『血塗られた記憶』
力比べと言っても、雪太とスノーではスノーの方が圧倒的だろう。春也がツキヨミから聞いた話によると、生きた牛をそのまま持ち上げたこともあるそうだ。それでは、まるで勝負にならない。
雪太達は、試験の一環としてアメノーシに闘牛場に連れてこられた。暴れ牛が芝生の上を、何頭も走り回っている。茶色の獰猛そうな牛だ。
それを、第六線のメンバーは唖然としながら見ていた。そこで、アメノーシがルールを説明する。まずは牛の背中に飛び乗り、その後は手渡された小太刀を、牛の首に突き立てろということらしい。その素早さ、華麗さなどで勝負が決まるという。
生きた牛を殺すのだ。力比べというよりは、力量、メンタルが重要になってくる。
スノーは、この勝負で自分が勝てば、雪太を自身の警護役にすると言った。あの時、スノーの表情から何かが感じられたのはそういうことだったのか、と雪太はいやに納得した。しかし雪太にとって、今はスノーの相手などをしている暇はない。何が何でも、この試験を制しなければならない。勝たなければならないのだ。
雪太はアメノーシから手渡された小太刀を握りしめ、牛が近くに来るのをじっと構えて待った。
早速、一頭の牛がこちらに向けて走ってくる。すると、スノーが先に駆け出した。そして、勢いよく牛に跨る。更に、素早く小太刀を抜くと、牛の喉元に突き刺した。刃が牛の喉を貫通する。やがて牛の速度が急速に弱くなり、そして倒れた。
倒れる瞬間、スノーは刃を抜いて飛び降り、見事に着地してみせた。スノーの小太刀には、ベッタリと牛の血がついている。
残酷な現場を目撃し、後ろにいた女子二人は耐えられなくなったのか、両手で顔面を覆っている。雪太も、この光景をあまりよいものだと認めなかった。これを今度は、自分がやらなければならないのかと思うと、感傷に浸った。棄権したいというのが、今の雪太の本音だった。しかし、そうなればスノーの警護役にされてしまう。
「では、次は君の番だ」
アメノーシがそう言うので、雪太は小太刀を更にぎゅっと握った。すると、また一頭の牛がこちらに向かってきた。それを認めた雪太は深呼吸し、走り出した。
雪太は牛に跨ろうとするが、なかなかタイミングが掴めず、振り落とされてしまった。その場に倒れこむと、左腕を強く打った。しかし、何故か痛みはそんなに感じない。それを不思議に思いながらも、雪太は立ち上がり、もう一度チャンスを窺った。
その後、何度も何度も牛に振り落とされながら、どうにかして乗っかることができた。しかし、乗れただけでは試練は達成されない。雪太は、小太刀に手をかける。
(抜けない……?)
この時、雪太にある迷いが生じた。それが原因で、小太刀がなかなか抜けなかったのだ。今まで、虫以外は殺したことがない。それ故に、迷っているのだろうか。
……いや、理由はもう一つある。
小学生の時、雪太が帰宅して家の中に入ると、最初に飛び込んできたのは、床に染みついた血だった。次に、酷い異臭を感じた。血の匂いだった。それまでに感じたことのないくらい生臭く、鼻の中が刺激される。恐る恐るドアを開けてみると、そこにはまるで戦場のような惨状が広がっていた。リビングの中央には両親が横たわり、部屋の中は荒らされていた。血によってついたであろう、足跡がくっきりと見えた。
その光景を思い出し、雪太は絶叫した。
「うわあぁぁぁ!!」
気がついた時には、また牛に蹴落とされた後だった。それを見て、異変を感じた春也達が、心配したように駆け寄ってきた。
「雪太、大丈夫?」
「郡山君、しっかり!」
放心状態の雪太に対し、春也と由佳が声をかけている。しかし、雪太の鼓動は激しさを増し、嘔気も襲ってきた。ずっと心の奥に封印していた記憶が、突如として抉り返されたように、雪太に頭痛までも与えた。視界が歪み、自分が誰なのか、そして、どこにいるのかさえも分からなくなっていく。
数分後。ようやく気持ちが落ち着いたのか、雪太はゆっくりと立ち上がった。そして、再び走ってくる牛の背中に飛び乗ろうと試みる。しかし、まだタイミング合わず、跨ることができない。
それを見かねたアメノーシが、
「もういい。君は、休憩室で横になっているといい」
「いや、まだ……」
雪太はそう言って、諦めようとしない。
また牛に飛び乗ろうとする。そうすると、また振り落とされる。そして、また立ち上がる。しばらくの間、それが繰り返された。
春也はもう見ていられなくなったのか、雪太を止めに入った。
「もうやめろよ、今の君には無理だって!」
春也が雪太の腕を掴む。
「離せよ! 俺は、俺は……」
雪太の足は、生まれたての小鹿のようにガクガクと震えている。それでもどうにかして、雪太は牛の背中に跨ろうとする。何度も何度も……。すると……。
「怖いのか?」
不意に、後ろから声がかかった。振り向くと、そこにツキヨミが立っている。
「動物を殺すのが、怖いのか?」
「いや、それは……」
「君は、我々に力を貸すと言ってくれた。私も、今でもそれを信じている。だが、牛一匹殺せないようでは、とても戦いでは生き残れない」
雪太自身も、それは理解している。しかし、どうしてもあの光景を思い出してしまうのだ。雪太は、腰に刺さっている小太刀を力一杯握りしめた。でも手に力が入らず、次第に解けていく。
「まあいい、そのうちに慣れるだろう。今日は、部屋に戻ってゆっくり休むといい」
ツキヨミのその言葉を聞いても、雪太の心の中ではまだ葛藤が続いていた。そして……。
「もう一度、挑戦させてください」
雪太の目は真剣だった。ツキヨミも、止めても無駄だと判断したのか、許可を出した。今度こそ、成功させなければ。雪太は、正確に牛の背中に狙いを定める。小太刀を握り、牛が近くまで走ってくるのを待つ。その時だ。一頭が雪太の方に向かってくる。
雪太は駆け出し、足をバネのように曲げて勢いよく飛び上がった。そして、やっと牛の背中に着地。そのまま跨り、小太刀を抜こうと力を込める。
しかし、まだ迷いは残っていた。腕に力が入らず、抜けないのだ。
血を見ると、またあの時の記憶が呼び起こされそうだ。人の過去は、どうしても変えられない。やはり自分には無理なのかと、諦めかけた時だった。
視線の先に、人の姿が見えた。手には、雪太と同じ小太刀を握りしめている。牛は速度を緩めることなく、そのまま走り続ける。
やがてその人物が近くなり、顔もはっきりと見えるようになる。光河だ。光河は無言のまま、雪太を乗せた牛が走ってくるのを、動かずに待っている。このままでは、激突してしまうと思ったその時。光河が突然、飛び上がったのだ。
そして、空中で一回転した後、牛の頭の上に着地した。持っていた小太刀を抜きながら、雪太の前に座る。何をするつもりかと雪太が言いかけた瞬間、光河は小太刀を振り上げ、牛の首に突き刺したのだ。喉を貫通し、鮮血が飛び散る。
雪太が呆気にとられていると、光河が小声で囁いた。
「迷った方が……死ぬんだ」
牛の走る速度は徐々に落ちていき……、やがて倒れた。それと同時に、光河はヒラリと降りたが、雪太は状況についていけず、牛と一緒に転倒してしまった。
雪太が起き上がろうとすると、拍手が聞こえる。アメノーシが、
「いやあ、君はやる気を出せば、かなりの素質を持っているようだ」
と、光河を褒め称える。スノーも、雪太には目もくれず、光河のことを憧れの眼差しで見つめている。雪太は、しばらく起き上がれなかった。その時、誰かが手を差し伸べる。……ツキヨミだ。
雪太はその手を握ると、なんとか起き上がった。
「欠点のない人間など、この世のどこにも存在しない。幸い、まだ時間はある。君も、少しずつ克服していけばいい」
ツキヨミの優しさが嬉しいと同時に、雪太は自分が情けなくなった。悔しさのあまり、拳を強く握りしめる。
すると、ツキヨミが雪太に背を向け、その場から去ろうと歩き出した。その時、スノーに注意した。
「お前のお遊びに、この子達を付き合わせてはいけない」
スノーはツキヨミに叱られ、しかめっ面したが、頷いた。そして、ツキヨミはスノーの手を引き、戻っていこうとした。その時、雪太がツキヨミを呼び止める。
「……待てよ」
ツキヨミが振り向くと、雪太は彼女に真っ直ぐな視線を向ける。ツキヨミも特に驚いた様子は見せず、雪太を見つめ返していた。雪太は、更に口を開く。
「知っていたのか? 俺の、過去のこと」
しかし、ツキヨミは黙っている。
「……答えろよ」
「あぁ、知っていた。と言うより、調べさせてもらった。君達を部隊分けする際、人間界での記憶も見せてもらった。そうしたら君が一番、過酷な人生を送っていたようでな。実を言うと、君は他の誰よりも、すべての値において頭一つ抜けていた。ただ、そこに欠点というか、まずい部分があってな。血を見ることのできない人間を、我々は第一線に配属するわけにはいかないと判断したまでだ」
なるほど、それですべて合点がいく。雪太は理解すると、またその場に座り込んだ。
「そういうことかよ……」
雪太は小学生の時、強盗に両親を惨殺され、その後は親戚に引き取られた。それ以来、人や動物の血を見ることを極端に恐れ、授業中に鼻血が出た時も、教室内で絶叫するほどだった。
(なんだよ……なんなんだよ、この無理ゲーは。ほとんど詰んでるじゃねーか。こんなので俺、この世界で生きていけんのか……? このままじゃ、到底一番になんてなれねーよ)
雪太は、がっくりと肩を落とす。それでも、少しだけ安心している自分がいた。第一線になれる資質がなかったわけではない。他の誰よりも、その値が高かったという事実が、何よりも嬉しかったのだ。
主人公は最初から最強だった、というオチでした。