Release0039.METEORON(27)
空の下。彼女は歌っていた。
憐憫と、羨望。それは恋の詩。
影の下。彼に気付いて微笑んだ。
心は温もりに包まれ、二人を引き寄せる。
二人は約束を交わす。果てにある、白き壁を見て。
いつまでも。
どこまでも。
――僕だけは。
――私だけは。
■■■き■■■『■■』■■■■――と。
――――崩壊のディーア EP.0A 終曲――――
「うああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアア――――!!」
少年の叫びが世界を揺らす。その悲痛の想念が可視化されるほど空間が打ち震え、辺りを光に巻き込んだ。
「な、なんだ!? 何が起こっている!?」
「そんなの決まってる。さっきも言ったじゃない」
「はぁ!? 一体なんのことだ!」
困惑したオリヴィアの言葉にローゼクティアが更に口を開こうとしたところで、二人のあいだにすっと降り立つ者がいた。会話を中断し、瞬時に距離を取りあったところで即座に銃口が上がる。
「その引き金を引くのはやめておいた方がいい。俺ではなく彼女に当たるし、貴女もただじゃ済まないからね。先生」
「くっ……!」
疑念が入り混じる一つの敵意を向けられた男は、あくまでも取るに足らない些事だと示すようにコロセウムの中心を見ながら淡々と口だけを動かす。オリヴィアは歯を強く噛んだ。
その助言は正しかった。何食わぬ顔で割り込んだロベルトの向こう側にはローゼクティアがいる。そして今オリヴィアが手にしている銃は、先ほど名の知る生徒の遺体の近くに落ちていたのを拾ったもの。つまりレコン鉱石製。
鉱石武器は身体強化を施した人間用に調整されて作られており、いかにレベルの低い軽武装でも並の身体には負担が大きすぎる強力な兵器となっている。歴史に残るそんじょそこらのアンティーク重火器と違い、何年も前に成人しているオリヴィアの身体でも、それが一般的な体質でしかないのなら一度の発砲で腕の一つや二つは簡単に折れる反動を伴う。その時点でそう易々と撃てるものではない。
加えて、たとえ目標と数メートルしか離れていないこの状況で撃ったとしても、雷神と呼ばれるこの男には百パーセント当たらないことは高が知れていた。オリヴィアはアストロイで何年と教師を勤めている。故に在学時代のロベルトのことだって記憶にないはずはなく、言われなくともこの距離の銃撃でさえ彼は簡単に躱して見せるだろうと最初から分かり切っていた。
……だとしても。それらの冷静な判断が、犠牲を生じてでも引き金を引くに値する理由はないと指先を止めてくれていても。オリヴィアはその手を下げる気にはなれなかった。
「目的はなんだ!? 何故お前がこんな悲劇を起こすに至った!?」
オリヴィアがコロセウムに来たのはついさっき。今日はレ・ミーユで皿洗いをしたり、実験で磨いた器用さを生かしてデザートの装飾を見様見真似で作ったりとなんだか性に合わない時間を送っていたわけで、行われていたはずのA帯模擬戦の時間に何があったのかは艦内総員に向けた緊急の連絡でしか知り得ていない。
その報せの内容で、那由多とロベルトが模擬戦ではなく本気の殺し合いをしていることは読み取れた。それだけでも信じられない話だったが、しかし一番の問題はそこではない。
ここにきて状況だけで判断すれば、報せの中に《七天覇》なる《雷神》が危険生物の大群を率いてロイヤルスティールへ襲撃している、という文面だけはどうにか理解を進められた。でも、何故あいつが? どうしてこんなことを? ――そんな晴れない曇り空と凄惨な顛末が、オリヴィアを渋面と反撃に誘い続けている。
学園にいた頃のロベルトは、一人でふらふらと出歩いてはとんでもない結果を持って帰ってくる問題児ではあった。危険を顧みず、純粋に自分の力をただ試したい。そうやって気ままに規律違反を起こし、けれど注意したって言うことは聞かないし言い訳に『死んでないんだからいいじゃないか』と愛想よく笑うばかり。取り分け自由人な雷使いはそうやって学園の頂点に君臨し、プライドの高い教練の幾人かが嫉妬心を抱かずにはいられないほどの皆の憧れになる。それこそ、伝説と持て囃されるまでに。
……特に、アスベル教諭なんかは感情をあまり表に出さないタイプではあるものの、ロベルトのことになると指導に強弱が生まれていたことから実に分かり易かった。
――であるにしても、そんな風に学園に何度も強風を吹き付けた彼だって別に少しやんちゃというだけで根は良い子でしかなかった。誰かと喧嘩をすることもなければとにかく人に対して寛容だったし、後輩先輩の差別なく自分が伝えられることは何にでもオープン。平凡な学生らしいその姿ははたから見ていれば優等生だ。勉学面は本人も苦手意識を持ちおざなりとしか言えなかったが、新設され短い歴史しかない戦闘術の能力そのものに関しては全生徒の模範であったと言える。
そう。オリヴィアにとっても、ロベルトは優秀で教え甲斐のある一人の生徒だったのだ。モニターに化学式を連ねれば堂々と寝息を立てるような、そんなんじゃなく、嫌そうな顔をしながらも訳の分からない屁理屈やオリジナルの暗記法を生み出す可能性の卵。教師というのは生徒の成長を我が子のように見守ってしまうもので、オリヴィアはロベルトをひたすらに面白いヤツだと思っていた。
証書を与えた後も、こいつは誰かが思っている以上のことをやってのけていくのだろう、いつかはオズに代わり、アルカディアの軍勢の将とかにもなるのかもしれない。そう期待を膨らませていた。
だが実際は。
《グノーシス》が齎したエキシビションという機会により、探査隊の一人として外に出続けていたロベルトが久方ぶりにロイヤルスティールに戻ってきて一体何をしたか。今まで培ってきたその類稀なる才をどう振るったか。
当然オリヴィアは――学園はこんなことをさせるためにアルカディア人の育成をしているわけではない。背信なんてものを。
だから、銃口を向け訊ねると同時に、自身にも問わざるを得なかった。
飛び級の位までも与えた自分達の判断は間違ったものだったのか。それとも、そもそもの教育方法の中で、何かが彼の中に歪を生ませてしまっていたのか。
もしロベルトの中の異変に気付くことが出来れば、こんなに大勢の人々が死ぬことはなかったんじゃないのか、と。
……なんにせよ、今のオリヴィアの中には、過去、彼の指導者だった者としての責務のようなものが蟠っている。教え子の裏切り行為に対する不信感と、自身がするべき正義の在り方とが激しく打ち合い、そのまま突き上がるようにして存在する。
教え子の不義理を正すのも、教師としての勤め。
事は進みすぎた。だが進みすぎているからといってそこで放置していれば、悲劇は悲劇以上の何かになってしまう。これ以上の間違いを彼に犯させるわけにはいかない、そんな想いをぶつけていく。
……果たしてそれは彼には届いたのだろうか。ロベルト本人は思いもよらぬことを口にする。
「それよりも優先すべきことがあるんじゃないですか? 貴女には」
「なに……?」
照準の先にある顔の視線が動いたのを見て、オリヴィアはハッと背後を振り返った。
そこには瓦礫を背に血を撒き散らして呻く美月と、泣きながらその無力な手を握る一暉の姿がある。オリヴィアは手にしていた金属塊をがらんがらんと落とした。
「ま、待ってくれ。……そうはならない……そうはならないようにしてあるはずだ!」
その光景は彼女にとって有り得ない姿だった。ひゅうひゅうと細すぎる呼吸でなんとか生命を維持している少女の前に駆け寄り、必死の形相で声を掛け始める。
もう数十秒も続かない命。それでも、ありもしない希望に縋るように追い求めてしまうのは、医学に精通しているからとかではなくもっと純粋な感情によるものか。
罪の意識がないわけではない手前、ロベルトは黙したまま消えゆく者の最後の言葉を聞き届けた。それだけが、彼がこの場で行える唯一の手向けだった。
少しして、心臓を失った少女の息が無くなる。
彼女は最後まで、誰かに向けた謝罪を繰り返していた。
――やがて。
一方で、これまで沈黙を続けていたメルクーアも少女の成り行きを真摯に見届けた後、ガシャンっ、と砲身を構えた。
ロベルトは深く長い息遣いをしてから、また端的に言葉を言い放った。
「貴女もだ。今は状況の理解を優先した方がいいんじゃないかな。その位置から見えるのは俺だけなのか?」
「何を言って……、――っ!?」
あまりにも年下とは思えない言動。しかしその物言わせぬオーラに思わず視界を精査したメルクーアが息を吞む。
ずっと何かの光が続いているという場の違和感を感じ続けてはいたものの、発生源を見たのはその時になってようやくだった。
コロセウムの中心に、光の柱が屹立している。天蓋をも焼き、まっすぐ宇宙にまで、それこそどこまでも続いているんじゃないかと思わせられる御柱だ。十階層の底面が邪魔をして、先を見ることは叶わないが。
その発生源は那由多だと思われていた。だけど、根元に那由多らしき人影はない。
代わりに。
古来から数多ある神話像に描かれるような、見るだけで人に不快感を生み出してしまうような黒い機械的な物体が鎮座していた。おおよそ台形の形をしているそれは、まるで巨大な植物が根を張って咲かせた一輪の黒曜花。全体構造は複雑だが、そんな禍々しさとは対照的に綺麗な線を繋げ合って規則的な花弁を広げている薔薇に近いもの。
それに対する印象という情報を脳にインプットした後のメルクーアが、それから一番最初に小さく呟いたのは『魔王』という単語だった。
魔王――ゲーム、作り話、そして神話にでも。概ねは悪役の代名詞としてもよく知られる名称。謂わば、そういった悪魔的な存在の頂点として君臨する者であり、言葉として認識すれば、それすなわち打ち倒すべき存在だと考える最大悪。ある種の美しさを持つソレが、彼女の中で最も近しいたとえとして連想された。
ただ、メルクーアが発した言葉の意味はそれだけに止まらない。
花は蠢き、長期間の映像記録を加速再生したように成長していた。根は乱雑に散っている瓦礫と鉄鋼すら付き纏って喰らい、喰らいつかれた無機物は全て本体と同様の色に変化していく。
分かり易く言えば侵食だ。一つの大いなる花が、周囲を隈なく侵していた。他の全てを飲み込まんとし、侵すごとに平伏させ従えていく征服者のようなその姿が、メルクーアにとっては魔王なるモノに相応しいと思えた。
侵食はコロセウムフィールドだけに収まらず、壁を伝い、観覧席に到達してもなお止まらない。じわじわとにじり広がる。
そして新たな侵食面を大地に、真っ黒だが植物らしき蔦や草木のような物体も生え伸びてきた。艦内の配電に干渉したのか照明が消され、柱の光だけで色を保つ黒々さが会場の景色を染めていく。
「――この世界の終焉だよ」
今なおどこか遠くの戦闘音も聞こえてくる中、それ含めあの黒い何かのドロドロとしたような成長音を断つ諦めの声がそう言った。
「世界の……終焉? なんなのそれ」
「ここに来る途中、わたしが少しだけ話したことだよ、クー姉」
言いながら、ローゼクティアはロベルトの横に並び立ってソレを見つめた。
あれが現れた以上、以降の争いに意味はない。そう言い聞かせきているような気がして、メルクーアは手の力を抜いてしまう。
同時に、もう一つ異変を感じ取った。
目の前にいる少女が……自分が大事にしたいと思える少女の姿をしている人物が、全然違う誰かに見えたのだ。
自分の知るロズはそんな顔をしたことがない。自身のことをそうやって呼ばない。そもそも、普段の彼女は何かしらの問題に直面した時、そうやって何を見るにも何も感じていなさそうな冷たい目で物事を見はしない。いの一番に恐怖の色を滲ませてしまう臆病な子だ。
メルクーアの中に悶々と疑念が広がっていく。――この人は……だれ? と。
逆に言えば、それは確信でもあった。メルクーアの中では、彼女はもうロズの姿をした別の誰かでしかなかった。
そうやって呆然と黙する彼女の反応を促しと受け取ったのか、少女、ローゼクティアの姿をしたその者は言葉を続けた。
「あれが《この世界》を終わらせるシステム。アルカディアの人々を導く《グノーシス》なんかよりも、もっと高位の装置。世界の現像機構、とでも言えばいいかな。アレがあるからここが存在する。アレの意思によってここは成立していた。いやこれでも分かりづらいか……」
「………」
言葉の要所要所に重要な何かが潜んでいることだけはメルクーアも理解出来た。だが、重要であるらしいことを漠然と聞いた気がするだけで、そこからどう反応したものか分からず立ち尽くすことしか出来ない。意味が伝わってこないからだ。
頷いたのはロベルトだった。
「ああ、そうか。今回で終わりにするつもりなんだな。だから必要なくなるかもしれないコレを俺に見せようとした。それで合っているか?」
「四十点……ってところかな」
「冗談だろ? あれ以上に何かを隠してるっていうのか」
「それは違う。別に隠しているわけじゃないんだよ。気付いていないだけ。この人達みたいにね」
ローゼクティアは納得いかない様子のロベルトをよそに周囲を一瞥していった。流れるように動いたその視界には、倒れ伏した数々の遺体、そしてこの場に生きて居合わせる面々が含まれている。
その時、話の外で一人の男児がゆらりと立ち上がった。手には二つの鉱石武器が握られ、どれだけの涙を流せばそうなるのか、真っ赤な筋を無尽に走らせた目が潤んでいた。
凄まじい音が靴底から鳴った。
仇敵、ということなのだろう。一暉は怒りと憎悪のまま全力で身を突撃させ、問答無用にロベルトに斬り掛かる。
「お前が――お前があああアアアアアアアアアアアッッ!!!!!!」
「今は大事な話をしているんだ。後にしてくれ」
もはやあの雷の大剣を握ることもなく、ロベルトは虫を振り払う動きで応戦した。腕部から線を引くように流れ出た電撃がズガァン!! と一暉を弾き飛ばす。
「がぁあああ……!?」
勢いに抵抗出来ない小さな身体は瓦礫の壁を一枚も二枚も壊してようやく止まる。それからは全身の痛みに抗い手をつき、血を吐きながら半身を保つのがやっとだった。
「黙って見てるかそこで寝ていろ」
「ぁ……ぐ、ああ……く……そ……」
一暉は、友達を殺した敵は当然だが、己の無力さにも唇を噛まずにいられなかった。
アルカディア人が憧れる存在の一人。今となっては怨敵でしかなくなった相手は、さっきまで自身と雲泥の差がある那由多とも戦闘していたはず。それでいて傷一つ負っていない様子を見るに、那由多でも彼の実力には到底及ばなかったのだろうということは容易に察しが付く。
だから、自分に勝つことなんて無理だ。出来るわけがない。そう分かっていた。にもかかわらずこの異様な現場で戦いに挑んだのは、そうせずにはいられない想いが少年の中に渦巻いていたからだ。
夢を共有した友を殺しておきながら、さもそれが通過点でしかない、そう言うように平然としている男を相手に冷静でいろという方が無茶な話。どうしても、一撃でもいいからこの嫌な気分をぶつけてやりたい。それすらも叶えられない自分の弱さに反吐が出て、苛立ちと悲しみに染まる血を口から吐き出さずにはいられない。
心配そうな声と共に、贄となったあの子と仲が良い少年に駆け寄るオリヴィアを見て僅かに口元を歪ませたローゼクティアは、その目を再度中心地に帰結させた。彼女の中では、不条理に打たれる一暉の情けなさも、オリヴィアの献身的な行動も、そしてロベルトの残忍な言葉にも意味を感じていなかったはずなのに、どうしてか痛いという気持ちが滲みだしていた。
それを振り切るように、淡々と。
「さあ、始まるよ。――《終焉の始まり》が、ね」
ふっと、圧倒的な存在感を放っていた光の柱が消えた。正確には、放たれていた光をかき集め一点に集中したように。
辺りは夕日の下特有の暗さに包まれ、余計に暗鬱とする。
そこには、いつからか黒い塊が存在していた。恐らくは圧倒的に有り得ない風貌でありながら、どうしてか美しいと感じてしまう背後の巨大な花が生み出したものなのであろう。
黒以外の何も取り入れない球体だった。それは色なのか、それとも穴なのか。見ているだけで全てを吸い込んでしまいそうな丸い塊。大きさは直径三メートルほど。どういう力によってか浮いている。
その球体の表面に、パリッ――という、卵を割ったような音が白い亀裂を生んだ。
音は連続し、表面が剥がれ落ちていく。殻となったその廃棄物は、最後にそれら軽々しい音に似合わぬほどの金属音で地面に落ち果てていく。がしゃんがしゃんと、卵の殻という物体が一瞬にして鉄の皮に化けてしまったかのようであった。
そして。それが本当に卵であるなら、中にはやはり――
そんな固定化された意識のままに、バリリ! と。
腕だと分かるソレを突き出して生まれてきた存在を見て、ローゼクティアを除く全員が言葉を失った。
少なくとも、存在して良い生物には見えなかった。
先の那由多が召喚した悍ましい単眼兵器よりは人の姿をしていた。体格もそこまで大きくあらず、どちらかと言えばやはり子供なのかもしれないという印象がある。これまでの状況を鑑みて言えば、那由多と兵器が融合したような何かだと表現するのが的を得ているだろうか。
「……あれ、は……なんなん、ですか? っはぁ……ナ……ユタ、なんで……すか? ……せん……せい」
一暉は震えた声のまま、ドロドロの粘膜を垂らし這い出てくるそいつから目を逸らす。幾分か突き抜けた知識の才がある彼の中にも、アレについての情報は何一つ存在していない。
それはオリヴィアも同じだった。小さく分からないという言葉が続く。
そいつは最初から己の力で立ち上がり、目のない顔をぐるりと捻った。明らかな異様の中にある狂気じみた気配。それを舐め回すように移動させている。
それが一点に集中したと思った時、そいつの身体は既にそこには無かった。
「っ……!?」
「こいつッ!!」
「待って二人とも。ソレに敵意を向けては駄目」
メルクーアとロベルト、二人の即座な反応に前置きしておいたかのような態度でローゼクティアが言い放つ。そのまま前進し、ソレとのあいだに立ち塞がるまでの挙動は焦りの中で動いた二人を置いてきぼりにするものだった。
それはまるで、先を見越していたかのような。雷そのものと言ってもいいロベルトでさえも遅れを取っている。そしてそれらの主役は、そんな予見的なローゼクティアの更に先にある。
怪物は一同のすぐ近くに移動していた。正確には、先刻息を引き取った少女の目の前。怪物に目はないが、成り果てた少女を見下ろしているようだった。
【……ァ………………ああ、ぅああ…………】
声――とも違う。ある種の呪殺の念、それによる言霊よりも奇怪な音というべきか。ギザギザの口を動かしては触手のような指先を持つ手を腰元で揺らめかせている。なんだか内気な子どもが言いたいことを言い出せないで我慢しているようだった。
「君はどうしたいの?」
不気味な空間をその人間味のある声で突き破ったのはローゼクティアだ。言葉が通じる存在とすら思っていなかった一同は、まさか信じられないという顔で見守るしかない。
ぐりゅん! そんな形容が似合いそうな質感で首を動かした怪物。その動きは言葉に反応したのか、それとも言葉の元である音そのものに反応したのかは全く分からない。それでも、ローゼクティアは何も気にすることなく歩み寄る。
「自分に正直になっていいんだよ? 君が今思っていることは何か。そして、君はそれを実行するだけの力を持っているはず」
【……ガ……イ、ィゥ……、アア……ヴ……ア……】
普通なら誰しもが恐怖する場面であるはずなのに、ローゼクティアの表情は終始穏やかなものだった。眼帯をしているため片目しか見えないが、その目つきと口元は絵画に描かれる女像のように朗らかだ。
面々の足元へ遂に植物の侵食が到達しても、ローゼクティアだけはそのまま怪物に手を差し伸べようとし続ける。一同は余計に言葉を挟むことが出来ずにいた。
怪物と、怖がりであったはずの少女の急変。もう何が起こって、彼女が何を知っているのか。
「なんだこれは……人には影響しないのか?」
成長を止めない黒い草木を払おうとしながらオリヴィアが呟く。その言葉の通り、地面が黒に染まり植物が生い茂ろうとも、ただ邪魔というだけであって人間そのものをどうこうということはないらしい。
……だと思ったが。
「な、なんで……待って……待ってよ」
それは、生きている人間、という区別があるらしかった。
一暉と怪物の目の前で、美月の身体が沈んでいく。他の倒れ伏す多くの死体もずるずると吸い込んでいく。
「ダメだ……ダメだ、よ……そんなのっ!!」
「よせ一暉!」
亡骸に飛びつこうとする男児の身体をオリヴィアが引き留めた。
この底なし沼とも言うべき黒の泉は、現状地面の代わりとして表面に立つことは許されている。だがそれ以外で分かることはてんでない。そこから様々な思案を同時に巡らせたオリヴィアの頭には、もし死体に触れることで生者をも巻き込むことになるとしたら、そんな危惧があった。
過去に見ない形相で暴れる一暉を抑えるのは至難の業だった。なにせオリヴィアは未強化人間であり、一暉は群を抜いているわけではないとはいえ、A帯の鉱石武器の使い手だ。単純な力では大の大人でもこの八歳児には負けてしまう。
しかし、先ほどロベルトによって突き飛ばされていたのがまさに怪我の功名か。身体のあちこちから血を滴らせて暴れる子どもは力を出し切れていなかった。このまま抑え続けることが出来れば、いずれは体力を使い果たして大人しくせざるを得なくなるだろう。
「は……はな、してくだ……さいっ、せん、せ……!」
「悪いがそれは聞けない相談だ。お前まで奈落に行かれたら困るからな……ッ」
「な……んで。僕が、僕の命を……どう使おうが、僕の自由……でしょ……生みの親でもない、癖に」
女教師ははっきりと胸が痛んだ。
「っ……お、親とか子とか関係ない。目の前で死のうとしている奴がいるから止める、それだけだろうに」
「そんなの、分からないでしょ……僕はミツキ……ミツキを助けたいだけでッ!!」
二人は身体をもつれさせて倒れる。どす黒い地面に這いつくばってもなお、一暉は顎下に広がる気味の悪さを無視して手を伸ばす。
その間にもずぶり、ずぶりと少女の身体は沈んでいく。もう足は見えない。胴体もほぼ沈み、残すは頭と、海上に浮く木片代わりの瓦礫に引っ掛けた手だけ。
だけど、その手さえ掴めば。そこにさえ届きさえすれば。
「もう……少し、で!!」
もう少し。もう少し。
――だった。
本当の不運とはこういうものなんだろう。どこかで起きた爆発のせいで、指先数センチのところにあった少女の手がただの岩山にすり替わったのは、諦めきれなかった一暉の心を簡単にへし折った。
声はなかった。
その矢先。怪物が粘りのある水面のようにどぷん! と地面へ手を突っ込んで美月の全身を引っ張り上げていた。墨のような液体をボトボトと垂らす亡骸が姿を現す。
そうやって小さな身体を抱え上げた両手の指先をぐんと伸ばし、包帯のようにぐるぐると包み込んでいく。大事なものを守るかのようだった。
そして出来上がったのは、少女を容れた黒い繭。繭は怪物に吸い込まれるようにして同化し、少女の亡骸は跡形も消えてなくなった。
「何をして――」
怪物は声を発した一暉の方へ身体を向ける。不気味だが敵意はなかった。
だけどその時、一暉は怪物の本当の顔を見たような気がした。
【―――】
依然、口から発される音は人のソレではなかった。
でも、少年の意識は確かに違う音を聞いた。
それは、少年から少年への願いだったような気がする。
「ま、待っ――」
少年の言葉を最後まで聞かず、異形の塊は外界へ飛び出した。
次の瞬間にはその背から巨大な翼が生え、空に瞬く彗星のようにして一直線に駆け出して行く。
黒い流れ星となった怪物は理想郷に囚われるでしかなかったアルカディア人の悲願を優に突き破り、天を越え、宇宙を切り裂いていく。
その行先は、星々の重鎮。《こちら側》の全ての光である、《光球》。
「おいアレはなんだ!? こんなのは俺も聞いてないぞ!!」
唖然とする場に、焦りの色が一つ浮かんだ。ローゼクティアの言葉のままに静観を続けていたロベルトは、片手でその胸倉を掴み上げる。
事が起きてから彼が狼狽えたのはこれが初めてだ。それが意味するところは、悲劇の首謀者ですら予期していないただならぬ事態が進んでいるということなのだろうが、首元を捻り上げられ質された茶髪のウェイターは変わらず生気のない目で返していく。
「そりゃ私から言った記憶もないし。自分で知ろうともしないんだから分からないのは当然じゃない?」
「アンタ、一体どういうつもりで……」
「それより君も見なよ。アレが終末の【秒針】だよ」
言葉の終わりに、気分がひっくり返るような見えない衝撃があった。
ブウン、という割れた音がして、急に全身が怠さを感じ始める。重力の波が圧力を強めて抑えつける感覚で、それは各々の呼吸を早めた。憔悴していた一暉に至っては、もはや顔を上げることすらままならなくなる。
その原因は、遥か頭上にあった。
これまで、それは景色の中の点でしかなかった。
点は超常の槍と化した怪物と合わさり、背面から変化を初めて徐々にその身を膨張させた。空を食むように広がり、巨大地震時の鳴動のような音を引き連れて大地に近づいてくる。
「星の……終わり。――ああ、ロズが言ってたことがようやく分かったかも」
惑星規模の隕石に変化した光球。上を見上げれば全てのアルカディア人の目に留まる星の結末を予期し、メルクーアが想いを言葉にする。
言葉には様々な感情があった。希望を失くし、諦めの中でも自棄にはなれず、たとえ残された時間がどれだけ短いものであったとしても、最後のその刻までは後悔のないように生きたい。それは声音からして全員が理解するところであり、羨ましくもあり……またその理解は、各々の予感を確信に昇華させてもいた。
光球は【堕ち星】となった。あと数分もすれば惑星アルカディアと衝突し、この星の日々が全て消えてなくなる。
そうなる前に、メルクーアは聞いておきたかった。知りたかった。
「今の貴女が誰なのかは、なんだかもう分かっている気がするから聞かない。でも、最後にこれだけは聞かせて、ロズ。……貴女はずっと恨んでいたの? 彼らのことが許せなくて、それで、これはその復讐のために仕組んだものなの?」
胸を突き刺す茨は杭になって抜けない。
怨念と後悔は人を蝕む一生モノになることはよくあって、人はその大抵をトラウマや呪いと言い換える。ロズはそういう類の中でも極地を辿ってきたと言える少女で、一歩間違えれば高台から飛び降りてもおかしくはないぐらいだった。
最近ではすっかり一人で行動出来るようにもなっていたから、もう心配は要らないだろうと接し方を大人に変えていた。子どもはすぐ大人になってしまうし、大人はおかしな思想を除けば子どもにはなれない。レ・ミーユで少し遠慮しつつも珈琲を飲めるようになったところで、メルクーアは彼女も一人で立てるようになれたんだろうという決断を下し、近くから見守るようにしていた。
今日だってKさん好きの彼女達の厄介に自ら前に出て解決に向かわせていたのだ。厨房から見ている時は心配し過ぎて気がおかしくなってしまいそうだったが、それに耐えたお陰でロズも自分も一つの試練を越えられたとメルクーアは充足感を感じていた。少しだけ寂しいという気持ちもあったけれど、その寂しさがきっかけ足り得る証拠だと思う。
それでも、彼女はどんな因果に導かれてか、こうして何もかもを消そうとしているらしい。最後に残ってしまったその原因だけは、どうしても分からない。こんな時に限ってKさんがいない、そうやって誰かに意見を求めてしまいたくなるぐらいに。
「あはは、それも違うよ。クー姉」
少女は質問者がまったくと予期しない表情で返した。
「恨みなんて別に持ってないよ。だって、アタシは感謝してるんだもん」
「……え?」
「まあ、そりゃ考えたくないぐらいにあいつらが嫌いなのは否定しないよ。自分勝手だし人のことこき使ってくるし。上でそれっぽくふんぞり返ってるだけで実際は何も出来てないしアタシの研究成果をぶんどるしで、正直最後の会合では本当にロボットで一発血の雨を降らそうかなって考えた。考えたけどさ……」
星が迫り、空一面を強い光のみが覆うようになっても。
それでも、とローゼクティアは続ける。
「あんな人達でも、お父さんの友達……だからさ。ありがとうって言いたくなっちゃうんだよね。お父さん――オールードと一緒にいてくれてって」
「……オールードだって? まさかお前……」
ローゼクティアは会話に入り込んできたオリヴィアに笑みだけで返す。真実の姿を知った彼女は過去を思い起こし、バツが悪そうに視線を落とした。
「その……」
「まさか、お互いに姿を変えてるとは思わなかったね。でも、それも当然か。アタシの成果は全部持ってるもんね。使ってても不思議はない」
「……すまない。あの時は最後まで味方をしてやれなくて」
「気にしてないよ別に。むしろ清々したから」
無感情に言い放つ言葉を最後に完全に沈黙したオリヴィアから目を離し、ローゼクティアは話を戻す。
「クー姉。この《終わり》はね、わたし史上、最高の成果物なんだよ。わたしは彼らに恨みを持たなかった。それどころか、全然頼りないからもしもの場合の助けになってあげようと思った。これからの人類がどれだけ失敗して、どれだけ尊厳のない結末を迎えることになるか。どうなっても大丈夫なように、絶対的な最終手段というのは用意しとくべきでしょ?」
ローゼクティアは制服スカートの奥から徐に何かを取り出す。それは紫色の光が仄めく小さな箱だった。
「だから、あれは人類の最後の武器としてわたしが創った、わたしの最後の創造物。最後の希望なんだよ。これは試験運用なの。そのためだけに、何度も何度も何度もこの星を壊そうとしてきた。誰も彼もを犠牲にしてきた」
その話の規模と言い分からでは、彼女がどれほどの思考と時間を費やしてきたのかを想像することは難しい。けれど、熟練と理解の域を越え、人の想像の先を進んでいることは間違いなかった。
「みんなは知らないだろうけど、アルカディアの結末がこうなるのはもう何億回と繰り返されてきたことなんだよ。それも今回でようやく終わりを迎えるし、こう言ってもみんなはまた“それを知らない”ことになるんだけどね」
彼女の言葉が何を示すのか、それを正確に理解している者はこの場にいない。いや、どこにも存在しないのかもしれない。
「……俺にも一つだけ教えてくれ。俺を唆してきたアンタの口実は嘘か?」
「いいや? 本当のことしか言ってないよ。ディーアのことも、アルカディア人のことも。《境界》の先だって。ていうか見てきたんでしょ? そこに妄言はあったかな」
その言葉の中のある単語にぴくりと反応する少年が一人いたが、彼は自身の身体が負ったダメージに打ち克つことがもう出来なくなっていた。
考えに考え長めに唸ったロベルトは、最終的に自分の負けを認めたように背を向けた。そのまま丁度良い具合に生えた黒の大木の根をベッドのようにして寝転がり、天上より降りかかる誰にも止めようがない星を見上げ始めてしまう。二人の会話の終息だった。
ローゼクティアは手のキューブで遊ぶのをやめ、確かに握り直してから言った。
「そろそろタイムリミットかな。クー姉は満足のいく答えを得られた?」
メルクーアは先の言葉を今一度思い返し、ローゼクティアのこの《作品》は復讐などではなく、あの《戦神》の意思を最後まで継いだ結果なのかと思案する。
答えは声と表情にあった。
これから全てが消えるのだろうという今、メルクーアの想う人は笑っている。
種の最後の悪あがきとして生み出した兵器、星と星の衝突によって引き起こされる全ての破壊の果てに自らの存在すら失われようとも、何一つ心配することはない。そう語り掛けてきているように。
そんな眩しいものを見せられた後に、彼女を信じないなんてことが出来るだろうか?
だから、これは本当に人類が間違えに間違えた時のための最終手段なのだろうと。そのための【最終兵器】なのだろうと。メルクーアは、知る限りでローゼクティアの生涯を思い描きながら頷いた。そう信じてあげたかった。
ローゼクティアも満足げな表情を返す。そして、一世一代の《ジャイアントインパクト》にも成り代わろうとしている彼の星を見上げながら、宣言する。
――《この世界》の終わりを。
「無意味な座談会もこれが最後。この《終わり》を終わらせて、みんなで反省会をする。――その時まで、バイバイ」
最後の最後。少女の意味深な言葉で急激に背筋を冷やされたメルクーアが駆け出す。考えたくもない、嫌な予感だけが駆け巡る。
その行動を予期していたローゼクティアは、そのまま箱を握る手に力を入れた。
その手に触れたい気持ちを必死に圧し潰すように。
――――――バキッ。
それが、『その世界』が鳴らした最後の音である。




