糖衣錠
手紙が届いた。同級生で、私と同じく小説家を志す平子君からであった。彼とは高校時代、毎日放課後に小説について話をしたものだ。互いの主張に熱が入り、六時のチャイムに気づかず語り合った記憶もある。だが休みの日まで共に行動するかといえばそうでもなく、学校という空間で、小説ただ一つを接点として関わり合う友人であった。
三月頭に行われた卒業式の後で、彼は私に文通を持ちかけた。東京に財産家の親戚がおり、これからそこで両親ともども暮らすのだ、と寂しげな表情を浮かべていたことを鮮明に覚えている。私も寂しさを覚えずにはいられなかったが、そのような気持ちで見送ってはならないと思い、田舎よりも東京の方が刺激は多いだろう、そう励ましとも羨みともとれる言葉で見送った。
郵便受けにあったのは封筒一つのみであった。差出人は、平子澄明とある。彼の名前だ。そして宛先には私の名前。約束した交換手紙である。
封筒の上方に鋏を入れ、中身を切らぬよう、慎重に開ける。中にあるのは便箋一枚、それだけである。彼特有の弱く頼りない筆跡が、しっかりと表れている。慣れない万年筆で手紙を書く平子君の姿が、ありありと想像できた。
――板垣君、お元気ですか。平子です。そちらでは桜の散った頃でしょうか。
――僕は大学に通っているわけでもなければ、アルバイトすらもしていない、無職業の身であります。しかしながら伯父が養ってくれており、生活には苦労することはありません。
率直に、良い立場であると感じた。そういう私も定職に就くことができず、平子君と同じ立場だと言えなくもないのだが、私は彼とは違い、アルバイトを掛け持ってようやく生活できる状態なのだ。彼に与えられた環境は羨みの感情を持つには十分である。
――板垣君はどうですか。体調を崩していたりはしませんか。執筆の調子はどうですか。何事も真摯に向き合う君ですから、八月の締め切りまでに、さぞ良い作品を作り上げることでしょう。ぜひ、返事を頂けると嬉しいです。そこで君の近況についても教えてください。
平子澄明、と最後に名前を書いて、彼の筆跡は止まっていた。随分と、短い手紙である。だがその短さの中に、高校時代の平子君とは違った印象を受けた。まず、文章がどこかよそよそしいものであった点だ。彼は婉曲な表現を多用する男ではあったが、この手紙のようにどこか他人行儀で、フィルターを通したようなものではないからだ。
なにより驚いたのは、彼が褒め言葉を使ったという点であった。今までの彼ならば、他の人間はもちろん、友人である私にさえ一切の賛辞を呈することがなかったからだ。彼は物静かでありながら強い自尊心を抱いており、それに傷つくことを恐れているのか、貶めることはないながら決して他の作品を褒めることのない人間であった。
平子君は確かに手紙の中で「何事も真摯に向き合う君ですから――」と私のことを持ち上げた。これは間違いなく彼の筆跡であり、改竄のしようがない。口で伝えるのが難しくとも、文字であれば伝えることができる、というのは私にも分かる。結局のところ彼は、あの虚しげな笑いの奥に、このような言葉を隠していたということなのだろうか。満更でもない。
私は平子君とは違い秋田の片田舎に残ったまま、安いアパートに住み、アルバイトで生活を立て、粗末な食事を掻き込み、ペンを執り続けている。彼はこのような姿を見たわけではないだろうが、私は彼に多少の劣等感を抱いており、その彼から賛辞を貰ったということが、嬉しくてたまらないのだ。
そこまで思い、気が付いた。彼をさも他人行儀であるかのように見せかけ、遠ざけているのは私なのではなかろうか。
私の手の上に、形のない錠剤が現れた。舐めてみると甘い、糖衣錠であった。しかしそれを舐め続けると、じきに苦味へと変わっていくのである。
白の便箋に、簡単な返事を書いた。大袈裟な感情は込めず最低限のことだけを記し、近況報告とした。手紙を書くとなれば、どのようなことをどのようにして書けば良いのか、分からなくなるのだ。時候の挨拶を調べてみたり、辞書を引きつつ難解な語を使ってみたりと、自分が小説を書く者として成長しているということを無理にでも誇示すべきかとも考えたが、そのような行為に意味がないことをすぐに理解した。あれこれ悩むくらいならばいっそ、あっさりした返事を書こうと思い立ち、大雑把に近況とささやかな感謝の念を書き綴った。万年筆で書かれた手紙の返事をそこらの店で買ったボールペンで書くのは気が引けるが、これも仕方ない。
アルバイトを終えた夜の九時過ぎ。平子君宛の手紙をポストに投函し、缶コーヒーの蓋を開けた。高校を出てからようやく美味いと感じるようになったこの味が、時々欲しくなる。それは大人びた気分に浸りたいときであったり、気持ちを鎮めたいときであったりだ。ふらりと立ち寄ったコンビニで一本、微糖のコーヒーを手に取り、外の駐車場で飲み干した。
私はしばしば築年数を尋ねられるようなアパートに住んでおり、それにも関わらず生活は厳しく、小説を書く時間さえ満足に取れていない。だがそれは決して悲観すべきことではなく、むしろ私に与えられた最良の環境なのだと考えるようにした。そう思考を切り替えることにより、私は小説を書く力を持ち続けてきた。
しかし手紙を受け取ったことで、その思考の紐が解けるのを感じた。恥ずかしながら、彼からのささやかな賛辞が私の気力を増大させてしまったのだ。相手が誰であれ、自分の生み出したものを認められるということは嬉しいものである。一切他者を褒めようとしなかった彼であればなおさらだ。私はあの手紙を読んだ日を境にして、より小説に心酔していった。
しかし非常に恵まれた平子君の執筆環境を知ったことで、今まで保ってきた思考にヒビが入ったのもまた事実である。高校時代はお互いの肩を並べあうような関係であったのだが、現在の状況を見ると、とてもそうは思えない。彼がどのような作品を書いているかは知らないが、環境の面だけで言えば明らかに彼の方が恵まれており、相対的に私は不遇であると言わざるを得ない。環境に訴えてしまう自らの意気地なさを感じていながら、どうしても比べずにはいられないのである。
平子君からの二通目の手紙は、返事を出した日から一週間ほどして届いた。封筒を開けると、中には便箋が二枚入っている。――板垣君、お返事ありがとうございます、と挨拶から入り、親戚の話や身近な出来事などがつらつらと綴られているのみであった。しかし二枚目の便箋の最後には、文面に糖衣錠を添えて曰く、――締め切りまで三か月ほどとなりました。執筆の方、順調に進んでいるでしょうか。人一倍努力する君のことですから、さぞ熱が入っていることでしょう。受賞者として君の名前を見る日を楽しみにしています――と、あった。平子君が純粋に私を認め、同志として応援の言葉を贈ってくれているのか、あるいは単に挑発を行っているだけなのか、私には分かりかねる。丁寧に書かれた文字だけではさも激励しているかのように映っても、微笑を浮かべた顔でこのようなことを言われたなら、間違いなくそれ以外の意味でとるだろう。彼がどのような表情でこの手紙を書いているのかは、目を見なければ判断がつかない。
糖衣錠は一つ、先程よりも大きくなり、舌の上でより長い時間転がすことができるようになった。しかしその中身が露わになった時の苦みもまた、いっそう大きく残るのである。飲み込むのが辛い二錠目は、相も変わらず私の舌の上にあり続ける。
初夏である。あれから、平子君からの手紙は絶え間なく届いた。返事を待たずして送られてきたこともあった。封筒一つあたりの便箋の枚数も増え、届いたものを積み重ねると、おおよそ手のひらほどの厚さにもなった。私がその量に相応しい返事を書いたかといえば甚だ疑問であるが、彼からは何も言ってこないので、良しとしよう。蝉の鳴き声が響けば、額から零れた汗がインキを滲ませる。彼の字は、紙を追うごとに細くなっていった。
そして手紙に関して、一つ気になる点が見受けられた。平子君は、自らの作品について全く言及しないのだ。書かれているのは他愛もない世間話か、私の身を案じる内容のものばかりであった。おかげで、彼の筆はどんな物語を描いているのか、それがどこまで書き進められたものなのか、私は全く知ることができなかった。
私はといえば、暑さに反比例して執筆のペースが落ちてきていた。日に日に増す暑さで体力は削られ、一字一句、捻り出すようにして筆を進めるのがやっとだ。そして幾つも届く手紙である。整然と並ぶ賛辞の言葉が、私を急き立てている。学生時代から今まで甲乙つけることとのなかった、平子君と私が筆を競わせる場であり、目標への一途なのだ。彼より良い作品を作り上げよう、いや作らねばならぬと、私の強い思いは幾度も幾度もペン先を震わせた。
だが、どうだ。今まさに描かんとしている物語は、決して優れたものではない。いつかの手紙にあったように、賞に輝くべきものを生み出しているのだという自覚は、すでにもうないのだ。
私は焦っていた。感情の汲み取れない無慈悲な筆跡を見るたびに、焦っていた。
締め切りまでは五十日余りとなった。自他ともに認める遅筆である私が、今から物語を書き直し、相応のレベルに昇華させることができるとは考え辛い。そうは言っても、現在の物語をより良く書き換えたところで、読み手に与える印象の変化など高が知れている。私はこの作品に精を尽くさねばならないのだが、このままでは賞はおろか、平子君の失望を買ってしまいかねない。
では、なぜ私は悩まねばならないのか。思考がそこへ辿り着いたとき、私は一つの結論に至った。確かに作品の不出来が大きな要因であることは間違いない。だがそもそもは、平子君の下手な賛辞を真に受けてしまったのが原因であろう。読んでいなかったのなら、あるいは真に受けずに流していたならば、私はもっと余裕を持ち、一心不乱にペンを握っていたに違いない。結局のところ私は、彼が掘った落とし穴にまんまと引っ掛かってしまったのだ。
私は原稿用紙を机の脇に寄せ、引き出しから一枚、便箋を取り出した。そうして平子君へ向けて、糖で包めた賛辞を散りばめた、いかにも嫌らしい手紙を書き始めるのだ。
盆過ぎの真昼である。墓参りを済ませた私は、いつものようにペンを握り、机に向かっていた。その頃には既に、私は一切のアルバイトを辞めていた。
さきの手紙の返信はすぐさま届いた。だが私は、その封を開けることはせず、再び手紙を書いた。もはや平子君の手紙に価値など見出してはいなかったからだ。彼の微笑みがやはり腹黒いものであったと思い込むことができた今、私に彼の手紙を読む義理などない。
その後私は、返事を待たず事あるごとに手紙を出し続けた。家に手紙を届ける郵便局員の顔を覚えてしまうほどには、執拗であった。糖衣錠も、忘れることなく添付した。
そうして何度も平子君に対する行動を起こしたがため、遂に私は作品の完結を断念する寸前まで来ていた。ただ既に、この物語に対する情熱は失われてしまった。「何事も真摯に向き合う君ですから――」と、彼は一通目の手紙に書いていた。いったい、今の私は何に対して真摯に向き合っているのであろうか。自らの良心から目を逸らし続ける私に、小説を書く権利などあるのだろうか。そして思案を巡らせることで、私のペンは空回りを繰り返した。糖衣錠の恐ろしさなど、とっくに忘れてしまっていたのだ。
締め切りまでの時間は、明らかに目減りしている。そこで私がすべきこととは何なのか。当然ながら物語の続きを書き、完成させることである。ただ、今から完成させたのでは、推敲に十分な時間を使えない。すなわちそれは作品の質の低下に繋がり、受賞の望みも薄くなる、そういうことである。
とうに破綻した物語を書き進めながら、私は手紙を待っていた。あれだけ強気に押していながら、こちらが少し抵抗しただけで、音沙汰がなくなってしまった。彼は意外にも打たれ弱い人間なのかもしれない。そうだとすれば、私は彼に対し、少々酷なことをしたのではないか。過度に追いつめてしまった、それは明らかな私の過失ではないかと、不安と自責の念に駆られていた。私にできるのは、彼から返事が届くことを願うだけである。
だがその思いとは裏腹に、何日経っても郵便受けが開く気配さえなかった。だがまだ配達の途中かもしれない、あるいはゆっくり読んでいる最中なのかもしれない。私は物思いにふけるようになった。しかしそれは、虫が良い妄想でしかないのだ。
平子君、彼は、手紙の封すらも開けていないのではないか。何が書かれているのか見通して、読まずに処分したのではなかろうか。私がそうしたように、彼もまた同様の行為を行っているのだろう、私はそう考えた。それならば返事を出さない理由にも合点がいく。読まないことには返事などできるはずもない。また、彼は糖衣錠という名の切り札を、私より先に使い切ってしまったのだろう。もう効かないのだと悟れば、再びそれを送りつけることに何の意味があるのだろうか。
では、平子君は今何をしているのか。小説を書いているのだという仮説は、立てることができなかった。
締め切りは翌日に迫った。結局のところ、私は物語を書き上げることができずにいた。そして、続きを書く意志はもうない。小説家になる資格を失った私は、ある用意をしていた。鞄に身の回りのものを詰め込み、バス会社に電話をかけた。
さて、あの後であるが、結局平子君からの手紙は来ず、連絡は取れぬままである。そこで私は、自らが紡いだ話の終着点よりも、彼が今、何を考えているのか、それを突き止めることこそが重要だと感じた。つまるところ、彼に直接会って話をつけてこようと考えたのだ。
私の推測と違い、平子君が今でもペンを執り続けていたのだとしたら、これほど迷惑な頃合いでの来客はないだろう。もしそうであるならば、私はすぐに身を引き、自らの負けを認める所存だ。だがしかし、彼が小説家の道を歩むことを諦めていたとしても、私にその決断を覆らせる力はない。
東京行きの夜行バスは、夜九時に出発し、朝の七時に到着する。親戚から頂いたシャツで精いっぱいのお洒落をし、八時を回った頃にアパートを出た。手に持つのは鞄ただ一つ、原稿用紙やペンは、一切合切部屋に残してきた。用を成さないと思ったがためである。東京へ行くのは初めてではあるが、夥しい人が暮らしているのだということくらいは知っている。封筒に記された住所を手掛かりに、なんとか平子君の家まで行くつもりだ。
バスは時刻きっかりに到着した。私は後方の席に座り、背もたれに重い体を預けた。とにかく眠ろうと思い目を閉じたものの、エンジン音や振動がいやに感じられ、あくびの一つも出ない。意識するほどに覚醒してしまうのである。毛布を借りるだの、持ってきたお茶を飲むだの、あれこれと試してみたものの、結局眠りにつくことができたのは、深夜二時を過ぎた頃であった。
しかし眠ってしまえば案外早いものである。夢を見る暇もなくバスは終点に停まり、寝ぼけ眼の私を運転士が急かした。そうしてバスから降りた瞬間に、排気ガスの臭いが鼻をつき、人の気配がどうどうと迫りくる感触を覚えた。ここが日本の首都である。腹を減らした私は、近くの牛丼屋で朝食を摂った。
平子君の住まいは、都心から少し離れた郊外にある。そう遠い場所でもないので、電車を乗り継いでいけば一時間ほどで着くと思われた。駅員の世話にはなりたくなかったので、券売機の近くにある路線図を自力で読み解いた。
それから切符を買い、自動改札を通り、電車に乗る。やはり初めての東京である。慣れないことが立て続き、早くも疲弊した。さらには考えが浅かったか、通勤ラッシュの時間と被ったがために、電車は定員を超え、私は駅員に背中を押されなんとか乗り込んだ。着席することはおろか吊革を掴むことさえできず、どこからともなく整髪料の臭いが漂い、おまけに長時間のバス移動で腰が痛む。ああなんという場所だろうか、恐ろしき東京である。この人混みに、平子君という存在は染められてしまったか。
平子家の最寄り駅まで数本の電車を乗り継ぎ、どうにか到着することができた。ここから先は、さすがにこれ以上住所だけを手掛かりとして行くのは不可能であるので、交番を訪ねて簡易な地図を書いて貰った。その地図の示す場所、そこに平子君の伯父の家があり、彼もそこで暮らしているのだ。
行程の半分までは、意気揚々と歩いていた。遥々やってきた高揚感と、数か月振りに友人と再会するという期待感があったのだ。だが、いよいよ彼の家が近づいてくると、急に不安というものが増大してきた。彼が日々、どのように暮らしているのか、見当もつかないのである。この短期間で、彼は得体の知れない人物になってしまったのだろう。私が知っている平子澄明という人間は、この街に掻き消されてしまったかもしれないのだ。
最後の通りで赤信号に引っ掛かった。私は歩みを止め、息を吐く。青信号になった途端、誰よりも早く飛び出した。そして、角を曲がって地図に示された赤い印に向かって歩き続けた。そして目的の建物に辿り着いた。荘厳な一軒家の門扉に「平子」という表札がある。私は、遂に、やって来たのだ。ここが平子君の住む、家なのだ。
この期に及んで私は、どのような顔をして玄関扉が開くのを待つべきか考え始めた。まったく情けない。それでは私は何をしに、東京までやってきたのだろうか。凝った肩を揺すり、数度深呼吸をして心を落ち着ける。私は、平子君と、話をするためにここまで来たのだ。果たして何を思っているのだろうか、その答えを聞き出すために、来たのである。
私はインターフォンを押した。数秒の間があって、どちら様ですか、と声が掛けられる。少しばかり震えている声で、澄明君の友人です、と言った。わずかに語尾が小さくなり、不安げな声色となった。
ほどなくして扉が開いた。現れたのは四十歳ぐらいの男性で、優しげな目をしている。おそらくこの方が平子君の伯父なのであろう。よく来たねと小さく声をかけ、家に上がるよう合図をした。まだ平子君の気配はない。
平子家は、豪邸と言うほどではないながらも、世間一般のものと比べると幾分大きく、綺麗な家である。伯父さんは階段の方に手招きをし、私を先導して歩いた。
階段を上がって二階、奥の西側の部屋に私は案内された。ここが澄明の部屋だよ、と一言述べると、一人階下へと戻っていった。
私はといえば、ここへ来てまだ尻込みをしている、ということはなかった。覚悟を決め、右手を握る。胸の高さまで上げ、軽く、それでいて強かに三度叩いた。すると中から足音がする。平子君のものだ。
そしてドアは内側から開かれた。平子君は、多少髪を切った点を除けば全く変わっていなかった。突然の来訪に、困惑しているように見える。彼は私の姿を見て、手を見て、指先のインクを見て、ようやく口を開いた。
「いったい、どうしたんだい?」
平子君は何も分かっていないようだった。表情が変わらないので、本当に分からないのかとぼけているのか判断がつかない。私は少し拍子抜けした。彼は私を部屋に入れると座布団を取り出し、向かい合うかたちに配置した。
「で、どうしたのさ」
少なくとも、彼から話を切り出す意図はないようだ。私から話すほか、あるまい。
「そうだな……。じゃあ、一つ質問をしよう。平子君、今小説を書いているかい?」
「いいや」
平子君は躊躇うことなく答えた。まだ真意は掴めない。自分のしたことが何であるか本当に理解していないのか、あるいは全部見通しているのか。すると彼から質問が投げかけられた。
「では逆に聞くけれど、板垣君。君は小説を書き上げたのかい? 締め切りは今日だろう」
この瞬間、私は確信した。平子君は分かって言っている。全てを見越したうえでの行動なのだ。高校時代に行動を共にした仲、私がどう動くかくらい考えられるだろう。だからこそ性質が悪い。
「知っているんだろう?」
私はそう答えた。
「らしくもない甘言で私をいい気分にさせつつ、君はプレッシャーを与え続けた。結果、私は小説を書き上げることはかなわなかった。分かっててやっていたんだろう」
平子君の目をしかと見据えた。だが、彼は全くひるんだ様子を見せなかった。思っていた反応と違う。彼はこれほどにポーカーフェイスだったのだろうか。
「まさか、そんなこと。一体、何のために僕がそんなことをするとでも言うのかい? もし僕が君と同じように小説を書いていたならば、ライバルを蹴落とすというメリットがある。だが、今の僕にはそんなものはない」
私の真っ向から否定してきた。ならばあの手紙に記されていたのは、屈託のない褒め言葉だったとでも言うのか?
「僕の机を調べたっていい。今の僕には、そんなことをする意味はどこにもないよ」
そのように言う平子君の目を、私はもう一度見据えた。まっすぐな目をしていた。まるで、こちらが逃げ出したくなるほどに。彼はそんな眼差しで私を見つめ、「机を調べても構わない」と言った。こうなれば、私は彼の真実を信じざるを得なくなる。
「いや……いい。そんな不躾なことはしない」
目線のやり場に困った私は、平子君の喉元を見つめ、次の言葉を待った。だが、一向にその喉は動かない。仕方がないので、また私から話を始める。
「……なぜだ?」一旦切って、もう一度。「平子君。なぜ君は甘い言葉で、私を急かすような真似をしたんだ?」
私は彼の鼻筋に目線を置いた。ここまでが精一杯だった。これ以上目線を上げることはできそうにない。だが彼は、私よりも強い視線を目の中に投げかけてくる。それとも、私の単なる思い込みだろうか。
「板垣君。君は少し誤解をしてはいないか。僕は、ただ純粋に小説家としての君を応援したかったんだよ」
思ってもみない言葉だった。
「だけど……僕はどうも褒め言葉というのが苦手でね……。文通をしようと言ったのも、それが理由さ。混乱させて申し訳ない」
私は唇を噛んだ。これでは私の立つ瀬がないではないか。純粋な好意を曲解し、勝手に追いつめられ、挙句の果てにその友人をなじりにわざわざ来てしまったのだ。いったい私は、何を見たのだろうか。彼の手紙の、何を読んだのだろうか。
骨抜きにされた私は、最後に尋ねた。今は、何をして暮らしているのか。
「今は、伯父の仕事を手伝っているよ。ここ最近は忙しくなって、なかなか手紙を返せないでいた。済まない」
一呼吸おいて、
「僕は、ペンより重いものを持って生きなくてはいけない」
「……ああ」
「全部、君の勘違いだったんじゃないか。……板垣君」
それ以上、何も言うことができなかった。私は平子澄明という人間の前で、完全なる敗北を喫したのだ。のこのこと東京まで来て、彼の目の前で墓穴を掘ったのだ。救いようがない。
糖衣錠を手にする前から私の感覚はずれていたのかもしれない。正しいことを疑っては、間違ったものを信じ込む。そうして、錠剤薬を飲み続け、幻影を見続けた結果、私は壊してしまったのだ。
差し込む西日を見た平子君が、「泊まっていきなよ」と優しく言う。私は、力なく頷くことしかできなかった。
その日私は、初めて平子澄明という人間を見つめ、自らを知ったのだ。