林檎とチョコレート
まだ六月に入ったばかりだというのに日本の気温は真夏のように高く、そんなちょっとした異常事態の下で決められた日程通りに勉学を強要する教育制度には、私怨を抱く若者が大勢いる事だろう。俺にしたって私怨とまでは行かなくても、少しばかり思うところはある。ビデオ配信型講習の赤ペン先生式考査にすればいいのだ。そうすれば、わざわざこの温室みたいな空間に毎日足を運ぶ必要もない。ついでに課題も無くしたほうがいい。
クラスメイトの背中を見渡すと、案外、全員が全員、俺と同じかそれに準ずる意見を持っているわけではないようだった。何人かは定規みたいに背筋を伸ばして板書に励んでいた。このクソ暑い中でご苦労なことだ。俺には真似できないな。
俺は再び机に突っ伏した。よく日に当てられた机の面は人肌程度かややそれより多くの熱を持っていて、これもあまり快適とは言い難い。だが、他の行動を好んで取るよりは自分にとって楽だった。
「あなたは逃走せねばなりません」
女だった。
「さあ、こちらへ」
黒曜石みたいな瞳は俺の顔面を射抜くのとコンマ数秒のラグで、地表と水平に180度回転し、それらと交代で今度は後ろ髪の不可思議な匂いが俺の鼻腔を占拠した。リンゴとチョコレートが並列して鼻の先に置かれたような匂いだった。須臾の間停止してから我に返ると、俺の右手を彼女の左手が握っていた。俺よりふたまわり小さく、汗腺の無さそうな手だった。
彼女の走り方は機械のようだったが、速すぎるということはなく、俺にも難なく付いていける速度だった。そうしてくれていたのかもしれない。
しばらく手を引かれて走っているうちに、やっと正常な疑問が湧き上がった。
「俺は何から逃げなければならないんだ」
女はリンゴとチョコの匂いを相変わらず俺に嗅がせながら言った。
「道です」
今走ってきた道を振り返ると、なるほど、珪素で被造された白い無機質な道が、俺の後を追うようにして音を立てず崩れ落ち続けていた。俺は恐くなって後ろを見ることをやめた。
「解りましたか」
「よくわかったよ」
女の精製水のような声を、その後二度と耳にすることは無かった。
またしばらく走ると、女は消えていた。