Release0002.壊滅(02)
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どうして誰も違和感を感じることができなかったのか。
直後に破壊音が鳴り響いた時、人はそれが何の音なのか理解していなかった。
見るも見惚れる星々に想いを馳せ、その幸福がある種の頂きに達しようとしていた時、それを突き崩すかのように空は燃えた。
それは突然と現れ、人工物とは一線を画するであろう光を放つ、まるで情熱すら焼き尽くす『青い炎』だった。
立ち並ぶビルディングの屋上。背後にある階段室の中から、薄っすらと人の怒号が連鎖した。それは次第に大きくなり、彼女の声は強く、鮮明に届いた。
「先輩、ここにいたら私たちも危険です! 一度下へ!」
バン! と勢いよく開け放たれた鉄扉から、一人の女性が飛び出す。普段なら見てくれは良いと思うその顔が蒼白なのを見て、呆けていた頭が状況をやっと理解する。
「い、言われなくても分かってら! いや分かりたくねぇけど、ただ現状がそうなってるから受け入れてるってだけで……」
「いつもの分析癖で意味分からないこと言ってる場合ですか!!」
叱咤するような声に、俺は慌てて階段室に戻る彼女の後に続いた。
(やばい、これは本当に徒事ではない――っ)
開けた扉は閉めるという日頃の習慣も放り出し、ビルの階段を一目散に駆け降りる。息を荒げながら踊り場を繰り返すたび、視線の先で丈の長い白衣と黒髪のポニーテールが揺れる。
ひたすらに階段を降るという激しい有酸素運動が、室内活動ばっかりで鈍りちらかした身体を締め上げる。まったくどうして、人間というのは高い場所に居たがるのか。
脳裏でそんな自業自得な悪態を吐きながら、ついさっき……たった数分前にあった悲劇を思い起こす。
屋上で星見をしていると、それは予定通りに姿を見せた。
賑わいを裂くような誰かの声が街路から届き、その声のまま空の行方を見守ると、星々は幻想的な光景をそこに映し始めた。
始めは口々から願い事らしい言葉やら感動が続いていたものだった。俺は景色に見惚れて声が出せなかったが、やはり事前に持ち上げられながら公表されていただけあって、まるで作り物の映像がリアルに映し出されているようだった。
――だが。
その流星群は、人々に幸福や感動を与えるものではなかった。
奇跡でも、人の目に美しく映るものでも、願いを叶えるものでもない。
むしろ、それは不幸の体現。
地球を終わりへと導く、最初の【災厄】。
世界を覆うが如く降り注いだ流星の大波は、終末への序章だった。
それが隕石として墜落した、というだけならどれだけマシだったことか。
通りを越え、斜向かいにある雑居ビルの中部に穿たれた隕石は、俺がいたビルを含める周囲の高層建造物の窓ガラスと街路に甚大な被害を齎した。
いち早く、叫びのまま地上に集っていた人々は視界に広がりつつあった光景から反射的に退避していて、直後に通報なり避難誘導なりの声を溢れさせた。
その最中、また一つ叫び声が上がった。
名も知らぬ彼女が指差した方向には、炎の中で煙だけが収まりつつある隕石があった。実物を見る機会がない多くの人々には、その異様な光景に物珍しさと決して小さくない不安を抱かせたことだろう。
だが問題はその後に起きた。
隕石と思われていたソレが蠢き、中から異形の何かをどろりと吐き出したのだ。
騒がしかった街中が、その一瞬、遠くのサイレンとショートした電線の音だけに静まり返る。
それは知っているようで、全く知りえない何か、とでも形容するべきモノなのだろう。
想像もしなかった硬いはずの岩石の表面が、ひび割れ、まるで奇怪な生物の口のように粘着糸を引いて開く様は、周囲の人間の脳を凍結させた。
そして。
【ピギィイイイイイッ――!!】
不快感極まりない異音を曝け出しながら、そいつは立ち上がった。それは生物だった。
大きさは大の人間よりも少し大きいぐらい。しかし場に居合わせた人間たちは、きっと全員がその大きさに対して『あり得ない』と感じたはずだ。
何故ならば、誰がどう見たってそれは世間でよく知られた――
いや、実際に何度も目にするであろう、蚊という生物に酷似していたのだから。
人間の大人よりも大きいサイズの蚊がそこにいる。そうだと分かってはいるが、でもこんなものは知らないと、そんな風に脳がパニックになって。
その巨躯は青黎い肌を纏い、目と言える部位が存在せず、まるで空想映画に出てくる宇宙怪異そのものだった。
その姿に思わず口を開けてしまい、咥えていた煙草が高いビルの屋上から緩やかに落ちた。沈黙はそれほど長く続いた。
それが街路のコンクリートにごく小さな火花を散らした時、やっと一人の人間が悲鳴を上げた。膨れ上がっていた恐怖心に耐えきれなくなって、空気を切るような甲高い女の声が響いて、伝染するように人々は狼狽えた。
相互の場所はビルの中腹と路上。アレと彼女はその場で一番近しい場所に居た。
彼女を最初の標的にしたのは、きっとそんな単純な要因でしかないのだろう。
まるでエンジンでも搭載したかのような羽音を響かせるアレは、必死の形相で逃げ出した女性を図体にそぐわない急加速で追いかけ、体部に生えた突起物を容赦なく突き刺した。
打ち上がったような断末魔の中で、事は短く進んだ。
夜闇の中、火災の明るみの下に起きる悪魔的な光景。
散る鮮血。それを見て誰も動けなかったし、俺なんかはやはりアレは蚊なのか? などと悠長なことを考えた。
その直後、突起物を腹部に刺された女性はみるみるとやせ細り、一瞬にして枯れた老婆のようになって絶命した。
全身の血が抜かれたのだと想像出来るはずの一連の流れは、場の誰にだって現実なのか夢なのかの判別を鈍らせた。その場で見た事態の恐ろしさを、まだ心のどこかで拒否していた。
その時になって、ようやくと警察や消防といった公的組織が到着したが……。
消防隊員が訓練された動きでまっすぐ隕石が直撃したビルの消火活動を始めるのに対し、パトカーから出てきた警察官二人は、目の前に女性の変死体が……無常にも腹部に青い鉄骨らしき何かが刺さって浮いている状態であることに気付く。その時の二人は、きっと怯えながらも果敢に対処せしめんとする歪んだ表情をしていただろう。
正直な話、ここで周囲の人間は僅かにでもホッとしたはずだ。
誰一人として声が出せず状況が説明出来ない、つまりは警官と消防隊員はアレの存在を壁だか何かだと誤認してまだ気付いていない状況だったが、しかし日本の警官も銃は携行している。身体のみでは成し得ないただならぬ武力がそこにある。
常人なら向けられるだけで恐怖に駆られる黒鉄の力。それが暫定的にも自分たちの味方となった――というような安心感。
異様な静寂を奇妙に思った警官二人が、女性の死体を調べようと近づいていく。姑息にもアレはまだ動きを見せなかった。
そして警官が変死体におどろおどろしく、だが果敢に職務に臨み始めた時。
その存在に気付き、困惑しながらも後退する警官。ただならぬ気配を身に感じた二人は、直観に従って銃を向ける。
すぐには発泡しなかった。だがその正体と非現実的な恐怖の塊に気付くと、冷静さを保てなくなったのか――
繰り返し引かれる引き金。連鎖する銃撃の音。
両者とも携行が許された回転式拳銃の最大装填数である五発を瞬く間に撃ち切り、これによって怪物は殲滅されたのだと、人々は歓喜しようとしたかもしれない。
しかし。
【ギギ…………】
簡潔に言えば、銃はその巨体に有効ではなかった。銃弾は体面を貫通するどころか少し陥没させるだけで、コンクリートの上に金属音を奏でた。
それからのことは瞬く間に行われた。悲鳴のまま逃げようとした警官たちも先刻の女性と動揺に血液を抜かれることになり、人間三人分の体液を吸った蚊の腹が見るも明らかに膨れ、脈打って――
その蠕動が激しくなると、腹の先端部から何か真珠のように透き通る青い物体を排出。それが急速に変形してアレと瓜二つの小型の蚊になった光景を見て、人々はやっと喚き、全力で逃げ惑い始めた。
そこからはもう、最悪と破滅だけが続いた。
これが後に語り継がれる中での、最初のターニングポイントだったと言われている。
青き流星が無限にも等しい量で降り注ぎ、大地を穿ち、無尽蔵の化け物が現れ、侵略され。
人はこの地上に、青く、そして真っ赤な血の軌跡を残していった。
叫喚。異音。倒壊していく建造物。
俺が見ていた夜の東京の色彩は、瞬く間に火の海へと変わり果て――
それがこの日、地球上の全世界で起こった未曾有の危機だ。