Release0006.彼女の名は(04)
義理の娘であるレイとの出会いは、『あの日』から一週間も経たぬ時へと遡らねばならない。
それは、二○七七年九月十六日から十七日にかけての深夜のことである。
十三日過ぎ十四日の夜中ほど。
叫びだけが木霊する都心から郊外へと逃げ延びた俺ら一同は、あの後アクアライン近辺の浮島IC付近で合流した人物に案内される形で、日本の地中奥底に隠されていた地下シェルターへと避難していた。
案内人というのは大久保が連絡を取った相手、彼女の叔父である海堂晃平。現役の自衛隊員で、当時から一等陸佐(大佐)と高い立場にあるその人だった。大久保のお陰で行動が早かった俺らは、彼のお陰で早々に身を隠す場所を確保したのだ。
その地下シェルターはまだこの先に人の都とする《地球・地下都市構想》の片鱗に触れる程度の場所でしかなかったが、一街の人々を一時的に収納する程度には規模が大きいものであり、軍から警察、警察から一般へと知らされ、俺らの後から大勢の疲労困憊な人々が降りてきたものだ。場所も数も全国的にいくつか存在していて、何個もの分隊と指揮の下、地上は激しく混沌としているの一言に尽きなかったと聞く。
しかし、どれだけの動員数があっても、一度に人を動かすには情報処理や移動その他といった様々な要素が制限を掛けてくる。そのため生存者全員がシェルターへ逃れきったとは言えない状況は、日本に限らず世界中で長丁場となるのは避けられなかった。
そんな風に、人々は各地で点々と危険な場所に取り残される日々が続いた。あるいは住んでいた場所が壊されていく光景を見て、その街や村と最後を共にしたい、なんていう最早狂気的な思考を礎に安全な場所へ逃れようとはしなかった者も少なからずいたようだが……
どういう理由であったにせよ、レイも、瞬く間に地獄と成り果てていく地上に取り残された側の一人であった。
十四日の朝方、俺は連絡が取れない弟夫妻が心配になったため、一度上に戻って安否を確認したいと晃平一等陸佐に打診もとい相談した。すると彼は信頼ある軍人を三名ほど付けると頷いてくれて、短時間で弟夫妻が住んでいるはずの千葉県神崎町へ向かう手筈を整えてくれた。
人手が足りないにもかかわらず、ただの一人の我侭にボディーガードと足まで用意してくれたのは心底有難いと思ったものだが、それもきっと民を守るためにある自衛軍、彼らの陸佐殿にとっても望むところだったのだろう。
地上に出てからの移動はヘリと軍用車両で移動した。途中までは辺地へと向かうついでに乗せてもらう形で成田空港へ、そこからは救助のために各地を駆け巡るいくつもの装甲車の一つを拝借する流れだった。
同行してくれた三名(階級的には中尉、軍曹、上等兵らしい。そう呼び合っていたはずだと記憶しているだけだが)と俺は操縦士と運転手の協力によって無事に目的地の市街へ辿り着くのだが、その道中どちらの窓からも見た光景は凄惨に非現実的だったため、今でも忘れられないものとして記憶の中に押し留められている。空の上、真ん中に座っていた俺の隣の軍曹が、反対側の窓から見下ろしながら呟いた一言には、一同否定も肯定もする気概が湧かなかった。どこを見ても火と煙が上がっているし……今にも小さく見える謎の飛行物体が急旋回してこちらを襲ってくるのではないかとヒヤヒヤしていた、なんて理由ももちろんあった気がする。言わずもがな、飛行はそれらを逆撫でしないよう操縦士の技量によって極警戒されたものであったが。
地上での移動では、倒壊した家屋、無念ながらに放置された遺体、不気味な青い粘液のような何かがこびり付くアスファルトに、それら地面を陥没させた隕石の飛来跡が主として視界に飛び込んできた。この時の隕石と言えば、もうそれが隕石なのかとは問う気にもなれまい。明らかに、隕石の特徴にあるはずのないものばかりがあるのだから。
他には引火して爆散した車の残骸に、化け物が立ち去ったことで他よりは静まっている場所で誰かが人探しに躍起になっている場面もあった。
極めつけは、減少傾向にはあったが、始まりから数時間は経っていたというのに流星雨が止んでいないことか。皆口には出さずとも、それがその前日深夜から降り始めた物と同一の流星なのだということは理解していた。今考えてみれば、ヘリの操縦士だけは、夜なのに赤々しい眼下の光景よりも、ほぼほぼ上を捉えた視界を維持していた可能性もあるのかなぁなんて思う。
そんな絶望的世界の景色は、元から人など存在していないとでも言うかのように、嫌なほど幻想的な光を放っていた。
幸い、弟夫妻は生きていてくれた。それどころかその近辺の住民からは死者や行方不明者が出ていないと聞かされ、大いに驚嘆したものだ。まあ時間が時間だったので、町の住民全員が家にいたというのも理由の一つだろう。
夫妻が住んでいた場所はそれまでに隕石が一つだけ落ちたらしいが、しかしやはり出現したディーアは隠れた人々に気付かずどこかへ去ってしまったという。余談ではあるが報告だとそれは鳥類の姿に似ていたそうで、その時点で連中の種類は日本関東圏だけでも五十種類以上にも及ぶことになったらしい。
中尉が本部へ連絡を取りながら、一行はそれによって偶然にも近場にシェルターの入り口が隠されていると知り、弟夫妻含め近隣住民の避難を呼び掛ける。化け物が近くにいる気配がなかったため、特に軍曹と上等兵は町を検めるように駆け回り、人々は可能な限り生活に必要なものを運びつつ地下空間へと身を隠すに至った。
事態が動いてから二日目(十四日)の被害状況を見てきた俺は、弟達の安全を確認したところで地下へと戻るのではなく、そのまま護衛と共に行けるところまで千葉を南下することにした。
早くも変わり果てた街や自然を痛感しながら、しかし気を確かに取り残された人達の避難誘導をするために。海堂陸佐も協力感謝すると、是非にもの言葉で認めてくれた。
神崎町からもう一度成田市へ、芝山町、山武市……そして九十九里。休憩を含めると、地上へ出てから六十五時間ほどが経過する。
果てに海岸へと到着した俺達は、そこで異様な光景を目にすることになった。
どこまでも続く薄闇色の世界。その半分を埋めた海を穿つように突き刺さる、目算で高さ二百メートルはあろうかという巨大な《青の柱》。それはまるで、西洋の剣の如く直情的で煌びやかに、宇宙を映し出すかのように輝く人知の内に無い巨大物体……
――そして、それに魅入られたように、砂浜にしゃがみ込む人影だった。
柱に対しての衝撃も相当なものだったが、それよりも意識を掴んでくる一人の人物へと思考が囚われた俺は、周囲の状況を油断なく確認した後、血相を変えながら本部・各部隊に連絡を取る彼らを置いていくように砂浜へと歩き出した。
こんな状況、こんな時、しかも既に三日目の深夜である海辺で一人佇む誰か。俺にとっては海面に聳える巨大な柱よりも、そちらの方に視線が集中するものだったのだ。
世の騒乱を忘れさせんとする意外にも穏やかな波音の浜辺。体育座りで蒼穹だった果てを見続けるのは、少々コスプレ感のある派手な衣装がボロボロになって汚れ、そして返り血を浴びたかのように青光りする粘液が左半身を主に肌まで染め上げている少女。
――それが、レイという少女と邂逅した瞬間だった。
当時のレイは十四歳、そして俺は三十六歳。傍から見れば事案ものであったかもしれない。
だが状況的に周りに人などいなかった。強いて言えば護衛の三人はいたが、しかし一般人が災害級の被害を被った時、海に逃げようなどと考える者はいまい。それだけで俺の中に膨れ上がった奇妙な感覚は、彼女を放っておくという思考を生み出すことすらも認めないものであった。
俺はなんの躊躇いもなく、波の届かない砂上を進んだ。近づくにつれ、ほぼ半身を青く塗り替えられた少女の身体が鮮明に浮かんでくる。それは少々気味の悪さを催すものだったが、その時の俺には至極瑣末なことだった。
「こんな場所でなにしてるんだ、お前さん。なにが起きているのかは分からなくても、このままここにいたら自分がどうなってしまうかぐらいは分かるだろう?」
「………」
言葉に返ってくるものはなにもなく、潮風に吹かれたお互いの髪と衣服が翻る。
この時のレイは満身創意……というよりは、まるで人形のようだった。風に動かず。声に動かず。半分ほどに閉じられた目は瞬きさえもしていなかったかもしれない。
この後も問いを重ねていくのだが、最初の方は何を聞いても一切反応せず、海に刺さる巨大な青い柱を、ただ黙々と光の一片もない瞳で見つめ続けていた。
「……名前は?」
「………」
「親御さんはどうした? まさかここに一人でいるんじゃないだろうな?」
「………」
「………」
その後もしばらく言葉のキャッチボールは一方的なもので終わってしまうという虚しい時間が過ぎ去った。貰い手はグローブも付けていないが、しかし球が軟式であればいつかは取ってくれるだろうと幾何学的な頭を働かせ続けた。
そんな時にふと思ったのは、そういえば弟夫妻の子どもを二度ほど預かったことがあるのだが、どうすればいいのか分からず苦戦だけを強いられ、その日の夜はまったく動く気になれなかった記憶があるなぁというものだった。つまり自分は子どもの扱いがなっていないと自覚しているのだが、それでも今目の前にいる少女は、その時の子よりは何歳か年上なのは間違いない。……それぐらいは正解であって欲しい。
とまで踏まえて、兄弟子のためにその後の備として学習して結局一度も役に立つことはなかった知識の中から、この年頃の少女が興味を惹くモノと言えばなんであろうかと考え込んだ。
……挙句、なんだよ、やっぱり全然分からないじゃないか、とやきもきしながら出た自分の解答を試してみるしかなかった。
「チョコ……食べるか?」
正直いきなり何を言い出しているんだレベルの脈絡もない言葉であったが、日頃から頭を使う仕事をしている分、ポケットに糖分摂取用の保存ケースを忍ばせている俺にとってその状況では一番に思いつく手札だった。研究に勤しんでばかりな俺の記憶部には、中学生ほどの女子に対する最大の知識として、まあ甘いものが好きなんだろう? ぐらいしかなかったのだ。もう少し子どもに興味を向ける必要があると反省したかもしれない。
「……?」
――なんて、滅茶苦茶な試みではあったはずのに、その筋も無い言葉に何故か少女の首が動いたという経緯がある。もしかしなくても甘いものが好きなのか、それとも空腹に苛まれていたのか、と考えはしたが……
しかし、その表情に浮かんでいたのは、きっとどちらの色でもないと思った。ただ、興味の面影が僅かにあるだけな気がすると俺にも分かった。
だから、彼女の反応の理由がどこにあるのかと考えていた俺の頭が弾き出した答えは、
「………………お前さん……まさかチョコレートを知らないのか?」
近年、チョコレートを知らない人なんて日本にはいまい。食べたことはない、ならあり得るかもしれないが。
その予測はドンピシャに的を貫く。
「…………名前を、聞いたことがある……だけ……」
ごく普通の女の子の声だった。口調やイントネーションに一瞬だけ違和感があるものの、その姿はやはり中学生ほどの女の子でしかないんだと思うには十分で、俺は見た目に半ば気後れしていた印象を、一瞬で安堵の色に塗り替えもした。
そんな子もやっぱりどこかにはいるんだなぁとしみじみしながら、「マジか、これはミルクだから甘いぞ、食ってみろ」と差し出して笑みを向ける。すると、白い髪の下であどけなく置かれていた肢体が動き出し、透明な袋に包まれた一粒のチョコレートを無遠慮に手にする。
そして少女が幾分か眺めてから起こした行動に、俺は慌てて止めに入った。
「おおおオイオイ待て待て待て! 周りの包みは食えんぞ! 中に入ってる茶色いやつだけがチョコなんだっ……あー、ちょっと貸せ」
まさか実物を知らなくても袋が食べられないことぐらいは分かるもんじゃないのか? それは俺の偏見か? と片隅で思いながら、俺はチョコを返されたところで次に手を出せと命ずる。
自分で言うのは悲しいが、少女から見たら俺は知らないおじさんでしかない。そんな知らないおじさんに言われるがまま動く少女にどういう教育を受けてきたんだろうかと同情しながら、その天使のように小さく白い手のひらの上で、昔から変わらない包みの両端を引っ張る動作を試みる――
――前に汚れていたので、除菌ウェットティッシュで仕方なくそそくさと拭いてやってから再開。くるりと回転する中身が、災厄の中で艶やかさを薄めたであろう手中に落ちた。
「それを食べてみろ」
今度こそ少女は少しの疑念もない動きで、まっすぐに口へチョコを放り込んだ。
保存ケースは特殊な機械であり、中は冷えている。チョコは品質を損なわずに食べられるはずで、その愛らしさもある口の方から固形粒を砕く音がする。
「…………!」
何度かの咀嚼で、次第に表情に生というものが現れた気がした。まるで今までは感情を封印されてしまっていたかのように、少女はその味を噛み締める。
途中に何を言うこともなく、正面に広がる海に叫ぶでもなく。ただただゆっくりと数回に渡って顎を動かし……
それが無くなった時、突如、少女は風を感じながら、地平線を反射させる左眼より水滴を一つ頬に伝わせた。そんな反応をされると微塵も思っていなかった俺は、焦りで顔が熱くなるほどに慌てたものだ。
「え、は、ちょ、なんで泣くんだ!? もしかして不味かったか!?」
隣に人がいるのを忘れていたのか、ここにきてハッとする少女は自らの顔で起こっていることに気付いていなかったらしく、顔を手で撫でるように拭った。
そして、こう言った。
「――これが…………涙?」
この言葉には、人には色んな人間と、そしてその数に伴う思考があると懐広く理解している流石の俺も、許容の範疇を越えた。
涙を知らない。涙を理解していない。……涙を流したことがない。
果たしてそんな人間などいるのだろうか?
「今までどうやって生きてきたんだ、お前……」
ついそんな言葉を投げかけてしまってから、こんな言い方するべきではないし、そもそも言わない方がいいと思う。言うにしてもやはり配慮が必要な類の話だ。
しかし、俺と同時に小さく頭を振った少女は俺の悔いを知らずしてか、無感情に答えるのみだった。
「……お祖父ちゃんと、暮らしてた」
正直、寸前までの衝撃もあって、この少女には先入観抜きで会話せねばなるまいと思考をシフトしていた。そのためお母さんやお父さんという単語が真っ先に出てこなくても、俺は無駄に驚くことはしなかった。
「……じいちゃんだけか?」
「…………うん、二歳の頃から、ずっと」
「じいちゃんは優しかったか?」
その問いに、少女は分け隔てなく頷く。
その様子を見るに、別に親から隔離されたわけではなさそうだ、とこの時は思った。まあ後になって本人の口から『二歳の頃に二人とも亡くなった』とだけ聞いている、というような話を聞いてこちらが一言謝罪することになるのだが。
「……それで、今は何を思ってる?」
とにもかくにも、急に泣き出したことだけはどうにも予測が付かなかったため、俺は直球的に訊ねることにした。すると少女は姿勢を縮こまらせて口を膝元に隠し、俯きげに言葉を発した。
「よくわかんないけど……」
「……言えることを言ってみ」
一瞬だけ、眼だけでこちらを見てくる。そこには、ついさっきまで死の世界だけにあるような眼だったはずの灰の瞳が、今を生きているんだと思い出したように淡い光を放つようになっていた。
「…………甘いって味は、好きだな……」
「……そ、そうか……」
ここらで一つ推測を立てた。
それは、この少女はあり得ないぐらいに世間知らずだということだった。
少女はまた柱を見つめる。
彼女の顔を見ると、いつの間にか表情は人形に魂が宿ったようなものになっていた。情けない話、チョコなんてダメ元でしかなかった策なのだが、少女をちょっとばかし泣かせるだけで総じて良い方向へと向かわせたようなので、結果オーライと心中に収めた。
でも、まだ色々と腑に落ちないことは多い。少女の育った環境もそうだが……しかし、それらを知るには、やはり彼女の祖父とやらに会うのが一番だと考えた俺は、その旨を提案することを決める。
のだが――
「まあいい。結局、何故ここに一人なんだ? じいちゃんはどこへいった」
その思惑というか、アテはすぐに崩れ去った。
「……隕石から出てきた……宇宙人? アレに私が襲われて、それで助けてくれたんだけど、そのまま……」
最後に「だから、もういない」と付け加えた時、俺は自分が何を思ったのか分かっていなかった。少女は肝が座っているのか感情が壊れてしまっているのか、随分とあっさりとした口調であったし。
だからなのかは分からないが、ただこの小娘をこのままにしておくわけにはいかないという一心が凄く強くなったのだけは確かだったと思う。
「……つまり、一人で逃げてきたんだな? 他に知り合いとか、友達とかは」
「……いない」
「あー……家はどの辺だったんだ」
「……家は……たて、たてやま……市?」
「ふーん、館山市か。……………………は? 館山ぁ!?」
場所の理解に及んだ俺は、声を大きくせざるを得なかった。いや知っている人なら誰もが驚くことだろう。
千葉県の最南端に位置する館山市、そして現在位置の九十九里。館山のどこからなのかにもよるが、この二つは直線で結び付けても距離が七、八十キロメートルほどある。仮に災厄の初日から逃げ始めたと仮定すると、現在の時刻までおよそ七十二時間。ならば移動を一時間あたり一、二キロメートルのあいだとなるが、それは普段から運動する者にとって超が付くほど余裕の数字だとしても、それを休息なしに三日、化け物に追いかけられる形であれこれと右往左往したとすれば距離ももっと伸びるわけで、これほど華奢で色白な少女には想像も出来ないほどの疲弊と消耗が伴うはずだ。その外見も含め常識外れなところを鑑みるに、実に箱入りだったとも考えられる。
俺は恐る恐る、「ここまではどうやってきたんだ……?」と訊ねた。
「……ずっと、走ったり、歩いたり……」
ある種の戸惑いと同時に、よくぞという思いに駆られた。
言われてから少女の靴(いやブーツ? とにかくゴシック調だった)を見てみると、確かにここ数日の苦労がそこに集約して現れていた。ソックスも裂けたように破け、点々と赤く腫れていたり切り傷で血が滲み出ていたりと乱雑に扱われたような形跡を残して。
何故ここまで会話を繰り広げておいて気付かなかったのかと自問すると、ああ、それ以上に半身の青い粘液が目立つからかもしれない、なんて自己解決しながら続ける。
「み、三日も逃げ続けたのか?」
「多分……そう? どこに行ってもあいつらが居たから……」
「……頑張ったな」
このあたりで、やっと少女の海岸へ至るまでの経緯のおおよそを掴んだ。小さな身体で、自分がどこへ向かっているのかも分からずに駆け、そしてただの自分の足でこんなにも遠く離れた地にまでやってきた彼女の意志の強さは、きっと褒められるべきことであろう。そのため労いを呟いていたのは、ほぼ無意識だった。知らないおっさんに言われても本人にとって嬉しくもなんともないのかもしれないけど。
でもお陰で、俺は頭の中に複数同時展開していたタスクを、少女を見た始めのタイミングで瞬時に花開いていた、一番の謎に向けさせることにした。
「じゃあ、その汚れはそのあいだに……?」
「……よご、れ……?」
「身体に夥しく付着したその青いのだ。俺が把握してる限りじゃ、それはあいつらの血みたいなもののはずで……どこでそれを? まさかその辺に落ちていたのを自分から塗りたくったわけじゃないだろう?」
恐らく、俺の意識が人知に無い柱より少女の影に囚われていたのはこれが理由だ。
フリル……というのだったか。屋敷貴族が着そうな衣装のどこにでも飛沫したそれらは、先日大久保が敵のなんたるかを車で突き飛ばした時に付着した粘液などに酷似……というかそれそのものだと思われた。それが身体にべっとりと付いていながら、しかし少女はこうして生きているし、切り傷といった損傷はあれど、化け物のあの巨躯と衝突したような怪我は負っていない。
となると、この小さな身体に青の粘液が付く状況というのは特に三つ思いつく。
敵の動向や生態が分からないわけだが、いかなる理由によってか体液を撒き散らすような固体がいた可能性。
そして、ついさっき口にされた祖父の件について。それは少女自身が襲われたという話なのだから、その祖父と化け物のあいだ、あるいは少女自身か化け物単体での状況に於いて、なんらかの物体がその役割を果たしたか。
最後は、やはりあり得ないだろうが、少女自身からこの謎の粘液を浴びにいった、もしくは擦り付けた可能性。これは極端に酔狂者か知的者かの二分となるだろう。酔狂者に関しては言う言葉はないが、後者の場合、もしかすると同一生物なのだと擬態する目的意思があった可能性も否定出来ない。自身に臭いや色を付け、動物の仲間だと思わせるさして珍しくもない方法だ。
まあそれが連中に通用するのかは知らないことだが――しかし、彼女の衣服の汚れ方を見るに、これは最初に思ったとおり返り血としか到底思えなかった。であればこの三つ目の可能性は一番に否定される。そして、二つ目もまた同じく否定である。
あることを思い出せば容易にその判断となるのだ。星が落ちた時、連中は拳銃の発砲にさえその血の一滴も流さなかった。硬いのか未知の細胞なのかはこの際どうでもいいとして、銃弾でさえあれほど低効果に退けてしまう化け物の身体が、果たしてその辺の物理的攻撃・衝撃によって血を撒き散らすものだろうか?
故に、可能性が高いこととして頭にピックアップされるのは、敵の生態がはっきりと分かっていない以上、人にそういった粘液を掛けてくる習性を持った個体がいるのかもしれない、という一つ目となる。
間を置き、やがて少女は問いの答えを言うのだが、その言葉は俺の予想の全てと違っていた。
「……これは、襲われた時――お祖父ちゃんが私を守ってくれた時に……付いたんだと思う。……宇宙人がお祖父ちゃんを食べちゃった後にね、なんか……自分の身体を食べ始めたの。食べたお祖父ちゃんをもう一度食べてしまうように。あんまり覚えてないけど、その時……なの、かな……」
弱々しく語られる話を聞けば、まだ年端もいかないと言えるだろう少女にとって非常にショッキングな光景でしかなかっただろう。守ってくれた、の後にそこまで見てしまっているのは、きっと放心状態になりかけていたか恐怖に足が竦んでいたからに違いない。
そこで俺が言ってやるべき慰めの言葉はいくらでもあったのだと思う。だけど俺は、数日に渡って思考停止しかしていなかったある事に対する重要な情報が少女の言葉の中に混ざり込んでいたことに気付き、思わずその肩をガシっと掴んでしまっていた。
「ちょちょ、ちょっと待て! いま“自分の身体を食べ始めた”って言ったか!?」
おっさんの顔が近くなったからだろう、ビクッと震える反応を示した少女は、おどおどしながら「うん……」と答えた。
俺は我も忘れる速度でその場に思考をした。
(自身の顎で身体を噛み砕いたということか? 咬合力が銃弾より強い、そんなのは珍しくもないが……いや、あるいは……?)
そんな時、ついにどこかからか轟音が伝わってきた。近くはないが、しかし遠くもない海岸沿いに、例の隕石が落ちたらしいことを示す合図であった。
ようやくと俺は現世がどのような状況であるのかを肌に思い出し……
「そ、そういえば聞くだけ聞いて名乗るのを忘れていたな。俺は凛界修だ。で、お前さんは?」
礼儀に欠けた情報を埋め合わせながら、その場所に長く居すぎたとまたもや反省をする。
今度の少女は無反応ではなく、しっかりとその口で答えてくれた。
「――――レイ…………《レイドット・レイス》」
その後は三日三晩の疲労と怪我を負った少女を背負いながら(もちろん承諾を取った上で)、なんだこいつ軽すぎるぞと思いつつ護衛と共にシェルターへと向かったのだ。
とまあ昔(といっても一年ちょっと前のだが)の話はそんなところである。これがレイを義理の娘として迎えることになった大まかな流れだ。
家族という枠組みでみればまだ短い付き合いではあるが、しかしその後の期間で、レイはそこそこ人間らしくなった。
好物はシュガートースト。最初にくれてやったチョコレートで覚えた《甘味》が感動的過ぎて忘れられないのだという。不思議に無邪気を混ぜた面持ちを見せられた俺は、その甘さにも色々あるぞと揚々として色々な食べ物を食わせてやったものだ。
唾液によって新たな味へと昇華する米の麦芽糖や、潤いを含んだ果実、もちろん市販で流通する洋菓子関連など。今じゃ入手はそれなりに困難するものだが。
そして、最終的に砂糖とマーガリンを使用した温かみのあるシンプルなパンにどハマりしてしまったわけである。シュガートーストなるものを初めて口にした時のレイが眼を爛々と輝かせているように見えて、俺はその一瞬の瞬きを額縁にでも収めてやろうかな、なんてよく分からない感想をボソりと言った気がする。口元に砂糖粒を付けた少女は首を傾げ、再度焼き菓子に小さな口で夢中に齧り付く様は、小動物のように可愛らしかった。
引き取った直後にも色々とレイのことを聞いたのだが、やはり俺と出会うまでの人生は外との関わりを遮断され、狭量としていたみたいだ。
所謂お嬢様というやつで、本人は祖父が危険より守るためにしてくれていることなのだと文句の一つどころか感謝しかしたことがなかったそうだが、俺からすればそうやって育ち盛りの年齢なのに学校にも行かず、所有していた大きな屋敷内で雇われた家庭教師と住み込みの家政婦などの人物としか会話をしない過ごし方は、なんとも過保護――いや、閉じ込められているように思えてならない。
暇な時間は飼育されていたペットと遊ぶか(唯一の友達と言えたかもしれないらしい)、書斎の本を延々と読み漁る生活をしていて、外に出ることはあっても広い敷地内と外界を区切る門の先には行ったことがなかったという。
一言で、不自由だ。
その反動なのか、レイは随分と好奇心が旺盛だった。お陰でこちらも色々と接しやすいことには接しやすかったのだが、それと同時に、《甘味》さえ教えてやらない歪んだ育児体制には、少しばかり直談判したいなどというモヤモヤな気持ちに駆られてもいた。
だが、彼女曰く親族はもう誰もいないはずだと、それは自然消滅するまでずっと胸中に残り続けることになった。
……いや、待てよ。
そういえば、犬が唯一の友達というのには訂正を入れなければならなかったのだな。
三日に渡る逃避劇の前、屋敷で過ごしていた頃。
レイには「パティ(犬の名)」という友達の他に、「クノーユ」という友達がいたのだそうだ。
結局それも人じゃなくて、ぬいぐるみの姿で腕の中に収まり続けるだけのものだったそうだが。