『母の面影』
ハードなスケジュールで組まれたトーナメント戦も、二回戦が終盤に差し掛かっていた。
四日目の午後は、まず一回戦を逆転で勝ち上がった生駒恵美と、シードで第五線に所属する高取国才が戦場入りした。
男女の体格差があるとはいえ、持ち前の冴え渡った頭脳を駆使して戦略的に攻める恵美と、野球部で鍛えた瞬発力をもって相手の隙を狙う高取の攻防は、観衆達も思わず手に汗握るような白熱した試合になった。
だが、途中で恵美の足の軌道が狂って転倒した拍子に、高取が敵の武器を薙ぎ払ったので、この試合は高取が勝った。実力でシードから勝ち上がったのは初めてである。
二回戦最後の試合は、一回戦を圧勝した一条と、最後のシードとして第三線の王寺ひかりが互いにリンクインした。しかし、この試合は過去最速で勝敗が決した。
試合開始の合図が鳴るなり、一条が相手に対して、
「ボクは女の子を傷つけるのは趣味じゃないんだ。本気になれなくて、ごめんね」
と言い、わざとらしい笑みを作って白い歯を見せると、王寺は頬を真っ赤に染め、「私、辞退しま〜す」と、そのまま後ろ向きに卒倒したのだった。
言わずもがな、他の生徒達からは失笑の声が漏れた。
予定よりも早くその日のすべての試合が終了したため、流れ解散となり、雪太のところへは再び明日香が来た。
「雪ちゃん、一緒に戻ろう」
清純な笑顔を向けられ、雪太は無意識に周りに目を泳がせる。以前は部隊同士の確執という事情に憚って話しかけづらそうな空気感を呈していたが、近頃はそれまでのような気詰まりはなくなっていた。
原因は何だろうか? 第六線が初めて神力を手に入れたからか、トーナメント戦において、下位部隊が思いのほか善戦しているからか。……理由は他にも考えられる。
第一線から第三線を上位部隊、第四線から第六線を下位部隊という言葉で置き換えると、これまでの試合において、上位部隊と下位部隊はほぼ互角の攻防を繰り広げてきた。
皆、当初は上位部隊だけが勝ち上がり、下位部隊は序盤で消えていくものだと思い込んでいたのだろう。下位の部隊は参加する価値すらないと。実際、春也以外の第六線の生徒が参加を表明した時、嘲笑の嵐を雪太は肌で感じた。「勝てるわけがない」という声も聞かれた。
しかし、蓋を開けてみれば、三回戦――つまり準々決勝に進んだ生徒の半数が下位部隊なのだ。その結果を、上位部隊の生徒は重く受け止めているに違いない。このままでは自分も下の部隊に負けるかもしれない――その焦燥が、周りを見えなくしているのかもしれない。
たとえ明日香が雪太と一緒にいるところを見られようが、それを指さして揶揄する余裕など誰ひとり持っていないのだろう。
「雪太」
明日香の後ろから、もう一人、雪太を呼ぶ声があった。
ツキヨミが脹脛に纏っている防具を重々しく響かせつつ、歩いてくる。雪太と明日香の前に立ち止まると、彼女は一泊おいてから話し出した。
「これから、ちょっと一緒に来てくれないか」
「え?」
明日香は雪太とツキヨミを交互に見ながら、戸惑った様子を見せる。ツキヨミが何も言わずに歩き始めると、雪太も明日香を促し、彼女に従った。どこへ行くのだろう、というよりも、何かあるのだろう、という予感が先に顔を出した。
連れてこられたのは、やはりウルフット一族の住まう屋敷であった。ただ、そこにいたのはスノーではなく、一番上の姉、アマテルだった。
アマテルは屋敷の縁側に端座し、まるで二人が来るのを待っていたかのように、優雅な姿勢を保ってこちらを見つめていた。
雪太と明日香の姿を認めると、彼女は相好を崩し、こう言った。
「よく来てくれましたね。わたくし、お礼が言いたくて」
「お礼、ですか?」
当惑した様子の明日香が淀みながら尋ねると、アマテルは続けた。
「先ほど、あなた方が来られたのを侍女が見ておりましたもので。裏庭におりましたもので、気づかなくてごめんなさい。ですが、あなた方がスノーのために、あの子のことを思って来てくださったのだと、その話を聞いてすぐにわかりました。スノーは今、自室にて座禅を組み、己の鍛錬に励んでおります。いつかまた、あなた方に顔向けできる日が来るようにと、一人で訓練しているんですよ」
話しながら、アマテルは視線を動かして、雪太に焦点を合わせた。
「時に、雪太さん。あの子は、本当はあなたに期待しているんですよ。素直な言葉を口にするのはまだ気恥ずかしさが伴うみたいですが、あなたに対するあの子の対応を見ていればわかります」
雪太は急に自責の念が押し寄せてくるのを感じ、目を伏せた。
「すみません。俺、初戦で負けちゃって……」
「そのことも、ツキヨミから窺っております」
アマテルは一瞬だけ、二人のやや後ろに控えるようにして立っているツキヨミに目配せし、そして続けた。
「ですが、それはあなたが弱かったからではなく、優しさがあったからだと思います。仲間を傷つけたくない、その一心が心の揺らぎを生んだのでしょう」
「いや、でも、自分の弱さを超えられなかったっていうか、やっぱり血を見るのが怖くて……」
相手が自分に気を遣って擁護しようとしているのだと思い、雪太は一生懸命に弁明しようとした。しかし、アマテルはゆっくりと首を振る。
「いいえ。そう思うことによって、無理に自分を納得させようとしているのです。わたくしにはわかります。だってあなたは、部屋に閉じこもっていたわたくしを、再び外界へと引っ張り出してくれた人。皆、わたくしを太陽のようだと慕ってくれていますが、誰一人として強引に外の世界に連れ出そうとはしなかった。あなたが初めてなのです。ありがとう」
アマテルは緩やかに笑った。その笑顔が、ふと自分の母親と重なった。幼い頃、一緒に手をつないで夕焼け雲を見上げた日のこと。自分の母も同じように笑っていた。そんな幸せが一瞬で奪われる日が来るなど、夢にも思わず、ただそれを眺めていた時のこと。自分は、今よりもきれいな心で、母の温もりを感じていたのだろう。
はぐれないようにしっかりと手を握って、母が「きれいだね」と言ったものを、雪太も否定せず、これはきれいなのだと自分に言い聞かせて眺めていた。この人が言うのだから、間違いはない、と。母の「美の感覚」は絶対的なものだと思い込んでいたのだ。
雪太は胸が縮まったように、切なくなった。
――会いたい。その感情が脳裏に現れた時、すでに視界がぼやけていた。スノーの気持ちを一番理解できるのは、召喚者の中で自分だけではないかという気がした。




