がないと将来のことにも困る可能性が出てくるんですよ」
一緒にいて将来の見えない相手と居ても別れる事を悩むし、子供が欲しいなら共働きだったとしても育てられるだけの収入がなければ難しい。
「たっ、確かに。プロポーズして早く式を挙げなくちゃ、貯金を溜めている間に先生の気が変わったら困る……!」
顔を青くして震える矢車貴久だが、井原葵は冷静に言葉を返す。
「待たされただけで気持ちは変わりません。それ以前に、どうして私が矢車君のプロポーズをオッケーする前提なの」
「もしかして! 今、断られたの?!」
ペンが手から零れ、テーブルが揺れて消しゴムが転がる。
「ほら、落ち着きないから消しゴム落ちた」
さっとテーブルから床に落ちた消しゴムを拾い上げ、彼の前にすっと置いた。
すると矢車貴久は不満顔を彼女に浮かべた。
「え~っ」
「拾ってあげたのに何?」
表情に不満の色を見せた彼に、井原葵は怪訝な瞳を向ける。
「『ど~ちだっ!』って、やってくれないんですか?」
実際に握り拳を作り分かりやすく不満の理由を明かした。
「……やるはずないでしょ。消しゴムを拾ったくらいで。そんなイタズラして意味があるの?」
理解出来ないといった表情と共に言い返す。
「隣の席の女子はやったけど?」
イタズラをするのは当然といった態度で返され、それを井原葵は指摘する。
「私がやらなくても、やってもらってるじゃない」
「ダメです。先生が良いんですから」
真面目な表情で答えた言葉は聞き流し、代わりに質問を重ねて自分への追求を逸らす。
「で、どうだったの? 嬉しかったの? 当たった?」
「いや、普通に『早く返して。消したいから』って言って、返してもらった」
彼は手のひらを前に出し、その時の状況を再現してみせた。
「女子の笑顔が一瞬で引きつってたけど」
「はぁ……それ、矢車君との話すきっかけが欲しかったからじゃない。仲良くなりたくて話しかけたのに、なにやってるの」
「前は拾わなかったのに、そんなイタズラされても。先生ならともかく」
矢車貴久は眉間にシワを寄せて口を閉じる。
「困った顔をしたいのは私の方です。せっかく見た目だけでも変わって、クラスメイトが興味もってくれたのに」
「別に構いません」
「女の子には優しくするものです」
「してるじゃん?」
先生に、と指をさす。
本当に同年代の女子に興味がなさそうな素振りに、アプローチされている立場の井原葵は肩を落とした。
「そんなことより、分からないところ教えて下さい。ヒントだけでも良いんで」
開いたページを指さし、催促する矢車貴久。
「あのね、私は保健の先生なの。分からない所があるなら、担当の先生の所に行きなさい」
教わるなら彼のクラスを担当している教師に聞くよう促したが。
「まさか、問題が解けないとか? 高校だったのが数年前だから……」
挑発が返ってきた。
「失礼な。本気を出せば私にだって教えられます。でも、授業をサボる常習犯の矢車君は先生たちからの印象良くないでしょ? なので担当の先生たちに聞きに行った方が、心象が良くなると思うの。わざわざ足を運ぶなんて、本当に勉強をする姿勢や本気度が伝わって良いでしょう」
「別に先生以外から、どう思われても気にしないんだけど」
理由を丁寧に語った彼女の努力虚しく、ブレないシンプルな回答に一瞬言葉をなくす。
「とっ……とにかくっ! 保健室は怪我や体調が悪くなったり、風邪なんかの病気になった生徒が来るところです。健康そうな矢車君は出て行きなさい」
気のない返事ついでに追い出そうとする井原葵。
「そんな理由なら大丈夫。病を患っていーー」
彼が何を口にしようとしているのか、瞬間的に察しがついたので彼女は遮る。
「恋の病は専門外です。恋愛科のあるクリニックにどうぞ」
そう言って矢車貴久を保健室から追い出した。
寝坊してコンタクトをする余裕なく登校した彼は、今日一日中メガネで過ごしていた。
そんな下校中、他校の男子グループに突然絡まれる。
不意を突くように脇道に引っ張られ、幅のない道で半ば退路を塞がれる形で。
「なあ! そこのイケメンメガネクン。お金貸してくんない?」
「どーせさ、ベンキョーばっかでお小遣い使うヒマもないっしょ?」
「オレらが使ってやるからよ」
「…………」
イキっている奴と猿っぽい面した奴、フランケンシュタインの怪物みたいな奴、余りにも噛ませ犬感が滲む姿に言葉を失っていると、最後に世紀末みたいなモヒカンピアスが距離を詰めきた。
「あれあれ? 黙っちゃってどうしたのかな? もしかしてビビって喋れなくなっちゃったとか?」
言って四人は笑う。
「ダサくないか? 喝上げなんて」
笑いはピタリと止まり、四人分の視線が集まる。
「ああっ?!」
右手側に立った猿顔がドスを効かせて下から舐める様に彼を威嚇した。
普通の男子生徒であれば、少なくとも危害を加えられる雰囲気を察してたじろいでいただろう。
敵意のこもった視線を冷めた眼差しで見つめ返し、矢車貴久は平然と言葉を返す。
「喝上げなんてダサいことしている暇があるなら、遊ぶお金くらいバイトでもして自分で稼いだらどうだ?」
提案を口にしてメガネ越しに彼らを順番に見やる。
普段も自身の高校の不良に睨まれるので変にビビることはないし、確か彼らの着ている制服の学校は、学生のバイトを禁止していないはずだという考えまで頭が回る。
「ああ、うん。そうか。働くのはちゃんとした人間らしくて良いかもしれない」
彼は気づきを得た様に一つ頷いて腕を組む。
井原葵からは勉強を頑張る様に言われているが、労働もしっかりしている感じが出て、かっこいいのではないかと考えた。
矢車貴久は組んだ腕を解き、ガンを飛ばして来る不良たちに向けて呼びかける。
「どうかな、俺と一緒にバイト探さないか?」
その場の誰もが一瞬言葉を失った。
けれど、左手にいるモヒカンピアスが声を上げて沈黙を破る。
「オレらみたいのがバイトできるわけねーだろ!」
確かに今の彼らのイメージからは、会計レジやパン屋など普通のバイトはほど遠くて結びつかない。
カラオケやボーリング、アウトドアショップの店員がギリギリ想像つくくらいで、今の態度では結局雇ってもらない方に天秤は傾いている様に思えた。
特に右手の猿面の近くに立つフランケンシュタインの怪物みたいな男子なんか、土木系の労働のイメージ以外難しい。
いい加減状況が進まない事態にイキった男子が彼にイラだちをぶつける。
「いーから、早く金出せよ!」
「オカネカシテクダサイのヨガポーズをされても無理。返してくれる雰囲気ゼロじゃーね」
「ふざけてんのか! やってねーだろそんなヨガポーズ! 勝手に捏造すんじゃねーよ!」
脇からモヒカンピアスが口を出し、イキった男子が顔面に怒りを貼り付ける。
「痛い目みねーと、ダメみたいだなっ!」
「小粋なジョークも通じないのか?」
自然に首を傾げただけなのに、相手の気に障った様で叫ばれた。
「テッメッ! もうガマンできねー!」
痺れを切らしたイキった男子が腕を振り上げ、矢車貴久の顔面に向けて拳を突き出す。
「短絡的……」
彼は腰を軽く落としてやり過ごし、攻撃に転じるため捻った腰の脇で握った拳を放とうとして思い止まる。
きっと彼女は暴力を感心しないという気がし、殴り返すはずの腕を止めてしまう。
すると大きな体躯のフランケンの怪物が、動きが一瞬止まった彼の腕を取り、力任せに自身へ引き寄せる様にして首に太い腕を回す。
まるで貼り付けにされたように捕まり、残りの三人が横に並んで前に立つ。
拘束されて何が起こるのか、おおよそ察しがつき、容易くこの後の展開が目に浮かぶけれど、大人しくボコられる気はサラサラない。
リンチにされるのは嫌だと。
短いため息を漏らし、案の定モヒカンピアスが近づき腕を振りかぶったので、そのトサカ頭の顔面に蹴りを入れる。
右腕と首を拘束されていたので、逆に安定して跳び上がり易く、足の裏を顔に叩き込み着地。
反撃を予想していなかったのか驚く残りの三人。
跳び上がった時に僅かに前へよろけたフランケンの足の爪先を狙い素早く踏み込む。
足の甲から指にかけて踏むより、足の小指を物にぶつけた時みたいに、身体の先端の方が痛そうから。
続けて後ろにあるだろう相手の鼻先目がけ、地面を蹴って後頭部での頭突きを実行。
身長差的に可能で、衝撃と呻き声が後頭部から聞こえ、右手と首の拘束が解けた。
チラリと背後を見やると、大きな手のひらで鼻を押さえ、睨みつけてくる瞳と目が合う。
他の三人、顔を手で押さえながら立ち上がったモヒカンピアスも、彼を逃がす気はない様で行く手を塞ぐ。
矢車貴久は前後を意識しながらスマホを取り出し、迷うことなく110番を押した。
「助けを呼ぼうってか!」
猿面が鼻で笑い、彼は肯定して答える。
「まぁ、そんなところ。呼ぶのはお巡りさんだけど」
「はぁっ?! 何してくれてんだよ!」
返事を聞いたイキった男子が急に怒鳴った。
大きな声を立てられても、スマホを耳に当てたまま無視を通す。
「あ、もしもし。今ーー」
「させるかよ!」
平然と通話を始めて、置かれた状況を理解していない態度に、不良はイラだちを覚えて胸ぐらを掴みに来る。
掴まれると押されたり引かれたり、思う以上にバランスを崩されてしまうので、身体を後ろに逸らしながら躱し、身を捻って背後から抱きつきにかかるフランケンの横をすり抜ける。
フランケンの背後に回り込んだ矢車貴久は、その広い背中を蹴り飛ばした。
前のめりにバランスを崩し、膝から地面に手を突くフランケンの怪物。
倒れたフランケンを避け、その陰からモヒカンピアスが飛び出して来た。
モヒカンピアスの拳を腕でガードしながら、どこの通りで、どこの高校の生徒に絡まれているか電話口に状況を伝える。
「早く来てもらわないとボコボコになっちゃいますよ? え、どっちがって四対一ですよ? 加害者が110番する訳ないじゃないですか。とにかく近くの交番からお巡りさんをお願いします」
言って一方的に通話を切り、鞄をぶつけてモヒカンピアスを退け、通報の間に何発か入った肩をさする。
「通報したんだけど、引いてくれない?」
「通報なんてウソだろ。あんな緊張感のねー軽い通報があるか! 舐めやがって!」
でまかせだと叫び、再度猿面が跳び蹴りを入れて来る。
矢車貴久は鞄を盾に受け止め、牽制として蹴り返す。
かすりもしない反撃を前に猿面が怒鳴り返した。
「ホントにオレらを舐めやがるな! 反撃するまでもねーってのかよ!」
相手の拳を鞄で押し返して突き飛ばし、横から繰り出されるイキった男子の回し蹴りを回転の足らない蹴りを当て身体への直撃を回避。
よろめいたところに突っ込んで来るモヒカンピアスを鞄をフルスイングして牽制と足止め、背後から襲いかかるフランケンのぶん回された拳を地面を転がってギリギリ難を逃れる。
逃げの一方で文字通り目が回る中、先ほどの猿面の言葉に言い返す。
「ちょっとずつボコられてんだけど!?」
本当仲が良いのか、四人が絶妙なタイミングで攻めてくる。
気休め程度ではあるが、四方向から囲むほど場所が広くないのが幸いしていた。塞がれても三方向で、必ず一カ所は逃げ道があり、壁に追い詰められないように立ち回る。
110番通報したのに信じてもらえず、四人から感じる雰囲気的に逃がしてもらえそうではなかった。
全力でダッシュしても四人を振り切るのは難しく、やはりお巡りさんを待つしかなさそうだった。
「なら、素直に殴られろ!」
叫びながら突き出されるイキった男子の右拳を腕でブロック、続けて繰り出された左の二擊目は、腕を振るって軌道を外へ逸らして流す。
「無茶苦茶な言い分……」
ガードして躱して凌いでいるせいで、相手の方が逆に焦りを覚えているとしても、大人しく殴られてやる気は無い。
そこに矢車貴久の足元を狙ったローキック。
咄嗟に後ろに飛び退きやり過ごすと、大きく空振りしたイキった男子が睨みつけて来た。
「だったら舐めてないでやり返してみろよ!」
怒られるいわれの無い彼はメガネを指で押し上げて直し、レンズ越しの眼をキリッとさせて断る。
「それは出来ない。好きな人はきっと俺が人を殴ることを望まないからな」
それに暴力騒動を起こしたら最後、井原葵は許してくれなそうな気がしていた。
「ああ、そうかい!」
イキった男子はそう叫ぶと身体事ぶつかってきた。
その勢いに押された反動で鞄が地面を転がって滑り、よろめいた彼は数歩後退して足を止める。
「いっつも思うんだけどさ。どうして男の弱点なんて明白なのに、誰も狙わな……い……んだ……っ!?」
フランケンが彼を取り押さえるために腕を上げて足を開き、すり足で距離を測る向こう。
転がる鞄の脇に立った猿面、その足が小さな布を靴で踏んでいるのが目に入った途端、矢車貴久は頭に血が上がり地面を蹴っていた。
「ジャマだっ……!」
囁くように呟き、フランケンの股間を躊躇せず蹴り上げる。
低いうめき声を漏らす相手に目もくれず、その脇を駆け抜ける。
「その足を! 退けろぉーっ!」
叫びながら猿面の抵抗をすり抜けて突っ込み、勢いのまま腕で相手の首を絞めるように壁へ押し付ける。
メガネ越しの瞳は怒りに染まり、少しずつ腕に力が加わっていく。
すると表通りから野太い声が響き、矢車貴久以外の目が一瞬で向く。
「げっ!? マジの110番だったのかよ!」
「手を貸せ、行くぞ!」
警察官の登場に驚いたモヒカンピアスにイキった男子が声をかけ、股間を押さえて頼りないフランケンの腕を取る。
そして二人で肩を貸すと猿面に叫ぶ。
「ボサッとするな! 行くぞ!」
「分かってる!」
圧迫される喉で叫び返し、猿面は拘束されていない左腕で苦し紛れにフックを放つ。
「ぐぅ……っ?!」
視界が大きく揺らぐ。
怒りで冷静さを欠いていたため、その一撃は頬を捉えて矢車貴久の姿勢をグラつかせた。
首を絞める腕が緩んだ瞬間、猿面は彼を押し飛ばして三人に続いて逃走を図った。
「待てっ!」
咄嗟に彼は身体を起こし、逃がすまいと駆け出すが、すぐに後ろから腕を摑まれて止められてしまう。
反射的に振り返ると、親より上の世代に見える男性警官に睨まれる。
「逃げんじゃない。暴れるだけ無駄だぞ」
凄まれたけれど無視し、ズレて煩わしいメガネを外しながら振り向く。
「コラッ! 待ちなさい!」
若いもう一人の警察官が、矢車貴久の脇を駆け、逃げる背中を追いかける。
走りながら制止を呼びかけるが、四人の後ろ姿は止まる気配がなかった。
仲間思いなのかフランケンの怪物を置いていくことなく、両肩を持っているくせに息が合うのか逃げ足が早かった。
すぐに路地を通り抜けて不良四人の姿が見えなくなる。
ぐっと歯がみすると警官に強く腕を引かれてしまう。
「動くな。お前は逃がさないからな」
「通報したのは俺だ!」
相手の端っから疑う態度に、思わず反発の態度で返してしまう。
数分後。四人を追って駆け出した若い警察官が、手ぶらで一人戻ってくる。
明らかに逃がしたのは一目瞭然で、それが勝手だけれど余計に腹が立った。
「交番、すぐ近くだろ?」
ムッとして腕を押さえる顔にシワの目立つ警官を見やる。
「巡回中だったんだ。喧嘩する暇のある君たちとは違うんでね」
「ごめんね。これでもダッシュして来たんだよ」
小馬鹿にしたような返事の警官と違い、謝罪を口にした若い警察官は汗を垂らして苦笑いする。
ダッシュして来たのは本当の様で、四人を追うだけでは流れないだろう量の汗が流れており、逃がしてしまうのも頷けた。
ただの汗っかきでなければ、全力を尽くしてくれたらしい。
とりあえず、若い警察官にだけ顔を向けてお礼を口にする。
「いえ、ありがとうございます」
ちょっとだけ冷静さを取り戻した彼だったが、水を指すように腕を掴む警官が呟く。
「ほら、事情聴取して調書作成するから交番行くぞ」
子供としか見ていない横暴な態度の大人が矢車貴久は好きじゃなかった。
「矢車君、大丈夫!」
白衣のままの井原葵が交番に姿を見せた。
「先生っ!?」
交番から学校に連絡があり、てっきり担任が来るものだと思い込んでいた矢車貴久は驚き、レンズ越しの瞳が大きく見開かれる。
なんでも担任は用事で駆けつけることが難しく、ちょうど急ぎの用も入っていない養護教諭の彼女が、引き取りに来たのだと経緯を聞いた。
「申し訳ありません。うちの生徒がお世話になりました」
彼女は謝りお世話になった事のお礼を口にし、警察官から騒動の事情と説明を受けた。
事情聴取とスマホの番号と残された通報履歴により、矢車貴久の疑いは晴れている。
加害者生徒の特定は出来ていないけれど、彼と警察官が見た制服からどこの学校なのかまでは特定していた。
「ありがとうございました。失礼します」
「ありがとうごさいました……」
井原葵に習って一緒に頭を下げ、二人並んで交番を後にする。
しばらく互いに無言だったが、横断歩道の赤信号で足を止めた際、左隣に立つ彼女が上目遣い気味に訊いてきた。
「ちょっと腫れてるっぽく見えるけど、痛みとか本当にない?」
最後に右頬に受けたフックとか喧嘩で殴られているから、大丈夫でも病院で見てもらったらと心配してくれる。
「大丈夫です。表情を動かさなければ痛みは無いし、物にぶつかった時と同じだから病院は大丈夫」
「そう? 痛む時は早く診てもらいなさい」
不謹慎だが不安に見つめてくる井原葵の瞳がキレイだと思った。
『はい』と、一言頷き、信号機が青に変わった横断歩道を並んで渡る。
「まさか好きな人に迎えに来てもらえるなんて、不幸中の幸いってやつだね」
「矢車君、お願いだから心の声はしまっておいて」
表情に出して喜ぶと、彼女にたしなめられてしまう。
ちなみに井原葵は今、白衣姿を脱いで脇に抱えていた。交番までは急いでいて気が回らなかったけれど、校外で着る白衣姿を意識して恥ずかしくなったためだった。
相手の歩調に合わせて歩く矢車貴久は、左肩に下げた鞄から畳まれた一枚の布を取り出す。
「先生、ごめん。借りたハンカチが踏まれて、洗っても落ちないかもしれない」
絡まれている最中、猿面にハンカチが踏まれてしまって手で払っても汚れが落ちなかった。
彼の手に乗るハンカチの刺繍飾りが、一部黒くくすんでしまっている。
「気にしないで。矢車君が無事だったんだから構わない」
一応彼が洗って返すというハンカチは、正直言うとお気に入りの一枚だったけれど、生徒が無事なことに比べれば大した話ではなかった。
「それよりも、あちらの学校との話し合いの方が気がかりね」
戻ったら報告の後に連絡を取り、明日にでも相手側の教師と顔合わせし、当事者の生徒について話を聞き、協議して着地点を探らなければならない。
きっと在り来たりな処理がされるだろうが、意見交換は必要不可欠だった。
矢車貴久を引き取りに交番で事情を聞いた井原葵は、報告書にまとめたとしても説明責任として、その会議に顔を出さなければならない。
小さくため息を漏らす横顔を目にし、迷惑をかけている事を謝る。
「ごめんなさい」
「どうしたの? 突然」
「先生に迷惑をかけてるから、申し訳ないなって」
「矢車君は脅されて、お金を要求された被害者でしょう? 余り気に病まないように」
「それでも、こうして先生が迎えに来る事態になっている訳だし。本当に迷惑をかけて申し訳ないなって」
「矢車君……」
彼は一度言葉を切り、間を空けて続けた。
「だから! お詫びにファミレスですけど、ラザニアとか奢らせてくれませんか」
一瞬沈黙が生まれ。
「……呆れた。なに食事にこぎ着けようとしてるの。さらっと誘おうとするなんて、本当ちゃっかりして」
呆れと疑念に満ちた瞳が向けられた。
「反省しなさい」
「はーい。でも正直、交番に先生が駆け込んで来てくれた時は嬉しかったです」
僅かに視線を落とし、神妙な表情で胸の内を明かす。
「毎日アプローチしてるのにつれない態度だし、誘っても塩対応じゃないですか? だから心配してもらえるのが嬉しくて」
「当然でしょう。仮に矢車君の気持ちに応えていたら、教師と生徒という事で問題になるでしょう」
不満を口にした彼に、諭すように彼女は説明口調で言った。
「私は辞めさせられるだろうし、矢車君は学校に居づらくなるでしょう?」
「それは俺のためを思って学校を辞める事態にならない様に、守っていてくれてるってことですか?」
「聞く必要ないでしょう。仮に、の話です。ちなみに先生だから応えない訳では、ありませんからね」
相変わらず立て板に水の対応の井原葵。指摘された恥ずかしさに顔を赤らめたり、目をそらしたりせず、淡々とした口調で指摘した。
しかし、相変わらず彼もめげずに質問を重ねた。
「先生、先生。これってもしかして制服デートってやつですか?」
「……違います」
ポジティブ思考に呆れて間が空いたが、きっぱり井原葵は否定した。
彼女は一度学校に来てもらって状況を担任と校長先生、今日は教頭先生にも同じように説明してもらうためだと語る。
「制服デートなんて。そんなポジティブな考えが出来るなら、かつあげされて心配していたけど、精神的な負荷は大丈夫そうで安心しました」
お喋りは終わりと彼女は歩調を早めた。
背中についてくる気配を感じながら、彼に聞こえないほど小さく囁く。
「本当、心配して損した……」
「待って下さい! 先生!」
矢車貴久は置いてかれないように小走りし、追いついた彼は車道側に立って歩調を合わせる。
ある日の学校で養護教諭と生徒、井原葵と矢車貴久がデキているという噂が一部の生徒の間で出回っていた。
彼にとっては噂話だとしても嬉しいけれど、たかが人の憶測で学校に井原葵の立場が危うくなるのは本望ではない。
居られなくなるのを回避しなくてはならず、まだ一部の生徒の間だけで噂されている話題だけれど、広まって捻じ曲がって話が大きくなる前に対処する必要があった。
定期的に体育館で開かれる全校生徒による生徒総会。
その開かれた会議の終わりに、矢車貴久は一人挙手し、進行役の生徒会から許可の出る前に壇上に立った。
生徒総会を見守っていた教師たちも含め、生徒からざわめきが上がる中、こういう事態が好きで空気を読まない生徒や不良ははやし立てる。
彼はマイクの前に立って自分の名前とクラス、養護教諭の井原葵との噂を全校生徒の前で否定した。
「俺と先生が付き合っているだなんて噂話、本当にふざけんじゃねーって感じだぞ!」
そう思いを込めて叫び、彼女がどれだけつれないか皆の前で説明する。
「先生はどれだけ俺がアプローチしようと全然相手にしてくれないし、全く他の生徒と変わらない態度だし、どんなに『好きだ』とか『かわいいね』とか言ってもスルーされるしっ! 噂が羨ましいわ!」
該当教師に好意なんて抱いてないと、そう否定するものだと思っていた皆は、逆に好きなのに振り向いてもらえないと叫ぶ主張に呆気に取られてしまう。
一方、当事者の井原葵は止めに入ろうと足を踏み出すが、同年代の先輩女性教師に肩を掴まれて制止される。
「まぁ、良いじゃないの。やましい事実はないでしょ? 本当に駄目な時は止めにはいるから」
なだめる様な言葉に顔を赤くして返す。
「楽しんでませんか?」
井原葵の名前が出た際、近くの生徒や並ぶ教師陣の目線が刺さり恥ずかしくて堪らない。
声を抑えて叫んだ彼女に、先輩教師は微笑みで答え、井原葵はもどかしい思いで約束させる。
「絶対止めて下さいよ」
恨みがましく見つめ、相手が頷くのを確認する。
その間も彼の演説は続けられていた。
「まだ事実ならともかく、たかが噂話なんかで会えなくなるなんて絶対に嫌だ。これで本当に先生が学校辞める事態になったら、俺は絶対に関係してた奴らを許さないぞ!」
何を聞かされているのか、眉をひそめる生徒たちを壇上から見回し、拳を強く握り締める。
「噂が真実だったら、叶った嬉しさの余り皆の前で自慢しまくって、出所の分からない噂話になんてならないわ!」
説得力のある心からの叫びに、誰一人として茶々を挟む声は挙がらなかった。
「先生がどれだけつれないことか! 押しても引いてもなびかないんだぞ! 好みが硬派な人だって言うから髪や服装、言動も気をつけているのに振り向いてもらえない。努力しているのに、この辛さときたらっ!」
熱い演説に様々な視線が集まる。
報われたら報われたで問題だけれど。
「ちょっとくらい俺にだけの笑顔を見せてくれても罰は当たらないと思わないか?!」
同意を求めて壇上から一同を見渡すも、同感の声はあがらなかった。
しかし、彼は沈黙を物ともせずに主張を続けた。
「何をしても塩対応だから、先生の笑った表情とかは全て自分じゃない誰かがさせたのを盗み見るしかないんだ……! 好きな人の笑顔が自分に向けられないことがどれだけ辛いことか……」
俯いて手を握ると、すぐに顔を上げて力強く言う。
「……よって噂なんて嘘だし、それでも先生を陰で責めたりして傷つけたら許さない。もし文句があるなら俺に言え! なんなら相手にもなってやるから先生に手を出すな!」
スタンドに立てたマイクを握り、全校生徒を前にそう宣言した。
「言葉がめちゃくちゃだけど、愛されてるのは伝わるね」
腕を取って引き留める先輩教師がウインクした。
「面白がってないで止めて下さいよ! 約束したじゃないですか!」
耳まで赤くした井原葵が睨む。
端から見れば愉快かもしれないし、相手になるとか手を出すなとか誰に向けてなのか意味不明な発言もあり、当事者からしたら冗談じゃなかった。
「あははっ、『先生に手を出すな』って、かわいいこと言うね。彼」
「そういう意味じゃなかったですよね? 笑ってないで、私が不登校になるじゃないですか!」
余り生徒の前で取り乱す訳にもいかず、艶っぽい唇の先輩に顔を近づけて声を落とし抗議した。
生徒たちの視線が向けられている様な錯覚を起こし、壇上ですっきりとした表情の恨めしい彼と違って、井原葵は気が気でなかった。
「先生、お昼一緒に食べませんか?」
お昼休みに保健室の引き戸を開けて早々、お弁当を片手に彼は井原葵を誘う。
「食べません」
矢車貴久の誘いを秒で断った彼女は、続けて一緒に食べられない理由を口にする。
「これから女子生徒の相談を受ける約束だから、今日のお昼休みは怪我をした急ぎの人しか受け付けません」
「そうですか……じゃあ、今度相談に乗ってもらえますか? 友達の話なんですけど」
てっきりしつこく食い下がると思っていたけれど、あっさり聞き入れたので拍子抜けしてして呟く。
「友達?」
彼に友達がいたのかと内心驚くが、表情には出さずに頷いて了承した。
「良いですよ。今度ね」
そう返事をしてその日は彼を追い返す事に成功した。
しかし、相談に乗ったことを後悔する未来があるのを彼女は知らない。
どう接したら気になる相手との距離を縮められるか、彼は友達の相談をする。
「友達には好きな人がいるんですけど、ちょっと悩んでいて」
「話しかけるきっかけが分からないとか?」
好きな子に認識されている以前なのか、質問して問題を確認する。
「いや、朝会ったら挨拶するし、そこそこお喋りもする。けど相手に意識してもらえてるのか、不安みたいで」
「つまりお友達としか思われてないんじゃないか、と?」
挨拶と会話だけでは確かに恋愛対象として見られていなくても、クラスメイトであればそれくらい普通な訳だけれど。
「気持ちを伝えるのが一番意識してもらうには早いけど、単純明快な告白はハードルが高いうえにリスクが高いから難しいしね」
「あ、いいえ。もう相手には彼が好きって伝えてるんですが、つれないと言うか接する態度が変わらなくて意識してもらえてるのか、心配らしいんです」
丸テーブルを挟んで向かい合う井原葵に答える。
「普通に会話の流れで伝えたらしいんですが、ちゃんと告白しなくちゃダメですかね?」
「そうね。プロポーズならともかく、好意を持っていることを伝えるだけなら無しではないと思うわ。それで意識してもらうきっかけにはなるのだけど……相手の態度がこれまでと変わらないと?」
「はい。何度か」
相手の確認する質問に頷いて返す。
「好きって女の子に伝えただけ? それとも付き合って欲しいっていう意味の告白だったのかな?」
「両方、です。好意を抱いていることを伝えて告白したんですけど」
「そう。その告白は断られてないわけ?」
「断られてます。それでも諦めきれなくて」
「断ったのにその子は、今までと変わらずに接してくれているのね。拒絶されてないだけ、脈はあるのかもしれないけど」
だから逆に不思議でしかなく、不安なのだと話す。
「でも、そこまでされて諦められないって友達は冷たくされても喜ぶタイプ? それともそんなにかわいい子なの?」
「かわいいって言うか清楚系? 白い服が似合う感じ」
そうなのと彼女は相づちを打つ。
「なんだけど、仕草が文字や言葉にできないかわいらしさ……らしいよ」
「確かに男子は仕草系が好きよね」
女子に免疫が無いほど効果があり、時には勘違いの原因になる場合も。
「他にも相手はイメチェンしても気づいてくれて、彼は嬉しかったらしいです」
「そうね。女の子の方がちょっとした変化にも敏感だから、毎朝教室で挨拶する程度でも気づいてもらえそう」
テーブルの上で指を組み、矢車貴久に話の先を促す。
「彼女のことで周りからはやし立てられたのに、彼女は全然そんなの気にしてない様な態度で」
だんだん相談の内容に引っかかりを覚えるというか、雲行きの怪しさというか、素直に話を聞いて大丈夫か不安が過った。
「へ、へ~。事実じゃないから気に留めてないだけの可能性があるわね。人の噂も七十五日じゃないけど、言いたい人には言わせておくスタンスなんじゃないかしら」
「まだ異性として意識してももらえてないってことですよね?」
「……そうなるわね」
「あと長い黒髪をまとめたところや話を聞いてくれるとこ、睫毛が長くてふとした横顔がキレイなところ。ちょっとお弁当が茶色ぎみで魚を食べた方が良いのに、野菜ジュースや果物でバランスを取ろうとしてるところとか。たまに形が良い爪のネイルが剥がれていて、もしかしたら家では少しだらしないのかな? ってちょっとダメなとこを見せてくれるところが好きなポイントだって言ってました。友達が」
井原葵は卓上の両手を、甲を上にして軽く握り込む。
相談を一通り聞き、疲れた様な顔で指摘する。
「……それ、矢車君の相談ではないの?」
しかし、彼がそう簡単に認めるはずがなく、しらを切る。
「いいえ、友達の話です」
「ネイルの話の時、私の爪見てたでしょう?」
手は閉じたまました追求に、彼は頷いて認めた。
「そうですね。でも、俺の恋愛相談じゃないからセーフでしょ? あくまで先生を好きな友達の話」
一部は認めるが肝心な所は否定を続けるという姿勢らしく、まるで少しの本当を混ぜて嘘の信憑性を高めるみたいな事をする彼。
「なめてるの? そんな言い訳が通じるはずがないでしょう? そもそも矢車君が大人しく相談を聞けるはずないでしょう。相手は私なのよ」
キツめの口調で責めると、言い訳を口にしながらも、自身の相談事であると認める。
「だけど悩み相談で友達の話だと念を押した場合、ほぼ自分の話だったってオチがセオリーでしょ。出だしの時点で止められなかったからオーケーなのかと」
「そんなはずないでしょう」
きっぱり否定した井原葵は、顔が熱くなって困った。
彼に魅力を感じる所や魅力、褒められたり言われると恥ずかしい所など聞かされ、赤面しない訳がなかった。
それにちょっと自意識過剰な失言をしてしまった様な気もして落ち着かない。
「あれ? 先生?」
矢車貴久は目深に被ったキャップを押し上げ、二階のフードスペースに見知った相手の姿を見つけた。
「矢車君……」
呼ばれて振り向いた井原葵は、窓際の席に座ったまま、ハンバーガーやサラダをトレイに載せて立つ彼を見上げる。
その瞳には驚きを映し、彼女の前には彼と同じくトレイが置かれていた。
髪をまとめている学校の時とは違い、ヘアゴム一つで簡単とめ、胸の前に垂らしたラフな姿に新鮮さを覚える。
服装も休日感が伺えて、いつもとは違う一面が見られた嬉しさがあって表情に出てしまう。
余りじろじろ見るのもマナー違反なので、彼女のトレイに目線を移す。
「先生も食べに来るんですね。意外です」
全体的に茶色ぎみなのは相変わらずだけれど。
「そうね。学生まではしょっちゅう食べてたけど、社会人になるとコンビニやスーパーの方が便利なのよ。だから、久しぶりに入ったわ」
無人レジだと人目を気にせず食べたいものを購入出来るので、彼女はコンビニやスーパーを利用しがちだった。
そして彼に質問を返す。
「で、矢車君はどうして?」
「両親が子供を置いて一泊二日の旅行に出かけてるんです。自炊も出来るんですけど、一食くらい外食で手を抜いても良いかなと」
大人なのに小首を傾げる姿に、かわいいと胸の中で呟き、矢車貴久は疑問に答えた。
井原葵は彼の外食理由に頷く。
「夫婦水入らずか。仲良くて素敵じゃない」
「夫婦水入らず。そう言えば聞こえは良いですけど、最愛の息子はお留守番ですからね。とは言え、こうして先生と偶然会えたから、お留守番も悪くなかったってことで」
相手の目を見つめ返し、笑顔を向ける。
「惜しむらくは、スカジャンなんかじゃなくてオシャレしてくれば良かった。休みだからってコンタクト面倒くさがってメガネで済ましたのもミスった」
後悔を口にした彼は、そのまま井原葵を誘う。
「うち、両親居ないんだけど来る?」
「……それは付き合いたての女の子を誘う文句でしょう。まったく何を考えてるの。両親の居ない生徒の家にはいきません」
「両親に挨拶できないからですか?」
「変なこと言わない。その都合の良い解釈、油断も隙もなーー」
お説教が始まりそうな予感に、慌てて他の質問で誤魔化す。
「とりあえず隣良いですか?」
「……駄目。どんなとりあえずな訳? 今日は休日でプライベートなの。そんな時に男子生徒と一緒の所を知り合いに見られたら、不要な誤解を招くでしょう」
そう指摘して却下される。
ましてや生徒総会での出来事があったばかりなので警戒するのは仕方なかった。
ちらりと横目で彼を見上げ、必要以上の矢車貴久との接触を拒む。
「そんなことあるわけないじゃないですか。俺のアプローチのせいで自意識過剰になってるんじゃないですか?」
「その口で言われるとイラッとするわね。とりあえず、生徒の前で先生にプライベートはありません。お休みの日でも、生徒に会ったら先生は先生になるの。だから、他の席に行きなさい。先生の言うことがきけないの?」
「あー……その理屈だと、今はプライベートじゃないという状況だから、隣でも大丈夫じゃないんですか?」
先ほどの井原葵の発言通りであれば、確かに矢車貴久と顔を合わせている現在は、プライベートではなくなる。
保健室の先生なのだけれど。
しかし、そんな事を言い出したら教師に休暇なんてなくなってしまう。
「この矛盾って、先生の自爆じゃ……」
「いっ、言わないで! あっ、上げ足を取るなんて……騙されませんからね。どっちにしろ、休日に矢車君と一緒にいる所を見られてマズいのは変わらないんですからね」
一息に彼女は焦って捲し立てた。
「そんなんだと屁理屈な大人になりますよ。私は、そんな人嫌いです」
誤魔化す様に早口の井原葵に、彼は目の前のかわいさに比べたら、どうでもよくて適当な返事を返した。
「はーい」
不満を覗かせながら背を向ける形で彼女から少しだけ離れた席に腰を下ろす。
まだ井原葵的に近い感じは受けるけれど、背中合わせなので見られても問題ないだろうと小さく安堵する。
知り合いに遭遇しても、気づかなかったとしらを切れるギリギリのラインだっから。
ちらっと見た彼のトレイには、苦手な炭酸飲料でなく、コーヒーの紙コップが乗せられていた。
すると一分も経たない内に彼の弾んだ声がかけられる。
「先生、お喋りしよう? お互い背を向けたまま会話するって、スパイ映画みたいで楽しそうじゃないですか? テンション上がりません?」
相手の笑顔をちらりと警戒心を覗かせて見やり、一言だけ返す。
「上がりません」
答えを返してガラス越しの景色に顔を戻す。
学校以外で話さないのはお互いのためだというのに、一人で神経質になりすぎているのかと井原葵は内心唸る。
そんな彼女の葛藤を知らぬ矢車貴久は、背を向けたまま疑問を口にした。
「ところで今日は一人でどうしたんですか?」
聞こえなかったフリでシカトしても、黙るはずがないのは経験済みなので、カウンターも込めて質問に答える。
「一緒に映画を観に行く予定だった〝彼氏〟が、急に来られなくなったから一人だったのよ」
背中越しに彼氏の部分を必要以上に強調する。
「だから、この後映画は観ないで帰る予定。彼は忙しいから次いつになるか分からないけど、彼氏と一緒に観たいから」
理由をトーン低く語ってみて、矢車貴久の反応を窺う。
そっと彼女は肩越しに振り向く。
すると、彼に確固たる口調で否定された。
「……ダウト!」
「だ、ダウト?」
いきなり叫ばれて反射的に顔を戻し、オウム返しの呟きを漏らした。
肩越しに覗いた矢車貴久は、相手の戸惑った背中に深く頷く。
「はい、ダウトです。相手は彼氏じゃなくて友達なんじゃないですか?」
「……なぜ、そう言えるの?」
彼の断言に質問を質問で返してしまう。会話を続けるのは良くないと思っていたのに、嘘だと指摘されて声に動揺を滲ませてしまう。
それを確信と捉えたのか、矢車貴久は自信たっぷりな声で推理を披露する。
「理由は簡単です。全体的な雰囲気は違うけど、デートなのに学校で会うときとメイクや服装が同じ感じじゃないですか? それに忙しくて会えない彼とのデートなら、キレイだって言ってもらうために、もうちょっと先生は気合を入れるはずです」
「……それで?」
「普段の先生からしてセンスが悪いとか、オシャレが苦手という印象はないので、絶対にデートなら一目で分かるはず。以上の理由からダウトです」
「……へー」
「もちろん、恋人でなく気になる異性とでも同じことが言えるので、友達の可能性が高いと推理します。ちなみに相手は同性でしょ」
気になる異性や同性の恋人なら、もう少し気合を入れるからと、はっきり説明する。
探偵のマネをする矢車貴久の推理に、んっと井原葵は一度口を閉じて開く。
「悔しいけど……正解」
ちょっと言い当てられて恥ずかしく、なので仕返しに言い返す。
「その洞察力や考える力を勉強に活かしなさい」
しかし、彼にそんな嫌味が今さら通じるはずもなく。
「なら先生、その映画一緒に観に行きませんか?」
「どうしてそうなるの。人の話を聞いていなかったのかって聞きたい気持ちもあるけど、映画なんて観に行ったら、ますますデートだと勘違いされちゃうでしょう。映画は改めて友達と観に行くので間に合ってます」
彼の誘いを背中で断り、飲み物を一口する。
「残念。じゃあ、代わりに洋服選んでくれませんか?」
一瞬トーンダウンしたが、性懲りもなく誘ってきて内心の呆れた。
顔に出ていたかもしれないが窓の方を向いているので大丈夫なはず。
「なんの代わりなのかしら?」
軽いイラだちを込めたのだが、今さら彼が気に留めるはずもなく。
「前の姿に合わせて私服は買っていたんで、スカジャンとかデニム地の上着とか柄物のシャツ、ボトムはダメージとか靴も制服に合わないデザインのシューズばかりの厳つい系しかなくて」
言われて肩越しに改めると、確かに今の黒い短髪のメガネの雰囲気にスカジャン姿はマジマジ見るとミスマッチ感が否めない。
「イメチェンしてからの服が、パーカーくらいしかないんですよ。だから、入れ換えて行かなくちゃいけないなと思って。何なら先生とのデート用のを選んでくれても良いんですけど?」
「それは必要ありません。そして買い物デートにしようとしても、その手には乗りません」
「えー」
あわよくばと狙っていたが、作が単純だったために彼の思惑は容易く阻止されてしまう。
会話に一区切りつき、改めて矢車貴久は声をかける。
「仕方ない。先生、映画気が変わったらお供します」
そう笑顔が思い浮かぶ口調が返され、彼女はため息を漏らす。
「たまに子供みたいな笑顔をするのに。なんで不良になっちゃったのかしら?」
分からないと横に首を振る。
「気になります? 俺のこと」
「矢車君のことじゃなくて、どうして不良になったのか理由が気になるだけです」
「まぁ、何にしろ。先生に興味を持ってもらえるのは嬉しいんでーー」
そう言って彼女は詳細を求めていないのに話し始める。
「中学校の頃、イジメに遭ったんですよ。ホント一時ですけど」
彼女に背を向けたまま、気まずそうに矢車貴久は歯を見せて笑う。
小学校時代と半分くらいしか顔ぶれが変わらない進級当初にイジメられたと話す。
被害者でも先に手を出したら不利になるのは、小学生の頃に通っていた武術の習い事でよく知っていた。
習い事では必ず自分が強くなったと勘違いする子がいて、誰かと喧嘩して大人から怒られたという噂は毎年耳に入る。
なのでイジメが存在していたとしても手は出さず、ゴールデンウィーク明けのタイミングで不良デビューして周囲を遠ざけることで、イジメを解決したと彼は語った。
不良になった経緯を聞いた井原葵は眉を寄せる。
「それは解決した、なんて言えないんじゃない?」
「でも、イジメられなくなったんだから解決ですよ。俺にとっては」
ちなみに武術を習っていたのは小学生の頃なので、喧嘩しても習い事の癖というのは残っていない。
「なので、俺はなんちゃって不良だったんです」
校外で問題になったのも、この前のカツアゲしか聞かず、校内でも他の不良ともめても、殴り合いの喧嘩は起こしていない。
あってもガンを飛ばして睨み合うだけで、暴力を伴った揉め事に発展した事はなかった。
一般の生徒と一部の不良生徒からは敬遠されていた様だけれど、人を傷つける問題行動の過去はない。
「そうかもね。話すと案外普通で、退屈だけはしないし」
「本当? ならっ!」
パッと振り返る彼に、背中をみせた状態で否定の言葉を重ねた。
「それとこれとは関係ありません。退屈しないがイコール一緒にいて楽しいとは別でしょう?」
そうかもしれないと矢車貴久は一つ頷く。
「そうね、バレンタインデーに女の子からチョコを渡されるけど『好きな人がいるから受け取れません』って断るくらいしてくれないと」
提示された条件に視線を斜め上に向け、メガネの位置を直して目を眇める。
「バレンタインデーなんて、まだ先じゃないですか……どうせ先生のことです。女の子のチョコを断っても付き合ってくれないんでしょ?」
「当たり。分かっているじゃない」
疑う彼に井原葵はガラスに向けて微笑を浮かべる。
「それくらいしてくれるほど相手には私を好きでいて欲しいけど、高校生男子とは付き合いません」
「俺は先生以外考えられないんですけど。前の不良だった時は話しかけてもこなかったくせに、見た目がこうなってから告白してくるなんて女子を好きになれそうにないんで」
確かに変わってからは、別の意味で女子の目を引き、こうしている今も離れた席に陣取る女子高生くらいの三人が、ちらちらとこちらを見ては何やら囁き合っている。
『なに? 痴話ゲンカ中?』『えっ、ホントに? 声かけよーと思ったのに。残念』『今いったら、修羅場になるって』
会話が微かに聞こえ、わいわいお喋りが盛り上がっているのが伝わってくる。
それに学生時代じゃあるまいし、ハンバーガーショップでデートは無いと頭を振った。
そんな見知らぬ三人のお喋りは無視して、井原葵は相手に言う。
「それは先生だから不良だろうと矢車君に声をかけていただけです」
彼は都合の悪い彼女の正論を無視する。
「俺は、不良だった時も他の生徒と同じ様に話しかけてくれていた人が良いんです」
そう主張する好意をスルーし、彼女はある指摘する。。
「だったら私よりも生徒指導の先生の方がよっぽど話しかけてたじゃない?」
「全部無視してたんでノーカンです。そもそも男性じゃないですか」
該当の教師は生徒指導なだけあり体育教師ほどの体格ではないが、下手に向き合うと反論しづらい雰囲気がある。
「でも、矢車君の理屈を当てはめるなら、一番喋ってたんだからそういうことでしょう?」
いじわるを口にする井原葵の言葉に、彼は想像してしまって必死に首を横に振って否定する。
「えっ? マジで? そういうこと? ヤダヤダヤダ! ないって! 俺は普通でそっちのけは無いし、そんな気で指導や注意を理由に声をかけられてたかと思うと、恐ろしすぎるんだけど!?!」
動揺する声に井原葵は少し胸がすく感じがした。
しかし、ただでは転ばない矢車貴久は、妙案が浮かんだと言わんばかりに勢い込む。
「そうだ! 生徒指導を断るために先生、俺と付き合ってくれませんか?」
彼は身体を捻って振り向き、彼女の後頭部に問いかけた。
こんな時でもアプローチを挟んでくるあたり仕方ないと呆れつつも、口元に笑みを浮かべながらはっきりと答える。
「嫌です」
「何で?! 生徒が困っているんですよ?」
「お断りします。偽りの恋人役なんて出来ません」
「相手は教師のうえ、男なんですよ! 俺にはそっちの趣味はありません。だから、悩める生徒を助けると思って!」
顔を青くして慌てふためく彼の変化に思わず口元がより緩む。
「愛の形は様々なんです。良かったね、学べて」
厳格そうな口調を装って頷き、ハンバーガーに手を伸ばす。
「そんな!? 知りたくないことを学ばされてショックしかないですけど。本当、顔合わすの怖いじゃないですか!!」
学校では困らされているので、今日は逆に一泡吹かせた気がして、久しぶりのハンバーガーがより美味しく感じた。
「ねぇ、聞いてます?!」
背中に戸惑った声がかけられるが、決して振り向かずに自分のトレイに向き合った。
……続く。