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猫の王国  作者: 青柳蒼枝
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第4話「刺繍屋と白猫の娘」

娘の白い猫と一緒に刺繍屋を営む女性。

その瞳には寂しさが宿っている。

彼女がどうやって王国に転生してきたのか、

そして何故、刺繍屋を営むことになったのか?

穏やかで寂しい、刺繍屋の女性の物語です。

 穏やかな王国の日差しの下で、私は刺繍をしています。

 今日はお店に置くためのハンカチへの刺繍。お花柄が人気ですが、鳥や猫さんの柄も好まれるのです。

「よお、元気にしてるかい?」

 少し掠れた低い声が、私の針を持つ手に影を作りました。

「まあ、京さん……」

 この街で口入れ屋をしている黒猫の京さん。この猫さんは、自分が仕事の世話をした相手には必ずどうしているかと顔を見に来て下さる面倒見のいい方です。

「どうだい、刺繍屋の方は?」

「ええ、最初はハンカチやリボン程度しか売れませんでしたけれども、最近は洋服への刺繍も任せて頂けるようになりました。これも京さんのおかげです」

 私は逆光で表情は見えませんが、きっと嬉しそうに目を細めているであろう黒猫さんに向かって微笑みます。

「そんな事ったねえよ。お前さんの刺繍の腕がいいのが世間に広がっているだけだぜ」

「でも、最初にその運を下さったのは京さんですよ?」



 そう。私が初めてこの黒猫の京さんと出会ったのは、王国に転生してまだ数日の事でした。

 宿に娘の白猫を残し、私は役所に向かっていた時の事です。少し天気が薄暗いなとは思ったのですが、まさか急に雨が降ってくるとは思わず、私は慌てて軒先に避難をいたしました。

(なんて間が悪いのかしら……)

 空を見上げながら私は溜息をつきました。どうやら本格的に降って来そうで、だんだん空が暗くなって来ます。

(仕方が無い。濡れるのを覚悟で宿まで走ろうかしら……)

 1人宿に残した娘が心配で、そう覚悟した矢先、私の隣に黒い影が飛び込んでまいりました。

 黒い羽織を羽織った黒猫。その猫さんも雨に濡れてしまったのか、しきりに前足で顔を拭っていたのです。

「おや、お前さんも雨に降られたんかい?」

 低い掠れた渋い声で、その黒猫は私に話しかけてまいりました。

「ええ。お役所に行こうと思いましたら急に雨に降られて仕舞いまして。そうしましたら役所もお休みで……」

「今日は雨の日だから役所は休みだぜ?」

「雨の日? ですか」

「雨の日を知らないのかい。って事は、お前さん、最近転生してきたんだね?」

 顔を拭いながら、黒猫さんはちらりと私の顔を見て納得したような表情をいたしました。

「はい。この3日前に娘と一緒に転生して参りまして、今日はお役所に色々と聞きに行こうと思ったのですが、急に雨が降ってまいりまして……」

「一緒に転生してきたつう娘さんはどうしてる?」

「今日は宿に残して参りました」

「じゃあ、あんたの事心配してるな」

 そう言うと黒猫さんは、ぱっと着ていた黒い羽織を脱ぎ私に手渡しました。

「大して役にや立たねぇまのしれないが、こいつを被って宿まで走りな」

「でも、貴方は……」

「こっちは雨が降るって知ってて出て来ちまったんだ。気にするこったねえよ」

「でも……」

「直ぐじゃなくていいぜ。落ち着いたら返しにくりゃあいい」

 そう言うと黒猫さんは懐から何かを取り出しました。

「オレの名は京。この辺りの口入れ屋をやってるモンだ」

 そう言って、屋号と名前を焼き入れた薄い木札を渡してくださいました。

「口入れ屋の京、って言えば店の場所は誰でも教えてくれらあ。じゃ、お前さんも早く宿に帰ってやんな。娘さんが寂しい思いして待ってるぜ」

 そう言うと黒猫さんは雨の降る中を走って行ってしまわれました。


 宿に戻って手渡された木札を見せて話しをすると、京さんは大変、名の知れた方でした。黒猫で黒い着物姿。一見すると無愛想で冷たい雰囲気がありますが、実は情に篤く面倒見の良い方だとか。

 部屋に戻り、お借りした羽織を乾かし当て布をしながらアイロンを掛けると、その黒い羽織の背中の部分の生地が薄くなっているのに気がつきました。

 随分と長い間、着続けていらっしゃる様子。このままでは生地が破れてしまうのでは? と心配になり、お返しする前に勝手だとは思ったのですが、白い糸を購入し、背中の真ん中に大きく木札に描かれていたのと同じ○の中に京の字を入れた柄と、その上に桔梗紋をあしらうようにして刺繍させて頂きました。

 しっかりと刺したので、これなら生地が薄くなった所も分かりませんし、羽織もまだずっと長く着られると思います。

 後日、それを持って京さんの口入れ屋に娘と共に訪れました。

「おお、あんたはこの間の雨の時の」

 お店に入ると、京さんはその日も黒い着物姿で私達を迎えてくださりました。

「この間は羽織をお借りいたしまして大変助かりました。それをお返ししようと思いまして」

「そうかい。わざわざすまねえな」

 そう言いながら、京さんはわざわざ手ずからに私にはお茶を、娘にはミルクを入れてくださいます。

「これがお借りした羽織です。ありがとうございました」

 そう言って私は刺繍を施した羽織を京さんに渡しました。

「ありがとうよ……!」

 京さんは羽織を受け取ると直ぐ、私の刺繍に気づかれます。

「こいつは……!」

「あの……。差し出がましいとは思ったのですが、お背中の部分の生地が大分薄くなっておりましたので、勝手とは思いましたが私に出来る精一杯のお返しという意味を込めまして紋を入れさせて頂きました。お気に召して頂けるとよいのですが……」

「いやいや。こいつはスゲえな……」

 そう言うと京さんは羽織を広げ、私の刺繍した背中の紋を驚いたように見つめます。

「そう言やぁお前さん、最近転生して来たって言ったよな?」

「はい。娘と一緒に……」

 そう言って私は、横でミルクを飲んでいる白猫の娘の頭をそっと撫でました。

「少し長い白い毛に深い青の瞳。綺麗なお嬢さんじゃないか」

「ありがとうございます」

 娘を褒められ私は嬉しくなります。

「ん……? お嬢ちゃん、転生したの初めてかい?」

「転生……?」

 娘はミルクを飲む手を止め、首を傾げながら京さんを見つめました。

「転生して来る猫はな、人間界に行くと王国の事は忘れちまうんだが、戻ってくると姿形はかわっても王国の事は思い出すんだよ。だが、このお嬢ちゃんは王国の事を知らないみたいだ」

 京さんは王国では名の知れた口入れ屋さんです。転生を繰り返している猫さんは、その度に京さんのお店を訪れるそうです。

「ええ。こちらに転生してきた時も私達は何も解らなかったものですから、周りの猫さん方に色々と尋ねながらやっとお役所で住民票の登録が出来まして。じゃあ、娘が王国の事を何も知らなかったのは」

「そうさ。この娘は王国で産まれて初めて地上に降りた魂を持つ猫って事だ。そうか……。初めての転生でお母さんを見つけて来たんだなあ……」

 そう言うと京さんは、何やらうっとりと優しそうな瞳で娘を見つめます。

「何度何度も転生しても、一緒に王国で暮らせる飼い主が見つかる猫は少ないんだ。そうか、初めてか……」

 どうやら娘は、大変珍しというか、希有な転生のようでございました。ですが私にとっては、そんな事など意味のないほど大切な存在です。

「で、お前さんはこれからどうするつもりだい? まあ、時間はたっぷりあるんだ、ゆっくり考えればいい。解らねえ事や、知りたい事、どんな詰まらねぇ話しでもいい。何時でも話し相手になるぜ」

 そう言ってくださった京さんからは、本当に温かい雰囲気を感じました。

「実は私……」

 そんな京さんの雰囲気に当てられ、私は口を開きました。

「実は私は、ここで夫を待っているんです」

「旦那さんを? 一緒に転生したんじゃなかったんかい?」

「ええ。夫は職人をしておりましたが戦争に行くことになりまして、それが決まって、自分が出て行った後、私1人では寂しいだろうと白猫を貰って来てくれました。夫が戦争に出るまでのひと月ほど一緒に娘を育てておりました時、昔私が祖母から聞いた猫の国の話しを夫に致しましたところ、先にその猫の国で待っていると言って出かけて行きました。ですが転生しても夫は見つからず、行き違いになったのか、夫がこの国を見つけられないのか解らないのですが、先に着いた私と娘の2人で夫を待とうと思っております」

「お前さんはどうしてこの国に?」

「夫が戦争に出て直ぐ、私の住んでおりました街が攻撃されまして……」

 逃げる暇もなく、私は娘を抱えたまま瓦礫の下に潰されました。

「お前さんが先に来ちまった、って事もあるなあ……」

「そうかもしれません」

「……」

 私の話を聞いて暫くは黙っていた京さんでしたが、ふと目を上げて私の顔を見つめました。

「お前さん、刺繍屋をやらねぇか?」

「刺繍屋ですか?」

「ああ。さっきお前さんがオレの羽織に刺繍してくれた腕は大したもんだった。あれなら十分商売になる。この辺りで刺繍を生業にしてる奴はオレは知らねえ。お前さんの腕ならきっと繁盛する。繁盛すれば人が来る。人が来れば嫌でも噂は広がる。そうすれば後から転生してきた旦那さんの耳にも入るってもんだ。どうだ?」

 刺繍を生業に……。とても魅力的なお話ですが、私は直ぐには理解出来ませんでした。

「少し、考えさせてください……」

 そう言ってその日は、京さんのお店を後にいたしました。


 そう返事はいたしましたが、暫く考えた後、私は京さんに娘と一緒に住みながら刺繍屋が出来る店舗と住居が一体となっている家を紹介して頂き、無事に刺繍屋を開店することに致しました。

 私の出来る事といったら、生前毎日のようにやっていた刺繍くらいなもの。それでもあの京さんは魅力的な商売になると踏んでくださったのです。

 店を開店して、最初はハンカチやリボン等に刺繍した小物を扱っておりましたが、京さんの羽織に刺繍をしたのが口コミで広がり、羽織や袢纏等の刺繍の依頼から始まり、洋服のリメイクへの刺繍やお直し、袖口、襟元の布地の補修替わりの飾り刺繍などもお願いされるようになりました。

 洋服への刺繍依頼が増えてきた中、私に一つ、とても大きく大事な仕事が舞い込んで参りました。ですが今の私は、中々その仕事に手を付けることが出来ずにおります。

「お母さん、そろそろお出かけの時間じゃない?」

 店の奥から可愛い娘が姿を現しました。

 美人で気立ても良く、そしてセンスも良いという事で、お客様からの人気と信頼もある出来た娘です。

「そうだったわね、ありがとう」

 私は針を置くと、陽当たりのいい店先の椅子から立ち上がります。

 今日は頼まれていた物を納品する日です。

 店を閉めると、既に箱に入れておいた注文の品を抱え、娘と一緒に店を出ました。


 メインストリートに出て少し歩くと、そのお客様のお店が見えて来ました。瓦屋根に白い洋風な壁、テラスの付いたお洒落な洋食屋さんです。

「こんにちは、刺繍屋です」

 私はお店の前で声を掛けました。

「いらっしゃい。お待ちしてました~」

 丁度、昼と夜の休憩時間なのだろう。お店が閉まっていましたが、カランカランと明るいドアベルの音が響き、扉が開くと元気な三毛猫の女将さんが姿を見せました。

「楽しみに待ってたのよ、刺繍屋さん」

 女将さんは嬉しそうに微笑みながら私と娘を店の中へと招きいれてくださいました。

 案内されると、そこはお店の中でも日差しがたっぷり入り、外が良くみえる一番良い場所です。

「さあ、見せてちょうだい」

 ワクワクとしながら女将さんが待っています。

「では先ずテーブルクロスを」

 私はそう言って広々とした木製のテーブルの上に、持って来た箱から白い麻の布を広げました。

「まあ! なんて華やかで綺麗なの!」

 ぱあっ、と布を広げられたテーブルが、一瞬のうちに花畑へと変わりました。

 丈はお客様が椅子に座ると、丁度膝に掛かる程度の長さです。

「テーブルの上の食器やお食事の邪魔にならない程度、ギリギリまで刺繍させて頂きました。それと、今回は初めてでお試しという事でしたので、一年中使えるよう四季の花を入れてみましたがいかがでしょうか?」

「素敵だわ! テーブルにほんの少し掛かる花の小さな蕾がまたとてもお洒落ね!」

「それと、椅子の数に合わせて4枚、1枚づつ四季の花を一つあしらった膝用のクロスもお作りしてみましたが」

 私は、テーブルクロスに刺繍したのと同じ花を一つづつ刺した膝がけのクロスを三角に整えて立てて置く。

「まあ! テーブルの上にお花が咲いたわ!」

 一輪づつではあるが、食器を並べた時に邪魔にならない程度に花を刺してみたのです。

「本当、刺繍屋さんにお願いして良かったわ! センスが良いって評判だったけど、こんなに素敵なクロスを作って来てくださるなんて、夢のようだわ!」

 女将さんは頬に手を当てて涙ぐんで喜んで下さる。こんなに喜んで頂けるなら、私も刺繍のしがいがあったと思います。

「ここは、お昼の特別ランチのコース用のテーブルにしましょう! きっとお客さんも喜んでくださるわ!」

「喜んでいただけて嬉しいです。ありがとうございます」

 私はそう言って女将さんに頭を下げた。

「そんな事ないわ。こんな素敵な刺繍屋さんが王国に出来たなんて素晴らしい事よ! 私もこれからどんどん刺繍屋さんの事を宣伝するわね!」

 こうして喜んでくださるお客様がいて、それがまた新たなお客様を呼んでくださる。小さなお店だからこそ、こういう笑顔を大切にしていきたいと願わずにはいられません。

「じゃあ、お代の方は明日お店に届けに行きますね」

 請求書をお渡しすると、華やかな笑顔のまま女将さんが応えました。


「女将さん、喜んでくれて良かったね」

 帰り道、横を歩く娘が嬉しそうに話しかけてきます。

 箱を開けたり、中の品を出したりするだけだでしたけれども、娘は娘なりに私の手伝いをし、出来上がった刺繍に驚き、喜んでくれた客を見て幸せを感じていたようです。

「疲れたわね、少し休んで行きましょうか」

 そう言って私は、娘が好きなみたらし団子の店の前に座りました。団子は初めて王国で一緒に食べた甘味です。同じ物を一緒に食べられてたという事が余程嬉しかったのでしょう、みたらし団子は娘の大好物になりました。

「お団子を二人分お願いします。お茶は私が緑茶、娘はほうじ茶で」

 娘にはまだ緑茶が渋いようで、初めて飲んだ時は目をぎゅっと瞑って眉間に皺を寄せていたのを覚えております。

 甘くてしょっぱいお団子が運ばれてくると、娘は嬉しそうに手を伸ばしました。

「気をつけて食べてね。またお口の周りがベタベタになるわよ」

 初めてお団子を食べた時、慣れなかったのでしょう、口の周りが茶色い餡でベトベトになってしまいお店の娘さんから温かいタオルを貰って拭いてあげたのです。

「もう大丈夫よ、お母さん」

 そう言って娘は嬉しそうにお団子を一つづ食べ始めました。そんな娘の姿を見ながら、私の心はつい夫へと向いてしまいます。

(早く来て、あなた……。私も娘もずっと待っております……)

「あ、お母さん」

 娘がふと何かに気がついたようで、私の耳元にそっと声を掛けてきます。

「後ろの人、ほら、お母さんが前に刺繍をしたのを持ってるわ」

 言われてそっと振り返ると、焦げ茶色の猫さんが抹茶色の手ぬぐいを持っておりました。その手ぬぐいに刺された刺繍の柄は、確かに私が前に乞われて刺した物です。

「よお麦、おめえ、随分と洒落た手ぬぐい持ってるじゃねえか」

 煙草で枯れたような声が後ろから聞こえて来ます。

「葵がボクに頑張れって言って、プレゼントしてくれたんです」

「てめえの麦の字を麦の穂が囲ってるなんざあ、粋な柄だぜ」

「新しくできた刺繍屋さんのお母さんが一緒に考えてくれたそうで、麦の穂の柄が良いって言ってくれたのはそのお母さんだそうです」

「へえ……、刺繍屋ねえ。そんな店が出来たんだ」

「ほら、口入れ屋の京さん。京さんが着てる羽織の背中の模様、あれを刺繍してくれた方だそうですよ。それを知って、葵がお願いしに行ったみたいで……」

 手ぬぐいを持っている焦げ茶色の猫さんは、ちょっと恥ずかしそうに言っていますが、恥ずかしいのは話題にされている私の方もです。頬が熱くなるのを感じます。

「麦よ、おめぇのカミサンは尻を叩くのが上手ぇなあ」

「カミサンなんて師匠……。ボクと葵はまだ結婚してませんって!」

「そんな事たぁ知ってるぜ。オレが言いたいのはそういう意味じゃねえ」

「はあ……」

「こいつぁオレの持論なんだがな、カミサンってのは『神さん』って意味で、最初は出来の悪い亭主をあれやこれや尻を叩いて一人前に育てあげる、出来る女、って事ったよ。ほれ、お天道様がこの世界を作ったみたいにな」

「そういう意味での『神さん』なんですか」

「大体おめえ、朝飯作ってもらって、帰れば晩飯が待ってて、こうして仕事に出る時は弁当持たせてくれてるだろ? そんないい女が『神さん』でなくて何だってんだ?」

「ごもっともです……」

「オレなんか、一人立ちして弟子持つようになって初めてカカア、って呼べるようになったぜ」

「『神さん』から『カカア』に昇進ですか。じゃあ『嫁さん』ってのは?」

「尻を叩かなくても旦那がちゃんと働くように育てあげて、自分は家の事だけすれば済むようになった上級の女って意味だな」

「ははは。まるで世間の言う事とは逆ですね」

「逆で結構! オレには仕事は一人前だが、家に帰りゃあ尻を叩かれる『カカア』ぐらいが丁度いいんだ」

「師匠それ、甘えてるんじゃないんですか?」

「甘え? それでも結構! カカアはそいつを解ってオレの尻叩いてるんだからな。それも愛情ってもんだぜ」

「敵わないなあ、師匠は……」

「いい『神さん』ってのは、いざと言う時も狼狽えず、旦那をしっかり引っ張って支えてくれる女だよ」

「そしたら葵は本当に『神さん』かもしれないな~。転生してさっさと仕事見つけちゃうし、ボクが師匠に出会うまでの間だって何も言わずにずっと見守ってくれてたもの。うん、葵はいつまでも『神さん』か、きっと『カカア』なんだろうな~。あの人が大人しく家を守るだけの姿なんて想像出来ないもの」

(『神さん』……)

 私の中に二人の会話に出てきた『神さん』という言葉が胸に刺さりました。

 今の私は、刺繍をしながら夫を待っているだけの女。もし夫が転生してきたら、その後あの人がこの国に慣れるまで支えてあげられるかしら?刺繍屋をしながら、いつ夫が転生して来てもいいように、しっかり待つ女……。そんな女になれるかしら?

「お母さん、大丈夫? 疲れちゃったの?」

 じっと綺麗な緑色のお茶の色を見つめている姿に不安を持ったのか、娘が声を掛けてきました。

 そう。娘だって本当は夫に会いたくて仕方ないのに、一言も寂しいとも、早く会いたいとも言ったことがない。何時も私の事を考えて、私を心配してくれている。

 それなのに私ばかりが夫を寂しがっていてはダメだ。

 私は、これから転生してくるであろう夫だけではなく、娘を持つ母でもあるのです。

「大丈夫よ。まだお仕事があるし、帰りましょうか」

 私はそう言うと娘の頭を撫で、席を立ちました。

 まだお団子を食べる猫さん2人に、そっと頭を下げ会釈をすると、私は娘の手を引いて店に戻ります。

 『神さん』

 素敵な言葉だ。

 私も頑張ればなれるかしら? いや、立派な『神さん』になって夫を迎えなければ!


 店に戻ると、私は奥の仕事部屋に入りました。

 昼間は店で、陽当たりの良い場所でハンカチやリボン、手ぬぐい等の小物の刺繍をしながらお客様に対応。そして夜は奥にある仕事部屋に入り昼間納品したような大きな物を刺繍します。

 今、私の目の前にあるのは真っ白いウェディングドレス。黒サビ柄の猫のお嬢様がお嫁に行くというので頼まれたものです。

 生前の私は、夫の家も裕福ではありませんでしたが、子供の頃から好きだった刺繍で、何とかショールとヴェールを作りそれを羽織って夫の家で親族だけの酒宴を行いました。

 それでも自分で自分のために用意した結婚用のヴェールは大変気に入っておりまして、王国に持って来る事は出来ませんでしたが、私の良い思い出の品でした。

 なかなか子供が出来ず、周囲から離婚を迫られる中、夫は頑固として私を妻として愛し続けてくださり、そんな優しい夫に私は甘えてながら、細々と刺した刺繍の布を売って生活の足しになどしておりました。

 ドレスを前にして、ふと生前の頃の私を思い出しました。

 先に娘と一緒にこの優しい王国に転生した今、私に出来る事は夫を信じて待つだけ。そして、夫が転生して来ました時には、先に来ていた私が夫を支える番。

 きっと戦場で心が傷ついているはずです。そんな夫を慰め、癒やし、支えることが出来るのは私と娘しかおりません。

 昼間聞いたあの『神さん』という言葉と意味。今の私には熱い石のように心の中で重く燃えています。

 転生が遅れている夫を、ずっと心の中で涙を流しながら待っていた私は、目の前のウェディングドレスに刺繍をすることは出来なかったのです。このドレスを着る猫のお嬢さんに幸せになってもらいたいと願うはずなのに、自分の悲しみに負けてしまって針を刺す事が出来なかった。

 でも今は違います。

 私が刺繍したこのドレスを着るお嬢さんも、きっとこの先、色々な困難に会うと思うのですけれども、『神さん』として愛する旦那様を支えて行って欲しいのです。そう願いながら私は針と糸を取ると、真っ白なドレスに真っ白な糸で刺繍をして行きます。

(頑張ってね。貴女が立派な『神さん』である事が、この先の貴女方を幸せにしてくれる。そして何時かきっと、素敵な『お嫁さん』になれるわ)

 私は、あの黒サビ柄のお嬢さんを思い浮かべながら、一針一針、想いを込めて針を刺し続けました。


 ドレスが完成し、それを届けてから数日の事でした。

「刺繍屋さん! 刺繍屋さん!」

 この店の大家猫さんが、慌てて店に走り込んでまいりました。

「あら、大家さん。どうなさったんですか?」

「転生だよ! 人間の転生者だ!」

「転生者?!」

「ああ、人間の男性だ。戦争に行ってたみたいにボロボロな服装を見たけど、あれは絶対刺繍屋さんの旦那さんだよ! 早く行ってきな! 店は私がみといてやるから」

 女将さんのような虎ジマ柄の大家猫さんは、私の転生の事情を知っています。だから、急いで私に知らせに来てくれたのでしょう。

「お父さんが転生して来たみたいなの。早く行きましょう!」

 私は娘の手を取ると、急いで街の中心部に向かって走りました。そこをボロボロの服を着た男の転生者が歩いていると聞いたからです。

「あなた!」

 遠くから見ただけで、私は直ぐその転生者が夫だと解りました。怪我はしておりませんが、何しろ戦場で着ていた服のまま。埃まみれのボロボロです。

「ああ、やっと会えた……!」

 夫も直ぐに私だと気づいてくれたようで、一直線に私と娘の方へ走って来ました。

「すまない……。遅れてしまって本当にすまない……」

 そう言うと、涙ながらに私の体を抱きしめたのです。

「いいんです。絶対来てくれると信じてましたから」

「迷ってしまったんだ。どうやったら王国に着けるのか解らなくて……」

「離ればなれでしたからね、仕方ありません。謝らないでください……」

 震える背中を、私はそっと優しく撫で、抱きしめました。

「王国へようこそ。そして、お帰りなさい、あなた……」


 転生して家族揃った日の夜、気がつくと店に『祝』と書かれた熨斗を巻いた日本酒が1本置かれておりました。娘が、きっと京さんだね、と言って嬉しそうな表情をしていました。あの方なら、そっとそういう気遣いが出来るでしょう。


 夫は転生して数日間、きっと心が疲れていたのでしょう、ずっと眠り続けておりました。

 眠る夫の顔を見ながら、私は安堵と幸せと、これからの新しい生活に心が震える想いでした。


 目を覚まし、王国を少し歩きたいと言った夫を街の教会に連れて行きました。

 不思議そうな表情をする夫でしたが、私は腕を組んで少し無理矢理に連れて行きます。

「ほら、あなた。あれを見て」

 沢山の猫さんや人間が集まる教会の前で、私は少し離れた所から見ておりました。

 教会の扉が開くと、真っ白いウェディングドレスを着た黒サビ柄のお嬢さんが灰色毛の猫さんと一緒に出てきました。

 ライスシャワーを浴びながら幸せそうなお二人。

「あなた。あのお嬢さんが着ているウェディングドレスの刺繍、私がやったんです。転生して刺繍屋を始めて、初めての大きな幸せを願うお仕事だったんですよ」

「あれを、お前が?」

「ええ。今、私は王国で刺繍屋として名前が少しずつ知られて来ているんです。あなたが心の傷を癒やして、この王国に馴染むまで、私、しっかりいい『神さん』として頑張りますからね」

「『神さん』?」

 夫は初めて聞くその言葉に、不思議そうな顔をして私の顔を見ます。

「ええ。刺繍という糸であなたを支えて、これからの世界を彩る『神さん』です」

 娘の手をしっかりと握り、私は横に立つ夫に微笑みました。

 この幸せな猫の王国で、新たに3人で家族としての幸せを築きましょう。

 王国は私達家族に、幸せへの道を広げてくれたのです。


        おわり

今回は口入れ屋の京さん以外、刺繍屋の女性も、その娘の白猫も名前を付けませんでした。

あえて付けない事で、女性の気持ちになったり、少し離れた所で彼女の生き方を見たり。

色々な方向からストーリーを読んでいただけたら、と思っております。

口入れ屋の京さん。実はじわりと人気があります。

私も好きな猫さんなんですが。

もしかしたら、これから口入れ屋の京さんの出番が多くなるかもしれません。

ファンが増えるといいですね。

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