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崩壊のディーア  作者: 朔望
零刻 -地球と理想郷-
5/90

Release0005.錯綜の世(03)

字数:8.5k

2025年 改稿




 目に映るのは白ばかり。境界を引く数多の黒と青緑色の線がなければ立ち所も見失ってしまいそうなそこは、遥か先に天井を見る高層物の中だった。

 観葉植物に挟まれた茶色の長椅子が一定間隔で設置された、横幅十メートルはあるまっすぐな通路。中心部は円形に広がり、また両側へ同じような道が延びている。十字と、十字より小さめの丸が重なるようにして出来る屋内。数階層間に渡り吹き抜けた中央エントランスの様相は、どこかの近未来センターとでも形容するしかなかった。

 そして各通路は、東西南北に(のっと)って作られている。東側へ少し進んだところにある部屋の入り口には《第一対策実験場》と示された電子札が貼られ、それが一角に目掛けて第三まで続いている。

 その実験室三部屋に向かった南側には、休憩所、更衣室、倉庫がある。


 確かに近未来センターという表現が相応しく思える中で、俺は長椅子に腰を落ち着けて一服していた。煙草など身体に毒としか言われないものだが、吸う側には吸う側の考え方、そして知ることでやっと理解するものがある。それと向き合った上で自分の意思でやめる者もいるが、大抵はそれでもこうするのが良いのだと吸い続けるし、俺のようにいつかはやめようと思いつつもダラダラとニコチンを含み続けてしまう者もいる。

 そうやってゆらゆらと消え去っていく白煙を見ながら十分ほど自分の世界に浸っていると、前方の更衣室の扉が静かな駆動音と共にスライドした。中から一人の少女が長い髪を(なび)かせながら出てきたので、それに合わせてどっこいと立つ。

 《被験者181》。先刻、人類の今後を左右するかもしれない最重要実験を行っていた少女だった。

 専用の実験服を纏っていた身形(みなり)は、今はオフショルダーのブラウスにショートパンツと質素ながら、その上に半花魁型のようなダークコートを羽織るという小洒落た服装に変わり映えしている。頭のヘアバンドにアクセントを置いた髪はストレートに降ろされ、純白のヴェールを連想させるそれは腰の先に届くほどに長い。

 人種毎の風貌に詳しくない者でも、()系の血でも引いているのだろうかと容易に想像させる美貌だった。それを見慣れている俺は思う所もほどほどに、咥えていた白筒を手早く吸殻入れに放り込んでから口を開いた。


「最後のはちょっと危なかったんじゃないか? 流石に俺も部下の手前で口が滑りそうだったぞ」


 これについては性格上の都合もあった。昔から低血圧気味な身体はあまり反応が良くなく……いや、俺自身にそんな自覚は無いので誰かに言われたことでしかないが、まあとにかく並大抵のことでペースが狂わせられることはなく、悪く言えばそんな風に鈍い俺も、ホログラムとはいえ目の前の少女が背後から突き刺される光景を浮かべた瞬間は、反射的にシステムの緊急停止ボタンに手を置いてしまった。

 しかし彼女はそんなこと知りもしないというように、これ以上ないほど完璧に整った顔にある艶やかな唇を淑やかに動かす。


「んー、まぁ……ね。あのままだったらちょっと危なかったかも」


 その言動にはある種の不可解さが付き纏っていた。過去に迫った危機的状況を話すのに、当の自分はまるで無縁であるかのように落ち着き払っている。あの瞬間のことはもう忘れたとでも言いたげだ。

 上から見ていた限り、あれは相当な精神的負担があったように思えたのだが。まあこの子――レイの言動に予測がつかないのは、同じ屋根の下で暮らしてきた俺としてはいつものことなので、これ以上追及するものでもない。


「我が義理娘(むすめ)ながら、とんでもない技を披露してくれたもんだ」

「それ、褒めてるってことでいいんだよね?」

「そうだな、褒めてるのかもしれないな」


 などと近づいてきた少女に頷きかけ、けれどすぐに首を振った。


「いや、実際のところ、今日の成果は喉から手が出るほど求めていたものだ。だから後でいつもよりパーッと褒美をやるぞ?」


 今回の実験の結果は、人類の分岐点と言っても過言ではなかった。行われた事の半分は傍から見て地味だったかもしれないが、それぐらい大きな意味を持っていた。それを成功に収めたのだから、本当ならパーッとどころかもう一生遊んで暮らしててもいいぞと言ってやりたいぐらいだった。

 そんな気持ちを抑えながらせめてもの思いで言ってやると、およそ二十五センチの身長差で見上げてきていた白髪の我が子は、抱きつくように顔を埋めてきた。それから長い睫毛(まつげ)の下で視線をどこかへと投げ出して、少しだけ「うーん……」と迷う。


「じゃあ、お義父さんが作ったシュガートーストが食べたい」

「なんだ? パーッとなんだぞ? そんなんでいいのか?」

「そんなんで、良い」


 言い残し、ぽふっと抱きつく力を強める少女に、「相変わらず欲が無い奴だ」と少しの寂寥感を覚える。髪を乱さない程度に優しく撫でてやると、無表情に見える少女の顔が少しだけ赤くなったような気がした。

 自家製のトーストを求められるのは、ほぼ毎日のことだった。女の子は特に甘いものが好きだと言われる世の中、彼女はただ甘ければ良いという訳ではなく、何かしらの形で俺が加工した(作った)ものだと殊更喜んだ。

 お陰で趣味でもないのに菓子作りが上手くなってしまっているが、それが血の繋がりも無いところに親縁を生み出すと知れば、俺もついつい甘やかしてしまうのだ。


「おやおや? なんとも仲睦まじい光景が見えますね~。主任も隅に置けないなぁ」


 そんな時に飄々とした声が耳に入ってきたものだから、惜しい気分で手を離し、そちらに目を向けた。


「茶化すな若本。データの整理は済んだのか?」


 呆れ声で言ったつもりだったが、茶色気のツンツン髪に今時は珍しい丸眼鏡を掛け、俺と同じ白衣を着た相手は意にも介さず語尾に続く。


「いやぁ~そりゃもうウキウキな気分でやらせてもらいましたよ? なにせ人類初の【()()()()】が誕生した瞬間でしたから。人という愚族の新境地、ここへ辿り着くのにたった一年と数ヶ月で成し遂げてしまう主任は、もしかするとその限りではないのかもしれませんけど。……ととと、もちろんそれ以上の功労者がこの場にいるのも理解しているつもりですよ? 主任の知恵と手際にも感服してはいますが、なによりレイちゃんのあの身体能力! 特異能力が発現していないにもかかわらずあの成績……並ならぬ潜在能力を感じます! あ~生きててよかったってこういうことを言うんですねぇ!」


 言葉を挟む余地もないほど早口の男は、その最後にクルりとターンまでして見せる。本当にこんな奴が研究者なのかと疑われても仕方がないテンションの高さは、そうであるが故にマッドサイエンティストらしいとも言えるのかもしれない。

 だがこの研究施設の中にあっては、その軽薄な態度は目に余る。


「口が軽いぞ若本。先人たちへ施した我々の非道、忘れたわけじゃないだろうな? 人類の存続という理由ですべてが許されると思っているのなら――」

「いえ、それはもちろん重々承知してますよ。ええ」


 寸前までのハイが嘘のようにローへと移り変わる、この切り替えの早さ。まるで天使が悪魔にすり替わるような刹那劇には、長い付き合いである俺にも困惑と同情を生んだ。

 本来ならその口を咎めなければならない。が、付き合いが長く、そしてその分を知っているからこそ、強く言い含めることにも躊躇してしまう。

 いつも軽々しく振舞っているのは、若本なりの強がりなのだ。

 この男だって、あの地獄の中で親と最愛の妹を失っているのだから。


 ◇


 若本の実家は静岡県の山奥にあった。二十二世紀後期にあって田園や畑がそこら中に広がる、古き良きを継いだ土地。交通の便が数時間、日が悪ければ一日に二本程度が当たり前の、行くも去るも不便なド田舎だった。

 しかしその周辺にも、数は少ないものの星が容赦なく墜落し、例外なく奴らが現れたと記録されている。町に住んでいた人々は必死に逃げ惑ったようだが、生還し、無事の姿を確認出来たのはたったの五十七名。そして救出と避難誘導のために駆けつけた軍が(のち)に報告を上げた生存者リストには老人と集落の深い場所に住んでいた名ばかりが書き込まれず、若本の家族の名も載ることはなかった。

 だが訃報としてその事実を知った若本は、存外立ち直りが早かった。それは人間性という観点で見れば尋常ではなく、見ていて薄気味悪さを感じるほどだったのを覚えている。

 当人もその(ふし)を薄っすらと自覚してはいたようだが、時が経つにつれ精神に掛かっていた負担が曖昧になったのか『身内の死は乗り越えるもの』などと説き始め、溢れるはずの涙の代わりに研究心を強めていった。元々研究熱心とは言えなかった彼が俺の助手に志願した瞬間なんて、同僚や部下のどれほどが目を丸くしたことだろう。

 そうして日頃を共にするようになった若本と接するうち、表面上は今までと変わらず、しかしその影であいつの中の何かが壊れていくのを感じた。かつては実験の結果に指を引く姿ばかりを見せることからビビリとまで揶揄されるような人柄の持ち主だった人物は、いつの間にか……そう、まるで背に鋭利な刃を隠し持つピエロのような、突き刺す恐怖感を放つ人間へと変わってしまっていた。

 今思うと、それは恐らく自己防衛的な本能……きっと若本は、そうして自分の本心を騙さなければ、何もかもを投げ出したい気持ちを抑えられなかったのかもしれない。


 ◇


「――それで? 養子として引き取った子にも、その非道とやらを施した貴方は、この先をどうされるのです? 申し訳ありませんが、もし主導者の貴方がこの件に今後関わらない道を選んだって、僕はこの業と一生を共にする覚悟です。同じ意思の同僚を連れてね。先ほどの実験の結果で、人類のこれからは大きく変わっていきます。その過程で貴方という人が生み出したこの罪は極めて強く、根深く、摂理を歪ませるものだ。当然、今更巻き戻せるものでもない。それは理解していますよね、“(おさむ)先輩”……?」


 敵意さえ含んだようなピリリとした空気が伝わる。言葉の終わりに俺を試すかのように言った若本は、しかしその目で俺を見てはいなかった。遠くを見通す瞳には、どこか狂乱的でヒステリカルな熱を帯びている。

 とはいえ義理娘(むすめ)の手前もあって、それに臆して後退(あとずさ)るなど端から考えてはいない。俺はいつも通りの平然、そして上司としての威厳を維持したまま相手を見据えた。それがこの場での俺の役割でもあった。


「バーカ。たとえ今更じゃなくとも可愛い愛娘を見捨てて逃げようだなんて思わん。それが俺の中にある、人としての最期のラインってやつだからな」


 若本が来てからは何を恐れてか俺の後ろに回り覗き込む少女がいた。彼女を見ると、この意志だけは確かなものだと感じれた。

 それは先ほどからこの応酬を差配している、()()すらも跳ね返す強い意志だ。


「お前こそ、あの日みたいに歯を振るわせるようなダサい真似はしてくれるなよ? これでも頼りにしているんだ、“助手”よ」


 ()えて、こちらは名前を言わなかった。それが若本にどんな感情を齎したのかは分からない。個人としての価値はどうかな、という意地の悪い意味を持たせたつもりだった。

 それをどこまで理解出来たかは、もう彼自身の問題だ。若本は何やらブツクサと呟いているようだったが、そのすべてが俺の耳に届くことはなかった。

 やがて若本は表情をいつもの明るいものに戻し、


「ま、いいです。僕はこれから今回の顛末を上へと報告しなければならないのでこの辺で。レイちゃん、またねぇ~!」


 なんて軽快な足音を響かせながら立ち去っていった。その通り道には僅かな時間、暗く混沌とした気質が漂っているように思えた。


(……ったく、かなり気掛かりな奴を抱えちまったもんだ)


 突如去来した、得も言われぬ不安を心の深くで愚痴り頭を掻く。いつだったか部下の一人に、厄介事は抱え込まず共有してくれればいいのに、なんて不満げに言われたことを思い出す。

 機会があればそれもいいかもしれない。でも、巻き込まずに済むならその方がいい。この考えが改まったことはない。

 沈黙が少しばかり続いた時、不意に白衣の袖が引っ張られた。


「ん? どうした」

「あの人、やっぱりなんかキライ」


 あまり見ることがないレイのそのばっさりとした感情の吐露に、ぎょっとする。


「はは。レイは若本のことが嫌いなのか? まあ嫌味な奴だもんなぁ……」


 少女は笑みを向ける俺に視線を合わせ、理解出来ないと首を傾げた。

 そして長い髪を地面に触れないように歩き、通路中央を区切る長椅子に座って「おかしいこと言った? お義父さんとも仲が悪そうだったよ?」なんて言ってくる。

 その言葉には、正直、複雑な気持ちを催すばかりだ。

 思い返してみれば、確かにお互いを試すような、けれど漫画やアニメなどにありそうな相手を認めているからこそ叩く減らず口だったとは言えないかもしれない。レイがそのやり取りに受け止めた、決して良くない印象は間違いじゃないのだろう。

 だが――


「仲が悪い……確かにそうかもしれない。しかしな、レイ。あいつにもあいつなりの事情や考えってもんがあるんだ」

「……?」


 ラベンダー風味の香りを漂わせる白髪の下で、なお一層考え込んだような薄い表情を捉えて、もう一度若本が去っていった通路を見た。


「そうだな……レイ。この世にはな、何が正解で何が間違いなのか分からない事ってのがたくさんあるんだ。例えば俺やそこらの人も含めて、お前は法律(ルール)というものに従っているだろう? だけどそれは極限的な話、俺たちじゃない誰かが同じ人間同士で生き抜くために勝手に刷り込んだものに過ぎない。言い換えれば、それを守るのも守らないのも、人一人の自由でしかないんだ」

「ルールを守るのも守らないのも、個人の自由?」


 訝しさだけを残していた声音が、そこで興味と疑問を加える。


「そうだ。そしてそれを一定水準にまで引き上げているのを倫理観や秩序、といったものになるだろうな。少し話を(ひろ)げるが、犯罪というのはいつになってもどこかしらで起きているだろう? 窃盗、暴行、器物破損、そして殺人。やれば法律で罰せられることが分かっているのに、それらは日々どこかで行われている」

「そういえば今日は虐待、昨日は強盗と動物殺しの報道を見た気がする……」

「そうだな。このご時世、犬一匹を軽く引っ叩くだけでも社会的に吊り上げられるもんだからな」


 頷いてから、俺はエリアの吹き抜けを照らすシャンデリア型の角灯群を眺めて続けた。


「では何故行われるのか……それは法律以上に、人間の中にある思考と感性が行動の手綱を握っているからだ。俺もお前も、法律なんて関係なく殺しをしたいと思わないし、たとえどこかでぶつかりあってつい感情的になったとしても、本当にその行動を起こすまでには至らない――」


 普段まったくしないような話について来れてるかと一瞬眼を向けると、そこには期待通り純粋無垢な態度で俺の話を聞き続ける顔があった。


「要は、人の行動原理ってのは考え方一つですべてがひっくり返る可能性があるってことだ。俺も若本も、お互いに思ってしていることは、その変化の一つでしかない。物事ってのは、試してみなけりゃ結果がどうなるかなんて完璧に見透かすことは出来ないし、その先に問われるそれの正しさなんてのは、実際はそうであると決めつけること自体、本当はおかしいことなんだ。まあこれらも俺ひとりの考えってものになるんだが」

「う、うーん……?」


 まだ悩むということをあまり経験していない年頃の少女は、頭痛を示すような仕草で唸る。


「ああ、少し難しい話かもしれないな。まあこれについては、いずれ分かる時が来る。だがこの話から何が言いたいのかっつうとだな、あいつのあの歪んじまった態度は、あいつなりの正義を元に成された小さな敵意でしかないってことだ」


 そうして講義じみた話を締めくくると、レイは振り子のように身体を傾けて理解に難儀していた。実に愛らしい光景だ。

 一方の俺は、途端に視界が開けたような気になって、また悪い性格が出たかもしれないと周囲を見ていた。

 各部屋からの出入りや、景観のために設置された観葉植物へ手入れをする人が向こう側からやって来たりと、少ないが人が往来するエントランス。その一角でする家族談義のようなものには、未だ恥ずかしさを覚える。

 だがそれは気持ちの半分といったところ。同時に、何を偉そうに語っているんだという感情が、子を諭すような彩りに満ちた思考を脱色していた。


『――養子として引き取った子にも、その非道とやらを施した貴方は、この先をどうされるのです?』


 先ほど若本に言われたこの言葉には無反応でいたつもりだが、どうにも内心は酷く揺らいでいる。

 それは直接の意味で、俺が進めているプロジェクトにレイを巻き込んだという事実だ。それを確かめるように突き付けられ、いつも心のどこかでつっかえて、まるで暗闇の中で足を惑わすような空虚さと罪悪感に捉われる。

 そんな俺がレイに対して物事の道理のような話を説いて、果たして自分はどうなのかという猜疑心が湧くのだ。

 自分の人生の中で行われる史上最大の実験に、俺はずっと踏ん切りがついていない。その意味や未来と過去を正しく認識しているのだろうか、と。


「悪いな、レイ。こんな重責を負わせちまって」

「え?」


 言いたくもない言葉が抑えようもなく出てきてしまうのは、そうやって自分を信用しきれていないからなのかもしれない。

 自分でも分かるほど揺れている手を見つめて、それを圧し留めるように少女の肩に置いた。


「さっきの話のように、お前だって、お前だけの主義主張がある。お前があいつに嫌忌(けんき)の念を抱いたのは、多分俺のプロジェクトをあんな風に言われてお前まで否定された気分になったからだろう。でもな、その一番の原因は、俺が弱かったからなんだ。俺には他の選択肢を見出せなかった。何もな。だからお前にこんなモノを刻み付けてしまった」


 戸惑いに僅かに震えた少女の視線と合う。その灰色の瞳にどんな思いがあって何を言おうとしているのか、この時の俺には理解しようという気概すらも無かった。それぐらい、少女の腕に刻まれた()()に意識が吸い込まれていた。


「本当にすまない」


 ここ数日で何十、何百と繰り返されている俺のその謝罪は、とても軽いものにしか思えなかった。言っても言っても終わりがない。そもそも終わりなんて無いとすら思っている。

 犯罪なんて比較にもならないほどの咎を、俺は抱えている。そういう自覚があるために。

 対して、腕にこの先消えることの無い『碧く光る傷痕』を刻まれた目の前の少女は、俺をそんな呪いから解き放とうとしてくれる優しい心の持ち主なのだろう。


「違うよ、お義父さんは弱くない。私にも、その決断がどれだけ重くて苦しいことだったかぐらいは分かってるつもり。だから、弱くない」


 そして、美しい顔が慎ましく見上げられた。


「それにね、これは私が役に立ちたくて……言ってしまえば、この傷痕はお義父さんへの恩返しを示す証でもあるの。誇りでもあるのかな」


 それを聞いた俺の心を締めつけたのは、どこまでこの自分勝手を貫けばいいのだろうという自責と、彼女に行った非道に対して、何をしてやればいいのかという漠然とした不安だった。

 (おこな)ったことは、巻き戻せるものじゃない。ああそうだ。若本だって理解出来ていることだ。

 そうと分かった上でやったのであれば、後悔することこそ、この少女への無礼に当たるのではないか。

 

「だからさ、それをお義父さんが――貴方が悪く思わないで欲しいかな。見た目は目立つけど、それも考えようだと思うし。なんていうかさ、ちょっと綺麗だとも思わない?」


 そう言って、レイは少し距離を取って左腕を見せつけてきた。

 肩口から(ひじ)にかけて広がる、ひび割れた碧き輝き。煌々とし、ガラスを砕いたようなその痕は、人の身を脱した証だった。

 彼女はもう、ヒトの姿をしたヒトではない何かなのだ。


「綺麗、か……ああ、そうだな」


 それを眼に焼き付けると、俺は居ても立っても居られない気持ちになった。

 やるべきことや心配事は尽きない。だが、ここで罪悪感に負けていては、この先為せるかもしれない何かが実ることはなくなるし、若本や他のみんなにも笑われ失望されるだろう。

 そんな恰好悪い姿を目の前の少女にだけは見せたくない、そんな思いに駆られた。

 それだけ、俺――凛界修(りんかいおさむ)という人間にとって、少女――レイドット・レイスの存在は大きかった。


「……今日の予定はもう済んでるし、とりあえず帰るか」


 人類のための実験は、今日の予定を既に終えている。ならもう研究者としての顔は見せるべきじゃないと判断してそう切り出す。


「うん、そうだね。あ、そういえば朝みたら砂糖切らしてたよ。帰る前に買っていかないと」

「む、それホットミルク飲む時に気付いただろ? どうだ、当たりか?」

「当たらずとも遠からず、かな」


 人間という属性を失った少女は、それでも長年連れ立ってきた我が子のようにあり続けていた。

 俺と言う人間の意味を考えるのは、それが終わってからでいい。




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