(十四)古語の助動詞「つ」と「ぬ」 下ノ三(使い分け・人間編)
▼人々の営為を描く その一 個人の行為
「自然」関係のネタが一通り終わりましたので、今度は「人間」の営みをどうとらえるか、という内容に入ります。「自然」に比べるとそんなに長くならないと思いますので、ご安心ください。
さて、突然ですが、使い分け導入部の最初のほうでご紹介した『日本国語大辞典』の解説から、一部を再掲載させていただきます。ご面倒なら飛ばしてくださって構いません。
――(略)「ぬ」は自動詞に、「つ」は他動詞に付くという傾向のあることが近世以来認められている。【注39】
ということだそうですが、自動詞とか他動詞とか、いちいち考えるなんて、ものすごく面倒くさそうですよね。
……ですが、実際問題として、そんなこと、考える必要はないんです。
ここでは人間の動作を描くため、試しに「手を振る」ことをやってみますね。動詞の「振る」はおそらく他動詞でしょうが、仮に自動詞だったとしても、そんなのどうでも構いません。
では、「手を振る」にそれぞれ「つ」「ぬ」を組み合わせた例文をどうぞ。念のため、どちらも過去の完了です。
・「手を振る」+「つ」
――遠ざかりゆく騎影に向かいて、我は力いっぱい手を振りつ。
・「手を振る」+「ぬ」
――高き壇上に人影を見いだすや、我は力いっぱい手を振りぬ。広場に集える人々の声はひとつとなりて、木霊せり。「総統閣下、万歳!」
説明に入りますね。
しつこいですが、一つ目の文章をもう一度貼り付けさせていただきます。
――遠ざかりゆく騎影に向かいて、我は力いっぱい手を振りつ。
この文章は「つ」を使っています。すなわち、この文章の示す状況に対して、語り手である「我」は他の可能性や選択肢があったのではないか、と思っているわけです。
ここで気をつけなければならないのは、状況というのは単に「力いっぱい手を振」ったことだけではない、ということですね。前半の「遠ざかりゆく騎影に向かいて」の部分も含むとお考えください。
なぜか、と申しますと……主語の位置を入れ替えてみます。
――我は、遠ざかりゆく騎影に向かいて、力いっぱい手を振りつ。
流れが悪くなってしまいましたが、こうすれば、前半も含めて文章全体で考えなければならない、という理由がご理解いただけるかと存じます。
二つ目の例文と違って、こちらは複文ではなく、単文なんです。「つ」「ぬ」を使うべきかどうか、さらにはどちらを使うべきかを考えるにあたって必要な、最小の単位が単文です。単語や文節ではありません。【注40】
さて、この例文で描かれているのは、別れの場面です。去りゆく人と、見送る人がいるというわけですね。
語り手が「手を振」ったという動作は、別れの場面を構成する一要素に過ぎません。
そして、「つ」が用いられていることにより、「我」がこの別れに対してどう感じているのかが、ある程度ではありますが、示されます。
「つ」は書き手/語り手が、完了かつ別の選択肢や別の可能性があると「思う」場合に使用する助動詞です。
よって、場合によっては別れなくても良かった可能性があったのではないか、と「我」は考えているわけです。
この文章だけだと短すぎて、それ以上のことは読みとれませんが、前後を加筆することにより、「我」が別れを惜しんでいるのか、別れたくないと思っているのか、あるいは仕方ないと思いつつも前向きに進もうとしているのか、といった細かいニュアンスも表現することも可能です。
では、二つ目の文章に入りますね。
――高き壇上に人影を見いだすや、我は力いっぱい手を振りぬ。広場に集える人々の声はひとつとなりて、木霊せり。「総統閣下、万歳!」
こちらは全体が長くなってしまいましたが、状況はシンプルです。
だって、総統閣下のお出ましですよ。そりゃあ、手を振るに決まっているでしょう。「力いっぱい」熱狂的に振らないと、まずいことになるんじゃないでしょうか(笑)
心から熱意をこめて手を振っているのか、あるいは周囲の目を気にしてそうしているのかどうかは、これだけの文脈ではさすがに分かりません。
しかし、語り手である「我」が「手を振」ることを当然だと「思っている」という一点においては、確実だと言えます。そういうものだと状況を受け入れているところが、一つ目の例文との最大の違いですね。
あと、本項で最初に取り上げた自動詞とか他動詞とか面倒くさい説についてですが……そういう「傾向」があるのも事実です。例えば、他動詞+「つ」と他動詞+「ぬ」では、後者のほうが相性が悪いといいますか、やや書きづらいんですよね。だから、相性の悪さを埋めるために、後者の例文が長くなってしまった次第です。
ただし、絶対に不可能ではありません。語り手/書き手が本当に「そう思うのであれば」、どう使っても構わないのです。「つ」「ぬ」の使い分けに、絶対的な決まりはないんです。
▼人々の営為を描く その二 個人と時代
「時代」とは何か、と問われますと、「自然」とは何か、と同じく非常に面倒な話になってしまうのですが……。
ここでは簡単に、個人の行為の集積を、ある一定の地域及びある一定の期間で区切ったもの、と考えることにしますね。
では例文に行きます。今回は自作ではなく引用です。
――『風と共に去りぬ』【注41】
言わずと知れた超有名作品ですので、粗筋は省略させていただきます。
それから「自然編」で取り上げた風とは全く別物ですので、ご注意ください! 実際の現象ではなく、比喩の風です。
さて、「風と共に去りぬ」という文の特色として、主語がありません。これは英語の原題【注42】でも同じです。
主語を省略することによって、いったい何が去っていったのかを考えるのは、読者それぞれの想像力に委ねられています。
ここでは無難に、アメリカ南北戦争以前の南部が輝いていた時代、あるいは、主人公スカーレットの幸せだった子供の頃の日々と彼女が愛おしんできたもの全て、ということにしますね。しかし、何もかもが、時代の激流によって失われ、去ってしまいました。
スカーレットは生まれも美貌にも知性にも恵まれ、断固たる意志を持った強い女性でした。ですが、彼女がどんなにあがいても、時代の波には打ち勝てなかったのです。
時代は、ひとりひとりの個人の行為の延長上に生み出されます。ですから、スカーレットもまた、時代の形成に寄与しているとも言えましょう。それなのに、時代の波には抗えないという、何とも皮肉な構造ですよね。……まぁ、これは私が適当に「時代」を定義してしまったせいもあるわけですが(笑)
人為ではどうしようもないもの、それは「さだめ」と言っていいでしょう。「風と共に去りぬ」はその点を、必然であり宿命の「ぬ」で表現しているのです。
しかし、原文にはこのニュアンスはありません。現代語に訳するならば、
――風と共に去ってしまった
になるでしょうか。
――風と共に去りぬ
と比べると、現代語訳は何だか拍子抜けですよね(苦笑)
「風と共に去りぬ」の「ぬ」でしか表現できない古語独特の感性をぜひ味わってください。スカーレットというヒロイン像とは少し違ったおもむきの邦題ですが、文学性の高さという点では、原題をこえていると思います。
ちなみに、文語調だと
――風と共に去れり
が一番原題のニュアンスに近いです。でも、やはりここは
――風と共に去りぬ
でしょう。だって、どう考えても、こっちのほうがドラマチックでカッコいいじゃないですか!
▼語り手/書き手の心の機微を描く
自然編も含めて延々と、「つ」と「ぬ」は文脈や文意によってきちんと使い分けましょう、という話をしてきましたが、では、同じ文脈ならばどうなるか?ということもやっておきたいと思います。
例文を二つセットでどうぞ。違いは一文字だけですので、ご注意ください。
――「父上は黄泉の国へ立たれたまいぬ」と王子は云えり。
――「父上は黄泉の国へ立たれたまいつ」と王子は云えり。
亡くなったのは王様なので、息子ですけれど王子の台詞は二重敬語にしておきました。
さて、この二つの例文ですが、どちらも間違いではありません。「ぬ」も「つ」も問題なく使えます。
人間である以上、死は逃れられない運命ではないかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、この文章で重要なのは、台詞の語り手が王子である、という点なのです。王子がどう思っているか、が問題なのです。
まず、
――「父上は黄泉の国へ立たれたまいぬ」と王子は云えり。
ですが、こちらでは王子は王の死を受け入れています。死因については不明ですけれど、戦死だろうが自死だろうが、「ぬ」が使われているために王子は死を受容していることになるのです。
ただし、嘆いていないというわけではありません。というか、この文章ではそこまで書かれていないので、不明ですね。
一方で、
――「父上は黄泉の国へ立たれたまいつ」と王子は云えり。
では、王子は王の死に納得していません。仮に老衰の上の大往生であったとしても、「つ」がこのように使われるのであれば、それでも受け入れられない何かがある、と解釈されます。
比較用に、別の人物にも語らせてみますね。
――「国王陛下は黄泉の国へ立たれたまえり」と宰相は告げたり。
この宰相の台詞は、中立的な視点による語りです。単に王の崩御を述べているだけであって、宰相の内面は反映されていません。
しかしながら、王子の二種類の台詞も宰相の台詞も、現代語に置き換えてしまうと全部同じになってしまうんですよね。
「人間編」はこれで終わりです。
「自然編」に比べるとかなりあっさりしておりますが、既に尋常でない長さになっているのでこの辺で切り上げておきます。さすがにもう十分ですよね。書いた私ですら、当分、「つ」も「ぬ」も見たくありません……(笑)
▼まとめ
何度貼りつけたか数えるのも面倒になっているルールですが、最後にもう一度掲載させていただきます。
今回はオマケも付けておきますね。
*「ぬ」の使い方……完了であり、かつそれが必然であると思うならば、「ぬ」を使いましょう。
*「つ」の使い方……完了であり、かつ別の可能性や他の選択肢があると思うならば、「つ」を使いましょう。
*【重要】「ぬ」の終止形「ぬ」以外は、使わないようにしましょう。
ここまで大量に例文を出してきましたけれど、普通はこんなに「ぬ」や「つ」を連発することなんてありませんから!
本物の古文においても、「ぬ」は、「き」「たり」「り」(と多分「けり」)よりも使われる頻度が低いんです。「つ」は「ぬ」よりもさらに出現率が低くなります。
現代語で思考する現代人の感性なら、使わなくても全く問題ありません。
ですが、「つ」と「ぬ」の完了ペアには、現代語にはない独特の面白さや機能があります。もしも気が向かれるようでしたら――どちらかというと気を削ぐ解説だったと思うのですが(苦笑)――お試しください。
ただし、「ぬ」の終止形「ぬ」に限ることをおススメします。それ以外だと、ほとんどの読者の方に通じないと思います。
次回は「けり」です。
【注39】
【注26】と同じなので省略。
【注40】
単語や文節ではなく、少なくとも単文を見なければならないという件で、例文に使おうと思っていたのですが、文体が特殊で「つ」「ぬ」以外の解説が長くなりすぎるので、使わなかった和歌をこちらでご紹介しますね。
やたらと長いので、お暇な方だけどうぞ。
まずは原文をそのまま引用します。
(引用開始)
ちちははか-かしらかきなて-さくあれて-いひしけとはせ-わすれかねつる
(引用終わり)
上代に九州で防衛任務に就いていた防人の歌の一首です。教科書や副読本に掲載されるレベルの有名な歌なので、ご存じの方も多いかと存じます。
出典は【注30】と同じ、「国際日本文化研究センター(日文研)」の「和歌データベース」です。直接のURLは
http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/waka_i061.html#i061-020-054
です。まだデータが完全ではないようで、この形式しか見つかりませんでした。
漢字と濁音の処理をして再掲載します。
――父母が頭かき撫で幸くあれて言ひし言葉ぜ忘れかねつる
しかしながら、この歌は上代の東言葉で詠まれているので、これでも読みづらい方もいらっしゃるかと存じます。
この上ない冒涜ですが、該当個所を都言葉で置き換えさせていただきますね。ついでに、過去・完了グループの助動詞に傍点を振っておきます。
――父母が頭かき撫で幸くあれと言ひし言葉ぞ忘れかねつる
閲覧環境によってはルビが判別しづらい方もいらっしゃると思いますので、念のために書き添えておきますが、「言葉」の読みが「けとば」→「ことば」に変わっています。
さらに、最後のフレーズにある係り結びも解除しておきます。
――言葉 忘れかねつ
前置きが長くなりましたが、ここからようやく本題です。
この歌の末尾は「つ」になっています。「つ」によってどういうニュアンスが付加されたのか知るために、歌の内容を確認してみます。繰り返しますが、とってもテキトーなので古文の試験では書かないでくださいね(笑)
この歌を詠んだ人は、東言葉が使われていることから、日本の東国出身と考えられます。故郷を遠く離れ、九州で防人の任務に就いているわけですね。
上代なので、現代とは生活水準もインフラも全く違うということを頭に入れておいてください。平均寿命はめっちゃ短いですよ。新幹線も高速道路もありませんし、郵便制度もありません。もちろん、ネットもスマホもありません。
防人は三年交代だったらしいので、三年間、家族とは音信不通の状態になってしまうのです。場合によっては生き別れになるかもしれないわけです。
そういう前提を踏まえて、もう一度この歌をお読みください。そろそろ大丈夫だと思いますので、東言葉に戻します。
――父母が頭かき撫で幸くあれて言ひし言葉ぜ忘れかねつる
遠い故郷にいる両親を思う歌です。
この歌の作者が防人の任に就くために出発する時、父母は「彼」の頭を撫でて「幸くあれ」(←ここは現代語訳したくないのでそのままにしておきます)と言って送り出してくれました。その言葉を、「彼」は忘れることができないのです。
「幸くあれ」以外をできるかぎり直訳っぽく現代語訳すると
……父母が自分の頭をかき撫でて「幸くあれ」と言ってくれた言葉が忘れられません。
くらいになりますね。(防人の歌ファンの方、本当にごめんなさい(土下座))
ここで問題となるのは「つ」です。
残念ながら現代語訳だと完全にニュアンスが消えてしまうのですが、最低限、押さえておきたいのは、この「つ」が過去の完了ではない、という点です。
現在も忘れていないのです。未来もきっと忘れることはないでしょう、少なくとも無事に家に帰りつくまでは。
……性質の悪いことに、この「つ」は、(十)の共通事項で扱った「終わらない完了」の亜種なんですよ。考えようによっては、強意/強調も少し混じっているかもしれません。
もう一つ、テキトー現代語訳を見ていただくと分かりやすいかと存じますが、この歌は単文です。すなわち、「つ」の効力が及ぶ範囲はその言葉が忘れられない、だけではありません。(出立する時に)両親が自分の頭を撫でてくれたこと、言祝いでくれたこと、その言葉が忘れられないこと、それら全てに、「つ」が掛かっているのです。
「彼」はこれら全ての出来事をひっくるめて、本当にありがたくて希有なことだと考えたのでしょう。だから「つ」が使われているのです。
これ、最後が「ぬ」で「言葉ぜ忘れかねぬる」だと、何だか意味不明になってしまうんですよね。
別に作者は、親の愛の普遍性を知らしめたかったわけではありません。ただ自分にとって、かけがえのない出来事を詠んだだけです。詠み手の「彼」にとっては、唯一無二の大切な体験だったのです。そのことを「つ」から感じ取ってください。
【注41】
【注23】と同じなので省略。
【注42】
――Gone with the Wind