始道
「詩、起きろ」
低く落ち着きをはらった声が、声の主の目の前で規則正しい寝息を立てて眠っている少年の鼓膜を震わせた。
だがその少年は、すぐには目を開かず、まだ朦朧とした意識の中にいた。
頭がよく働かないのだ。起きろと言われたところで、すぐには起きられないのが人間の大半であると、少年は勝手に思っていた。
この少年、蒼海詩と、先程の声の主、シエライト・オリザは、タイムスリップに関して研究する仲として、師弟関係にあった。
目指しているものがお互い同じであったため、真理を追い求めて旅をするシエライトに、詩はついて行くことにしたのだ。
2017年の未来からタイムスリップしてきたという詩をシエライトは快く受け入れ、旅に同伴させることにした。
そう、詩は、タイムスリップをすることができるという能力を持っているのだ。
なぜそんな能力を持って生まれたのか、それは本人にもわからないことだった。
だが、詩がタイムスリップできるのは過去だけで、誰もが想い描くようなタイムスリップとは違っていた。
未来へ行こうとしても行けない。
やっと見つけたと思った未来へ行く方法も、結局失敗してこのザマ、タイムスリップした先は、1730年のイタリアだった。
ここがどこかもわからず、途方に暮れ、空腹で倒れそうになっている詩に手を差し伸べたのは、元タイムマシーン開発研究所員のシエライトだった。
詩はシエライトのことを「先生」と呼ぶ。それは、自分の命の恩人でもあるシエライトに対しての、敬意の現れであった。
かれこれ1年近く旅をしているが、現在2人は新たな場所へと足を向けていた。
向かっている先は、産業革命真っ只中のイギリスだった。
だいぶ錆び付いた線路の上を走る車両がガタゴトと揺れる。それが余計に詩の睡眠欲を増倍させていた。
「詩」
「っ!」
夢見心地だった詩だったが、それは自分の師匠であるシエライトの声によって簡単に破られてしまったのだった。
詩が肩をびくつかせ、ようやく目覚めた姿を見ると、シエライトは苦笑した。
「…もう着くんすか…?」
「ああ」
「……まだ寝てたかった…」
詩は、まだ眠そうに目をこすっている。
「充分寝ただろう?」
「子供には足りないんすよ」
「そんなこと言ったって、もう15だろう。充分大人だ」
シエライトは肩をすくめ、呆れたように笑った。
「……何笑ってんすか」
「いや、まだ自分のことを子供認識できているのは良いことだと思ってな」
「それ褒めてるんすか…?」
「思うように受け取っておけばいい」
そんな会話をしているうちに、車両は駅に入っていった。ガタン、と2人の体を揺らせて、車両はゆっくりと停止した。
「キングスクロス駅ー、キングスクロス駅ー」
怠そうなアナウンスと共に外へ出た2人は、南へ向かって歩き出した。
「どこ行きます?」
詩は腹のあたりをさすりながら、わざとらしく言った。
長い時間列車に揺られていたため、早朝から今の14時まで、何も食べていなかったのだ。
「…腹が減っているならそう言えばいいだろう」
「先生は平気なんすか」
「……少し、空いているかもな。店を探そう。前に寄ったことのある店がこの近くにあったはずだ」
詩にとって、ここは初めて踏む地だったが、地図は頭に叩き込んであるし、何より昔1度ここに訪れたことがあるというシエライトについて行けば平気だろう、そう思っているせいか、いつもより不安は少なくなっていた。
だがそれは薄れただけであって、決して不安がなくなったわけではないのが現状だった。
不安と焦りが頭の中でせめぎ合って詩を複雑にさせている。
旅をして、時間が経っていくにつれて、それは日に日に大きくなっている気すらする。
その不安は、すべて自分の兄のことについてだと、詩は自分でも把握しきっていた。
詩の兄は、病気を患っているのだ。しかも治療法に適切なものがなく、余命3年とまで宣告された。
兄が患っているのは、まさに不治の病といえる大きなものだった。
兄貴が待ってる。
詩は、そんな思いをずっと抱えているのだ。
「随分不安そうだな」
シエライトが、横目で詩を見やった。
1年も一緒に旅をしていれば、こういった細かいところも、シエライトには簡単に見破ることができるのだった。
「……別にそんなんじゃないっすよ」
「そうか、ならいい」
相手に心配をかけたくないのが詩の性分であることを、シエライトは既に把握しきっていた。
だから、あまり奥まで詮索しないようにしていた。
どうやら、1度否定したものについて何度も推されると、詩の癇に障るようだった。
駅の南口から出ると、そこは人で埋め尽くされていた。
労働者からその雇い主であろう人間が、急かしく動いている。
「うわ…」
詩は嗚咽を漏らした。
「だいぶ煙いな。ここで店を探すのは辞めよう」
「え、でも…前寄ったことあるって言ってた店は…」
「この様子じゃ、資本家に土地を買われて潰れているだろうな」
資本主義社会では、すべてが競走だ。お互いがお互いを潰しあっていき、最終的に残るのは、本当に力のあるところだと、詩は授業でそう言われたのを思い出した。
「ここを抜けたところで探そう。詩、はぐれるなよ」
「うっす」
2人は、人混みの中へと消えていった。