回想記
詩の回想記です。
1年前ー
「詩ー!起きてるの?」
母の声が聞こえて、俺は今まで動かしていた手を止めた。
「またそれ?昨日寝たの?」
「寝た」
俺は今、タイムスリップについて自分なりにレポートをまとめているところだった。夏休みの自由課題、といってもいいだろう。
だがそれだけに留まらず、かなりマニアックなところまで調べてしまっているが。
俺はなぜか、過去にだけタイムスリップできるという能力を持って生まれた。
それに気がついたのは5歳の頃。幼稚園の運動会の徒競走で、俺はスタートダッシュからズッコケて悔しい思いをしていた。
スタートの時に戻れたらいいのに、小さい頭ながらそう考えていた。
そのとき急に視界が歪んで、何かに吸い込まれるような、ざっくり言えば、ブラックホールに吸い込まれてるんじゃないかと思うくらいの強い衝撃に襲われた。
はっとしたときには、既にスタートを切る前に逆戻りしていたという訳だ。
それから俺は、自分ができるタイムスリップについて把握しきるまで、そんなに時間はかからなかった。
だが、その能力を使う時はあまりなく、そもそも「ああしとけばよかった」という後悔もあまりしなかったので、その能力はほとんど封印状態にあった。
「そんなこと言って、どうせ寝てないんでしょ」
母が押付けがましく言う。真実も聞かないでずけずけとものを言われるのは嫌気がさした。
「寝たよ。30分くらい」
ぶっきらぼうに答えてやった。
母は肩をすくめ、諦めたように言う。
「あのねぇ……。まあいいわ。亨のお見舞い行くから準備して」
「え、今日?」
「あれ?言ってなかった?」
「聞いてない。…早くしないと」
兄のお見舞いに行くなんて、聞いていなかった。
時計の針はもう既に11時を回っている。
俺の4つ上の兄、亨は、心臓が弱く持病も患っているため、病院での生活を送っている。
月に1度ほど様子を見に行っているが、今のところ体調は安定しているようだし、何より毎晩する電話から聞こえる声も元気そうだった。
どんな時でも明るく、俺の前では泣きっ面なんて見せたことがない。体が弱いことに屈服せず、堂々としている兄を俺は尊敬しているし、兄も俺のことを大切に思っていると言ってくれた。
それに、俺の能力について、身内で知っているのは兄だけだった。
過去へタイムスリップした時、そこにはもう1人の俺がいて、リプレイのように動いている。もちろんそれは俺以外には見えない。
だが、兄にはそれが見えてしまったのだ。
「あれ、詩が2人いる…」
と、最初は信じ難かったようなので俺はしらけ通そうとしたが、問責めをくらい、結局全てを暴露するはめになった。
兄は少し驚いただけで、特に何も言わなかった。
ただ、うん、そっか、と静かに頷いただけだった。
まだ小さかった俺には、その反応がどれほど大人びて見えたか、今でも鮮明に覚えている。
病院に付き、兄のいる病室へ入る。
「詩!母さん!」
今か今かと待ちわびていたように、兄は満面の笑みで俺たちを迎えた。
俺たちが来ると知らされているはずなのに、兄は毎回、長年会っていなくて、久しぶりに再会したかのような反応をする。
「よっ、兄貴」
「亨、体調はどう?」
「今のところは安定してるよ。食事もちゃんと摂ってるし」
心配させまいと明るく振る舞っているが、今日の兄はなんだかいつもと様子が違った。妙に落ち着いているというか、わざとそっけない態度でいるというか。
そのことに母が気づいているのかはさておいて。
「あ、詩くんにお母さん!いらしてましたか。お久しぶりです」
颯爽と部屋に入って来たのは、兄の担当医、戸次だ。
中年の男だが童顔で、パッと見30代前半に見える。人当たりもよく親切で、この病院内では特にマダム達の評判が良いらしい。
「戸次先生、亨の容態のほうは…」
「今のところは非常に安定していますが、亨くんの今後のことについて少しお話が」
戸次がドアのほうに手を向けたので、別室で、ということなのだろう。
母は「ちょっと待っててね」と言い残し、戸次と一緒に病室から出ていった。
「何かあったの?兄貴」
わざとらしく聞いた。
「今度、薬を変更するらしいんだ。身体の成長に合わせて、もう少し強い薬にね」
「ふーん…」
何かを隠しているようだった。やはり妙に落ち着いている。
あの時もそうだった。
俺が過去にタイムスリップできることを兄に打ち明けたときも。
何があるのかは知らないが、絶対何か隠している。
俺には言えない、何かを。
「…詩?」
しばらく黙っていた俺の顔を兄は覗き込む。
「何でもないよ。なんか兄貴、うれしそうだなと思って」
思い切りはぐらかした。このままずるずる引きずるのは嫌だった。
「詩たちが来てくれたからかな」
微笑んで俺の頭に手を伸ばす。俺はその腕を掴んだ。
前より、細くなっている気がした。
「いーや違うね。何か隠してる」
兄は一瞬目を見開いた。そしてすぐに目を背ける。頬は若干赤らんでいた。
「……実はこの間、琴羽がお見舞いに来てくれたんだ」
中野琴羽。俺より2つ上の、兄の交際相手だ。
出会いはもちろんこの病院だ。3年前まで隣の病室にいて、よく一緒に話をしていたことがきっかけになったらしい。
今は退院して普通に生活を送っているようだが、2人はほぼ毎日のように連絡を取り合っている。
「…そーゆーことね。普通に言えばいいじゃん」
「だって、惚気って思われるの嫌だもん」
拗ねたように頬を膨らませる。こう見ると、子供っぽいところもあるんだな、と思う。弟が思うことでもない気がするが。
「別に、俺は思わないよ。話したいこと話せばいーんじゃない」
「…ありがとう、詩」
そう言って兄は俺の頭に手を置く。なんとなく、その仕草がぎこちなかった。
それからだいたい20分ほどして、母と戸次が病室に入ってきた。
俺はトイレに行くために病室から出たが、すれ違いざまに母の顔が見え、察した。
兄の体に何か異変があったんだ
と。
目で見てわかるほどに母の表情は曇り、目には一切の光さえ射し込んでいなかった。
俺には言えない何か、があるんだ。
だが、別に秘密にされたところでどうってことない。
過去に戻ればいいのだから。
俺は真相を確かめるべく、人目の付かないトイレへ足を急がせた。