(十三)古語の助動詞「つ」と「ぬ」 下ノ二(使い分け・自然編)
▼「自然」とは何か
突然ですが、皆様は「自然」というと、何のことだと思われますか?
実はこれ、かなり面倒な問題だったりします。私も「つ」「ぬ」の語義について複数の辞書で確認している時にはじめて気づいたのですが、文脈や書き手によって「自然」の意味合いはかなり異なります。
「自然」とは何か? というと、人によってとらえかたは色々と違うのです。
ですから、まずは前提として、このエッセイにおける「自然」の取り扱いについて書かせていただきますね。
一、哲学的・衒学的な「自然」ではありません。
二、図書館の十進法分類における「四類 自然科学」の自然でもありません。
三、「人間」以外のものを「自然」と考えます。
四、「人間の営為」以外のものを「自然現象」と考えます。
だいたいこんな感じでしょうか。
あ、一番重要なことを忘れるところでした。
五、厳密な定義はありません!
後は、文脈で判断していただければと思います。どこまでもいい加減な感じで、大変申し訳ありません(土下座)
▼自然界における必然 お約束の「ぬ」
何度も申し上げておりますように、「つ」と「ぬ」の使い分けは厳密には決まっていません。
でも、普通なら大多数の人が「ぬ」を使う、という条件が存在します。
その条件とは、「自然界において必然的に発生する現象」です。
ところが困ったことに、この手の現象って、めちゃくちゃ多かったりするんですよ。
「つ」よりも「ぬ」の出現頻度が高いという点は、複数の辞書で指摘されていますが、一覧をご覧いただければ皆様も納得されるかと存じます。
ということで、古文に親しむ人ならば誰もが使うお約束の「ぬ」の例文をどうぞ!
……しつこいですが、本当に多いですよ~。これでも思いっ切り削ったんですけれど。覚悟してくださいね(笑)
〔一〕周期性を持つもの
(一のa)一日のサイクル
地球の自転によって発生する一日のサイクルは、誰がどう見ても「必然」です。人間ごときに動かせるものではありません。よって、この類の事象は「たり」「り」でもいいんですけれど、「ぬ」を使うことが多いです。
・太陽の巡り
――日、のぼりぬ
――日、中天に至りぬ
――日、傾きぬ
――日、暮れぬ
――日、沈みぬ
・昼と夜の繰り返し
――夜、明けぬ
――朝を迎えぬ
――昼となりぬ
――夕べとなりぬ
――たそがれとなりぬ
――夜を迎えぬ
――夜、更けぬ
――東の空、白みぬ
・月の動き
厳密には分類を分けるべきなのでしょうが、太陽の動きとの結びつきが強いので、ここに配列しておきます。基本、夜にしか見えませんしね。
――月、のぼりぬ
――月、傾きぬ
――月、沈みぬ
・その他の天体
星です。夜と関わりがあるので、月の動きと同じく、こちらに分類します。
――(夜となりて)星、輝きぬ
――(夜更けとなりて)星の輝き、消えゆきぬ
(一のb)月(太陰暦)のサイクルとその派生
・月の満ち欠け(順不同)
――月、満ちぬ
――月、欠けぬ
――新月となりぬ
――三日月となりぬ
――弓張月となりぬ
――十五夜となりぬ
――望月となりぬ
――十六夜月となりぬ
――立待月となりぬ
――有明月となりぬ
ここでいったん、中断しますね。
皆様に見ていただきたいのは、どういう場合に「ぬ」を使うかという「条件」であります。ですから、文体や語彙は徹頭徹尾、無視してください。重要なのは内容だけです。
例えば、月の満ち欠けのところでは、やたらと「なり」+「ぬ」の組み合わせが多くなっておりますが、「なり」+「つ」の組み合わせがダメなのかというと、そういう訳ではありません。
文法の解説では「つ」「ぬ」の直前の単語を解析する傾向にありますが、実際に見なければならないのは、文章全体の内容であり、前後の内容も含めた文脈なのです。
では続きに戻ります。ここからも長いですよー(笑)
・潮の満ち干きとその影響によって発生する波の動き
――潮、満ちぬ
――潮、干きぬ
――波、打ち寄せぬ
(一のc)一年のサイクル
・季節の巡り
一応ルビも振っておりますが、「来ぬ」は「きぬ」と読みます。「こぬ」ではありませんのでご注意ください。
――春、来ぬ/春、来たりぬ
――春、去りぬ
――夏、来ぬ/夏、来たりぬ
――夏、去りぬ
――秋、来ぬ/秋、来たりぬ
――秋、去りぬ
――冬、来ぬ/冬、来たりぬ
――冬、去りぬ
・暦の巡り
――新年を迎えぬ
――睦月となりぬ
――睦月も過ぎぬ
――如月となりぬ
――如月も過ぎぬ
(中略!)
――師走となりぬ
――師走も過ぎぬ
――今年も終わりぬ
〔二〕一方向へ進み続けるもの
・時の流れ
――時は流れぬ
――時は過ぎぬ
――時計は正午を告げぬ
――正午の鐘が鳴りぬ
・川の流れ
――雨集まりて、川となりぬ
――川は流れぬ
――川は流れて海に至りぬ
ちょっと解説というか言い訳が必要な項目なので、また中断しますね。
タイムリープとか、河口では満潮時に川が逆流することがあるとか、そういう例外は一切取り上げません。
大多数の人なら「ぬ」を使うだろうという、古文におけるお約束を、最小限の例でご覧いただければと思っております。
では、一覧を再開します。もうそろそろ終わりですよ。……嘘じゃありません(笑)
〔三〕始まったことにより終わることが確定する事象
・花の終わり
ここでいう花は、桜のことではありません。一般的な花です。
花が咲くかどうかは気象条件等によって確実ではありませんけれど、一度咲いてしまえば、散るなどして開花期が終わるのは確実だと思われますので、「ぬ」を使うと自然な古文調になります。なお、プリザーブドフラワーとか、そういうのはちょっと「不自然」ですので、例外としてスルーしますね。
――花、終わりぬ
――花、散りぬ
――花、しおれぬ
――花、落ちぬ
・火、たき火、灯火等の自然消火
燃料がない限り、火を永遠に燃やし続けることはできません。いつかは消えるものです。
ただし、ここで取り上げているのは勝手に消える場合であって、水をかけたりして人為的に消す場合は除外しておりますので、ご注意ください。
――火は消えぬ
――蝋燭の火は尽きぬ
――煙もやがてたち消えぬ
ちなみに人為的な消火だとどうなるのか、ちょっと話が逸れてしまいますが、比較用に載せておきます。
――蝋燭の火をふっと吹き消したり
――蝋燭の火をふっと吹き消しつ
自然界における必然、といえば、だいたいこんな感じでしょうか。特に〔一〕の周期性グループは、本当に「ぬ」を使うのがお約束になっています。
ずらずら大量の例文を並べてしまって申し訳ないのですけれど、ざっと目を通していただくことで、「お約束の『ぬ』」のイメージを大まかに掴んでいただければと思います。
▼自然界における偶然と必然
次に、自然現象であっても、偶然なのか必然なのか、解釈が分かれるものについて取り上げます。
先ほどのお約束シリーズとは違って、こちらは感性の問題になってきます。
比較用としてちょうどいい和歌が二首ありますので、ご紹介します。まずは原文をそのまま引用します。【注30】
――ほとときす鳴きつるかたをなかむれはたたあり明の月そのこれる
――あききぬとめにはさやかに見えねとも風のおとにそおとろかれぬる
引用元そのままだとこうなのですが、ほとんどの方には読みづらいと思いますので、勝手ながら漢字変換と濁音の処理をさせていただきますね。
――ほととぎす鳴きつるかたを眺めむればただ有明の月ぞ残れる
――秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
この二首の共通点は、その季節ならではの「音」を題材にしている、という点です。一方で「つ」と「ぬ」が明確に選択されており、相互交換はもちろん、別の過去・完了グループの助動詞に差し替えることもできません。
一体なぜなのか、「つ」「ぬ」が選択されている理由を中心に見ていきたいと思います。
〔一〕自然の中に偶然性を見出す
ではまず一首目から行きます。過去・完了の助動詞に傍点を振って再掲載しますね。
――ほととぎす鳴きつるかたを眺めむればただ有明の月ぞ残れる
語彙的に紛らわしいのは、「有明の月」でしょうか。
これは九州の有明海で見る月という意味ではありません。明け方の月という意味です。
それからさらに読みやすくするため、下の句の係助詞「ぞ」を外して、係り結びを解除しておきます。
――ただ有明の月 残れり
では、この歌の状況を解説します。国語の先生じゃないので、とっても大雑把なのはご容赦ください(笑)
昔の人々は、現代よりもずっと、季節の風物に敏感であり、ひとつひとつの出来事を本当に大切に味わっていました。
同時に、文化人たるもの「本物」を味わわなければ、という気合いもすさまじかったようです。現代の私たちも、春になれば花見に行きますが、当時の人々の気合いに比べたら、ずっとお気楽なものではないかと思いますね。
さて、この歌で取り上げられているほととぎすですが、夏の訪れを象徴する鳥です。ところがなかなかその声を聴くことができないんですよね。そこで、「本物」を求める昔の文化人たちは、山に入り、何日も滞在してほととぎすの声を聴こうとしていたのだそうです。
……で、待ちに待って、やっと聴けたんだぜ!
というシチュエーションを詠んだのがこの歌なんですね。「有明の月」が見える明け方までねばった結果、ようやく鳴き声は聴けたけれど、姿は見ることができなかったわけです。
まさに運良く聴けたからこそ、作者は「つ」を使ったわけです。【注31】
ところで、いくつかの古語辞書では、「つ」は意志的な動作・行為に使われると言い切ってあることがあります。これは間違い――「傾向を認める」ならともかく「断定する」するのはアウト――ですので、ご注意ください。
確かに、ほととぎすは鳴きたい気分になったから鳴いたのでしょう。しかし、この歌においては、ほととぎすの意志の存在を認めてしまうと、「ほととぎすが、わざわざタイミングを選んで、作者のために鳴いてあげた」ことになってしまうのですよ……完全に意味不明で、歌のストーリーが破綻しますね(苦笑)
重要なのは、ほととぎすの意志ではなく、「作者がどう思ったか」なのです。
よってこの歌においては、ほととぎすはあくまで、「偶然」運良く鳴いてくれた、それが正解なのです。
〔二〕自然の中に必然性を見出す
では二首目に行きます。一首目と同じく、過去・完了グループの助動詞に傍点を振って、再掲載しますね。
――秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
それから、読みやすくするために、こちらも下の句の係り結びを解除しておきます。
――風の音に おどろかれぬ
さて、この歌の語彙で注意が必要なのは、「おどろく」でしょうか。当時の「おどろく」は、現代のようにびっくりするという意味はなく、気づかされるという意味ですのでご注意ください。
では説明に入ります。
詞書によると、この歌は立秋の日に詠んだものだそうです【注32】。
「ぬ」は二回使われていますが、最初に出てくる
――秋来ぬ
の「ぬ」は、すでにご説明しましたようにお約束の「ぬ」です。ここで「ぬ」を使うのはごく当たり前のことなので、そういうものだと思って受け入れてください。
一方で、最後の「ぬ」はどうかと申しますと、全く話は違ってきます。
――風の音に おどろかれぬ
風がいつ吹くかなんて、誰にもわかりませんよね。
では、なぜ、偶然ともいえる風の音に気づいた、その出来事に「ぬ」が使われているのでしょうか?
理由を探るために、歌の意味を大雑把になぞってみます。とってもテキトーですので、この内容を古文の試験で書かないようにしてくださいね(笑)
……立秋を迎えたからといって、昨日と今日の景色が劇的に変わるようなことはありません。しかし、秋が来たからには、秋風が吹き始めるのです。そして、目では変化を感じ取れなかった者であっても、秋風の音には必ず気づくのです。
もう少しざっくばらんに書き直すと、この作者は
立秋→秋風が吹き始める→(文化人ならば当然)風の音には気づくよね!
と言い切ってしまっているわけですね。
事実、毎年、立秋の日にちょうど秋風が吹き始めるとは限りません。その程度のことなど、現代人である私たち以上に、当時の方々はよくご存じだったはずです。
しかし、それにもかかわらず、この歌は、きわめて高い評価を受けました【注33】。発表された時のみならず、年を越え、時代を超えて、今もなお多くの方々に愛されています。
風という予測不可能かつ偶然の事象であっても、説得力をもって「必然」を語れるのであれば、「ぬ」は使えます。しかもこの作者が実証したように、使い方によっては圧倒的な共感を呼ぶこともできるのです。
〔二のb〕自然の中に必然性を見出す/付与する
秋風に関して、ご参考までに、もう一つ例文を引用しますね。【注34】
――風立ちぬ、いざ生きめやも。
前半から一目瞭然かと存じますが、出典は堀辰雄の連作短編集『風立ちぬ』です【注35】。夏の終わりを迎えようとする高原で、主人公がふと口にする詩句の一節ですね。
この一節の原型はポール・ヴァレリーがフランス語で書いた詩で、堀辰雄自身が翻訳・引用したものだそうです。ですから、孫引きになってしまうのですが、この訳文が先ほど取り上げた和歌との比較にちょうどいいので、使わせていただくことにしました。
ここで描かれている「風」は、秋の訪れを示すものです。補足として、『風立ちぬ』を構成する短編を順番に書き出しておきますね。【注36】
――序曲
春
風立ちぬ
冬
死のかげの谷
順列をご覧いただければ分かりの通り、「風立ちぬ」(※短編のほう)では、過去を思い出す場面もありますけれど、主に秋の出来事が描かれています。
最初に取り上げた一節に戻りますね。
――風立ちぬ、いざ生きめやも。
「秋来ぬと……」の和歌とは違って、立秋の日の前か後か、はっきりした日付は定かではありません。ただ、確かにいえるのは、この「風」は、夏の終わりから秋の訪れへの変化を告げる風だということです。
どれほど人間が乞い願おうとも、〈時〉をとどめることはできません。
時間は流れます。季節は移り変わっていきます。これは必然なのです。
この上ない冒涜ですが、原文をちょっと改悪しますね。堀辰雄ファンの皆様、ごめんなさい!(超土下座)
――風立てり、(以下略)
一般的には、風が吹いた時はこうなるんですよ。「き」でもかまいませんけれど、風の持つ性質上、やや動的な印象を与える「たり」「り」が好ましいです。
しかし、語り手である主人公にとって、この「風」は偶然ではなく、必然的な時の流れを象徴するものでした。
ですから、訳文に「ぬ」が使用されたのです。逆説的にいうならば、ここに「ぬ」があるからこそ、その時「風が立」ったという事象を、主人公は逃れられない宿命の一端としてとらえている、ということが読みとれるのです。
さて、この項では、人によって解釈が分かれる自然現象を取り上げました。
ほととぎすの鳴く声、二種類の秋を告げる風。
名文中の名文をチョイスしましたので、ぜひとも、じっくり味わってください。そして、事象を「必然」か「偶然」か判別する感覚をつかむための端緒にしていただければ幸いです。
▼異国の自然、異世界の自然
今までは暗黙の了解として、日本の自然や日本人の自然感に限定して取り上げてきました。
しかし、このエッセイは、ファンタジーで中二病のカッコいい呪文とか神話を読みたいんだ!という私の切なる願いから始まったものです。あまりにも酷い古文もどきの文体が多くって……(涙)
愚痴はさておき、ファンタジーとなりますと、和風ファンタジーではない限り、日本とは異なる気候や生態系を考慮する必要があります。
〔1 異国の自然現象を考える〕
例えば、コミックのネタで恐縮ですが、某少年王が治める常春の国マリネラでは、夏は永遠に来ません。よって、
――夏は来たりぬ
なんてことは、間違っても書けないわけです。
地球上にあるので、太陽や月の巡りはそのまま使えますが、季節の巡りに関しては「ぬ」は封印あるのみです。
仮に他国で夏を迎えたとしても、日本ではなく「マリネラの季節感覚」を持つ人は「ぬ」を使うことはできません。
日本のように四季の変化がはっきりしている気候って、世界でも少ないそうですね。ですから、もしも別の気候を設定するのであれば、「つ」「ぬ」の振り分けも変える必要があります。
例えば、突然の豪雨に見舞われた時に、人はどう感じるのでしょうか?
その豪雨が日本の夕立ならば、人によって解釈が分かれる可能性があります。おそらく「つ」を選ぶ方がほとんどでしょうが、堀辰雄のように象徴性を見出すならば「ぬ」を使う方もおられると思います。その辺りは好みや文体の領域になります。どちらも間違っているわけはありません。
ですが、熱帯で毎日降るスコールの場合は、何らかの事情がないかぎり「ぬ」を使うべきでしょう。
夕立について簡単に例文で補足しておきます。
――突然の夕立に見舞われつ
これは書き手が予期していない夕立です。遭わない可能性があったのに、夕立に出くわしてしまったので、ちょっと理不尽さを感じているかもしれません。
――突然の夕立に見舞われぬ
これだと、書き手は夕立ってそういうものだよね、遭ってしまうものだよね、と思っているということになります。
あと、もうひとつ大事なことを書かせていただきますね。
単に夕立に遭ったことだけを示したい、あるいは、夕立のことなんていちいちそういう風に考えたことがない、という場合もあると思います。その場合は
――突然の夕立に見舞われたり
になります。「つ」も「ぬ」も使う必要はありません。
「つ」「ぬ」には、書き手/語り手の「主観」を反映する機能があります。ですから、「中立的な観点」で描きたいのであれば、同じ完了グループの「たり」「り」にしておくべきです。
何度も書いておりますが、現代日本人の感覚を再現するのであれば、「き」「たり」二点セットあるいは「き」「たり」「り」三点セットで十分に事足りるのです。ですから、「つ」「ぬ」を無理に使う必要はありません。
〔2 異世界の自然現象を考える〕
さらに別の例を出します。今度はSFですが、異世界の自然現象を考えるという点で、異世界ファンタジーの書き手の方にはぜひとも考えていただきたい題材です。
アイザック・アジモフの短編「夜来たる」は、ご存じでしょうか。
この作品の舞台は、六つの太陽が空を巡っているため、三千年に一度しか夜が来ない惑星です。登場人物たちは、昼しか知りません。夜空を見上げたことなど、一度もないのです。それどころか、彼らの言語には「夜空」という単語すら存在しないと思われます。
ここで想像してみてください、三千年に一度の夜が訪れる瞬間を。五つの太陽がすでに地平に沈み、最後に残った太陽も沈んでしまうのです。
地球型の惑星ならば、日没はお約束の「ぬ」で
――日、入りぬ
とすれば十分です。しかし、三千年に一度の夜が訪れる瞬間を、本当に「ぬ」で扱っていいのかどうか、考えてみていただけませんか。
選択肢は他にもありますけれど【注37】、ここではあえて、「つ」「ぬ」の二択とさせていただきます。
登場人物たちの心情を尊重するならば、「つ」がおすすめです。一方で、人間がどうあがいても動かしようのない宇宙の事象として描くのであれば「ぬ」で構いません。
皆様なら、どちらを選ばれますか?
とはいえ、このレベルになりますと、書き手の好みの問題になりますので、どちらでも不正解にはなりません。ただ、書き手のセンスが問われるのみです。……実はこれが一番怖いんですけれどね(汗)
▼超自然現象
ファンタジーならほぼ必須といえるのが、魔法や魔術、呪術、マジックといった超自然現象です。
超自然現象は――「つ」「ぬ」の振り分けに関しては――前項で取り上げた「異国の自然、異世界の自然」と同じ扱いになります。
すなわち、作者様の頭の中にしかない世界観で発生する事象ですから、ご自身で考えていただくしかありません。以上。
……と、ここで終わってしまうとあまりにも不親切ですので(笑)、ちょっとだけご参考になりそうな文章をご紹介しますね。
使い回しで恐縮ですが、「り」の時にも使ったアルフレッド・テニスンの詩の孫引きです。ただし、今度は四行とも引用します。【注38】
――織物はとびちり、ひろがれり
鏡は横にひび割れぬ
「ああ、呪いがわが身に」と、
シャロット姫は叫べり。
注目していただきたいのは、二行目の「ぬ」です。
――鏡は横にひび割れぬ
鏡は勝手に割れたりなんてしませんよね。これは普通なら起こり得ない現象です。
しかし、そこに、あえて必然の「ぬ」が採用されているため、超自然現象の禍々しさが強調されることになります。ここで「つ」を使うと当たり前すぎるので、この不吉さは表現できません。
さて、「自然」関係のネタはここで終了です。
いやー、実に長かったです。でも「人間」関係が残っていますので、まだ続くのでありました(笑)
復習のため、しつこいのは重々承知の上で、またルールを貼りつけておきます。
*「ぬ」の使い方……完了であり、かつそれが必然であると思うならば、「ぬ」を使いましょう。
*「つ」の使い方……完了であり、かつ別の可能性や他の選択肢があると思うならば、「つ」を使いましょう。
「ぬ」は必然の完了。「つ」は偶然の完了。
お約束の「ぬ」で出てきた大量の例文からもお分かりのように、出現率は「ぬ」のほうが高くなりがちです。しかし、「つ」の存在があってこそ、「ぬ」の意味合いが生きるのです。
【注30】
「国際日本文化研究センター(日文研)」の「和歌データベース」から引用しました。
「国際日本文化研究センター(日文研)」http://www.nichibun.ac.jp/ja/
「和歌データベース」http://db.nichibun.ac.jp/ja/category/waka.html
引用した歌それぞれの直接URLも添えておきます。
――ほとときす鳴きつるかたをなかむれはたたあり明の月そのこれる
http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/waka_i009.html#i009-003
――あききぬとめにはさやかに見えねとも風のおとにそおとろかれぬる
http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/waka_i001.html#i001-004
【注31】
「つ」以外の選択肢としては、現段階では範囲外となってしまいますが、詠嘆の意味を含む「けり」を使うことも可能ではあります。しかし、声を聴いた瞬間と聞こえた方角を見やった瞬間というほんの一瞬の時差は、「つ」(あるいは「ぬ」)でなければ出せません。「けり」は完了特化ではないため、そこまで細かい時差を表現する機能はないのです。
「けり」によって感動をアピールするのもひとつの方法ではありますが、やはり、「つ」によって、「偶然性」+「過去の完了」という状況をあざやかに描写してのけた作者の技巧には、脱帽するのみです。こういう表現をさらっとできたらいいんですけれど、残念ながら、「た」しか持たない現代人には無理なんですよねぇ。
【注32】
――[詞書] 秋立つ日よめる
出典は【注29】と同じなので省略します。
【注33】
この歌の評価の高さは、『新古今和歌集』の秋の部の冒頭に採用されていることなどからも伺えます。
【注34】
――風立ちぬ、いざ生きめやも。
『風立ちぬ・美しい村』(堀辰雄、新潮文庫)92頁
【注35】
『風立ちぬ』はまとめて一つの作品という見方もあるかと存じますが、私個人としては連作短編集だと感じましたので、そういう扱いとさせていただきます。
【注36】
『風立ちぬ・美しい村』(堀辰雄、新潮文庫)3~4頁(※目次より)
【注37】
他の選択肢とは、「つ」「ぬ」に過去グループの助動詞「き」「けり」を組み合わせる方法です。ですが「けり」はまだ出てきていませんし、話が大幅に逸れてしまいますので、端折らせていただきました。後程、少しだけ扱う予定です。
【注38】
出典は【注19】と同じなので省略。
この訳文については、当初の訳文では一行目に誤訳があったとのことで、クリスティー文庫版で訂正がされました。しかし、擬古文としての文体だけを見るならば、無駄に凝った語彙が使用されているわけでもなく、小学生でも意味が分かりましたので(私の実体験)、良いお手本ではないかと思います。
なお、『鏡は横にひび割れて』の本文中には、さらに別の訳文も存在します。なぜ統一されていないのかは謎です。個人的にはもうひとつの訳文のほうが好みなのですが、今回使った巻頭の引用のほうが英語の原文に近いので、こちらを採用することにしました。