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「リシャール、あの森へは立ち入ってはいけないよ」

 在りし日の祖母は毎晩のようにベッドの中で幼い僕を寝かしつけながら、言い聞かせた。家の低い天井を見上げながら、僕は何度同じことを聞いただろうか。

「どうして?」

 僕たちの村のすぐそばには森があった。森は緑が綺麗で、季節の花が咲き、たまに可愛らしい小動物が顔を出し、しばらくすると森へと戻っていく、そんな生命力溢れる美しい森だったから、なぜ入ってはいけないと言われるのか分からなかった。

「あの森はたくさんの悲しみの血を吸っているからな、永き時を経て怨みや憎しみ、悲しみが何をするか分からないのだ」

 正直、そんなに負の感情がある森だとは思わなかったけれど、僕はしばらく祖母の言いつけを守っていた。祖母だけではなく、親も、村のほかの大人も繰り返し僕たちにも森に入ることを禁じた。

 しかし、僕が学校に通い始め、同じ村の子どもたちと遊ぶようになると悪戯心と反抗心から、僕たちは大人たちの目を盗んで森へとこっそり入ってかけっこやかくれんぼをして遊んだ。

 何も恐ろしいことは怒らず、誰も恐怖心を感じることもなく、僕らは安心して森に吹く優しい風に当たっていた。


 僕たちが学校に通い始めた頃、僕は彼女と出会った。僕と同じ七歳くらいの女の子。

 肩くらいまで伸ばした柔らかそうな金髪、綺麗なグリーンの瞳、白い肌とそれに映えるピンクの頬をしていた。いつから僕らの村に住んでいたのかは分からなかったけれど、僕が知る限り、彼女には親も頼れる親戚もいなくて、村のはずれ、森のすぐ近くの古い小屋に一人で住み、森の木になっている果物とか川で採れた小魚を食べて生活していて、時折、僕の親とか村の大人が食べ物を差し入れしたり、夕飯に招待したりしていた。僕の家にもよく夕飯を食べに来ていた。

 僕たちと彼女はすぐに仲良くなってと一緒に遊んでいた。彼女は生活のためか学校へは通うことができなかったので、放課後に僕たちと合流して一緒に森へ行って遊んだ。大人の目を盗んで好き勝手出来るので僕たちの遊び場は森だった。彼女は幼い頃から一人で生活していたからか、大人びていて、品がよく、僕たちと一緒になってはしゃぐことも少なく、お姉さん的な立ち位置で、僕たちが遊んでいるのを横目で見ながら、木陰で読書したりしながら、行き過ぎた行動をした僕たちを諫めたりして、たまに僕たちの遊びに加わった。僕たちと同年代の子どもたちは皆、あの森を好んでいたけれど、一緒に生きてきたからこそ彼女が一番あの森を愛していたように思う。


 僕は彼女と共に遊び、共に成長し、いつの間にかお互いが気になる存在になり、僕たちが十八歳の頃に恋仲になった。僕たちは大人になってもよく、デートであの森に行った。二人で日光に当たりながら、他愛もない話をしたりした。その間、彼女は無邪気に花冠を編み、僕の頭に載せてニコニコと笑っていた。



「私、旅に出たい」

 彼女が突然、そう告げたのは、僕たちが二十歳になったころだった。その頃、僕と彼女は、彼女がもともと住んでいた小屋を改築して、二人で住んでいた。木造の狭い平屋だけど、綺麗な木目をしていて、落ち着くことができる場所だった。

「私、学校には行けなかったけど、私の世界をあの森と村だけにしたくないの、もっと私の

 世界を広げたいの」

 驚いている僕をそのままにして彼女は

 本当に突然のことだった。

「いつ戻ってくるんだい?」

 驚きながら僕は尋ねた。

「分からない……。数週間か、数か月か、ひょっとしたら何年もかかるかも……」

 彼女は申し訳なさからか、俯いて僕から目を逸らした。

「そんなに長いこと⁉」

「本当にごめんなさい。私はリシャールのことを愛してる。だけど、あなたへの愛より優先させたいことを見つけてしまったの」

「行かないでくれよ」

 彼女と出会ってから十数年。ずっと彼女は僕の隣にいてくれたから、僕の隣に彼女がいないなんて考えられない。だけど、最初の言葉を聞いた時から引き止められないのは分かっていた。彼女は優しくて穏やかで柔らかな印象だけど、物凄く頑固だから。

「ごめんなさい。だけど、できるだけ早く帰ってくる。だけど、いつになるか分からないから待ってなくていい。待ってもらう資格ないもの」

 小さな鞄を持って今にも出ていこうとしていた彼女を抱き寄せて、口づけていた。彼女は少しの間だけそれに応えて、僕を離して

「さよなら、元気でね」

 と、静かに扉を開けて出て行った。


 彼女が出て行った話はすぐに村中に広まった。周りは彼女が僕に愛想を尽かしただの、他の男と駆け落ちした、だの皆散々、思うことを口にし、噂した。そもそも、ずっと、僕と一緒に居たのに他の男と会う暇なかったと思うけど、僕もなんだかそうだったのではないかと思い込み始めていた。


 彼女の訃報が届いたのは彼女が出て行ってから二年が過ぎた頃だった。


 異国の地で、彼女は短い生涯を終えた。彼女には身寄りがなかったから、僕が現地に赴いて彼女の亡骸をを引き取って、現地で荼毘に付してから連れて帰った。もう、彼女を問いただしてももう何も答えてくれない……。

 彼女には身寄りがなく、家の墓も持っていなかった。僕の家の墓に入れようかとも考えたのだけど、気を遣うであろう、僕の家の墓に入るよりはマイペースに過ごすことのできるように彼女が好きだったこの森の一角に彼女の墓を建てた。薄い灰色の墓石を置き、季節の花の種を植えた。僕が住んでいる小屋からもすぐに墓参りしに行くこともできる。


 やらなければいけなかった彼女の引き取りや火葬、埋葬が済むと彼女がもういないんだという現実が、僕を襲ってきた。彼女がもうこの世にはいないという事実が悲しくて、僕のそばにいないという現実が悔しくて、僕は泣いた。彼女と過ごした小屋に引きこもってたくさん泣いた――顔が腫れるほどに。

 だんだんと時間が僕を落ち着かせてくれて、泣くことは少なくなっていった。けれど、僕はいつまでも空虚感を抱えながら、前に歩き出すこともできずに自分の殻に閉じこもっていた。

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