07 : 仄かな闇の意は。1
*シリーズ中の物語のネタばれがあります。
ごめんなさい。
いくつかの任務をこなし、城下から隣の街へ、またその隣へと行動範囲を広げていったカヤは、それまでイーヴェに教えられてきたことをすべて使った。ロルガルーンに教えられたことも、少しずつ増やしている。このところは自分でも力の使い方を考え、これはどうだろう、あれはどうだろうと、研究してみることもある。
空いた時間では、押しつけられるようにして、ロルガルーンの弟子ロザヴィンの相手をした。少しずつ言葉を発するようになったので、会話の不自由さはすぐに解消され、組めと任された当初は気が乗らなかったにしても、ロザヴィンと過ごすのは苦痛ではなかった。たぶんロザヴィンの発想も面白かったのだ。危惧していた力の暴走もなく、しかし人間的に凶暴化していくのを見るのは、そこはカヤもまだ少年なので、見ている分には非常に面白かったのである。ロザヴィンと一緒になって、ロルガルーンに悪戯をしたときは最高だった。
そんな日々を過ごしていたが、イーヴェのところに行くのは相変わらずだ。日に一回、用はなくとも必ず顔は見ておくことにしている。わたしが教えられることはもうない、などと言っていたが、カヤが気紛れに力を使ってみせると興味を見せ、それを研究対象にすることもあるので、カヤが訪れることにイーヴェは文句を言わなかった。
「相も変わらず、おまえの表情は硬いね」
「……どうでもいいことだろう」
「少しは世慣れしたかと思ったが……これでは愚息のほうがまだいい」
そのときはなに気なく聞き流したが、あとからあれはどういう意味だったのかと考えることがある。
その日、初めてかなり遠い地への任務を言い渡されたカヤは、いつのまにか「堅氷」と渾名されていたことを知り、その報告も兼ねて夕暮れにイーヴェの研究室に向かった。イーヴェの弟子となって、早いもので三年と半年が過ぎた日のことだ。
「そうかい、漸く……しかし、それで本当にだいじょうぶなのかい?」
研究室を間近にして、珍しくイーヴェが誰かを部屋に招いているらしき声が聞こえた。
「そんな方法しかないというのは、わたしとしては受け入れられないのだが。それではあまりにもおまえに負担がかかる」
イーヴェの声が軟らかい。いや、優しい。そう思ったのは、カヤもイーヴェのそんな声を聞いたことがあるからだ。
誰に対しても一線を引いたような態度のイーヴェは、カヤを拾ったときのように研究室に籠るくらいなので、あまり人と関わろうとしない。そのせいか酷薄な印象がある。接触するようになった他の魔導師たちも、イーヴェに対しては「冷たい」だとか「少し怖い」だとか、人間的な部分で近づきたくないようで、積極的なのはロルガルーンくらいだった。
だから、イーヴェが誰かを部屋に招くとしたら、それはロルガルーンくらいしかいない。だのに、聞こえてくるイーヴェの声は、ロルガルーンを相手にしているときのような、ちょっと面倒臭そうな態度のものではなかった。
誰だろう、と開きっぱなしの扉から部屋を覗く。
まずその背の高さが目に入った。それから次に、イーヴェと同じ鈍色の髪だ。魔導師が着用する官服には、最後に気がついた。
「おや、堅氷と渾名されるようになったわが弟子が来た」
イーヴェが、顔を覗かせたカヤに気づき、ふっと笑む。機嫌がよさそうだと気づいたのは、微笑み方がいつもと違ったからだ。
「おれが堅氷と渾名され始めたと、知っていたのか」
先にいる、おそらく同じ魔導師を気にしながら、カヤは部屋に入る。背の高い魔導師が、カヤに気づいて振り向き、椅子に座るイーヴェの前から避けた。少年心として、この魔導師くらいの背は欲しいなと思う。
「……誰だ?」
「おまえの先輩だよ、カヤ」
「先輩?」
「水萍の魔導師、マナトア・ルーク=ヒュエス・ホロクロアだ。そうだね、ヒュー、と呼んでおやり」
ふと、イーヴェが誰かの名を口にする違和感を覚えた。
魔導師は渾名で呼び合うことが多い。親しい仲、例えば師弟関係にあったり兄弟弟子であったりする場合は名で呼ぶが、それ以外では渾名で呼び合うのが魔導師だ。だからロルガルーンはたまにイーヴェを「護法」と呼ぶし、カヤのことを「堅氷」と呼び始めている。ちなみにロザヴィンのことは、カヤは「雷雲」と呼んでいる。なんとなく似ているからだ。ロルガルーンからの否やはないので、おそらくカヤが適当につけてしまった「雷雲の魔導師」と、ロザヴィンは呼ばれるようになるだろう。
そんなことをぼんやりと考えていたら、背の高い水萍の魔導師は少し身を屈め、カヤを見やってきた。少し陰っていたが、深い蒼の双眸をしていた。
「訂正する、水萍の魔導師マル・ホロクロアだ。マル、と呼ばれることのほうが多い。そう、呼んでくれ」
「? わざわざ訂正したのはなぜだ?」
「わが師がわたしをマルと呼び始めて長い。ヒュー、と呼ぶのは、このひとくらいだから」
自分と歳が近そうな水萍の魔導師は、少し困ったような顔をしてイーヴェに視線を戻した。イーヴェは、くつくつと笑っていた。
「なんとも可愛らしい名をつけられたものだよ。なんて勝手なことだろうね」
イーヴェが声を出して笑うなんて珍しい。いや、今日は珍しいことだらけだ。原因は、この魔導師だろうか。
「水萍、ではだめなのか?」
「ヒュー、と呼んでやりなさい、カヤ。ヒューも、カヤのことはそう呼んでやりなさい」
渾名ではなく名で呼べと言われたのは初めてだ。いや、厳密には呼び方など注意されたことはないが、それでもこうして言葉にされたことはない。
いったいこの魔導師はなに者だろう。そういえばイーヴェに似た色を持つ人は初めて見る。血縁にあるのだろうか。
そう思ったところで。
「父さん」
と、水萍の魔導師が口にした。
「あなたくらいしか呼ばない名だ。この子が混乱する」
「もはや混乱していると思うがね」
「え?」
「わたしは、いるとは言わなかったからね」
「なにを……え、まさか」
慌てた様子で、水萍の魔導師がカヤを振り返る。予想に違わず、カヤは目を丸くしていた。
「イーヴェを、父さんと、呼んだか?」
「聞かされていなかったのか」
「呼んだか?」
「……このひとはわたしの父だ」
正直、吃驚だ。師にそれらしいことは聞いたような聞いていないような、とにかくそういった話はしたことがなかったから、確認などしたことがない。ただ、子どもの扱いにはやけに手馴れているなとは思っていた。
まさかこの外見で、こんなに背の高い息子がいたなど、誰が気づこう。
「たまにヒューのことを忘れてしまうからね。言うのが遅れたが、そこにいる魔導師はわたしの息子だ。歳はカヤに近いかな。影が薄いから渾名がつけられるまで時間がかかったが、随分と前から魔導師を名乗っているよ」
遅れたどころの話ではないと思う。カヤがイーヴェの弟子となって、三年と半年も過ぎているのだ。王都にある魔導師団棟に居室を与えられてからは、もう二年になる。今まで一度もすれ違わなかったことが不思議だ。そんな話も聞こえてこなかった。
「べつに、知らないなら知らないままで、よかったのだが……」
「おや、寂しいことを言わないでおくれ、ヒュー」
「あなたは本気でわたしのことを忘れるだろう。今やわたしとあなたが親子だと知っている者も少ない。弟子をとったというから、話したものだと早とちりしたわたしが愚かだった」
「そうまで本人に言われると、なんだか父親として悲しくなってくるね」
「事実だろう」
はあ、と疲れたようにため息をついた水萍の魔導師に、イーヴェが苦笑する。そのふたりの空気に、「ああ本当に親子なんだな」と思う。
「ああそうだ。カヤ、と言ったな。このひとに用事があったんだろう。邪魔をして悪かった」
言われて、はたと用件を思い出した。
「……いや、話があったんだが、イーヴェは知っていた。あとは、明日から地方に行くからその報告だけだ。イーヴェ、明日からしばらく出かける」
「おや、おまえもかい。なんだか少し寂しいね」
「……寂しい?」
珍しいことは続く。イーヴェの口から「寂しい」など、これまで魔導師のことでは聞く機会はあったが、カヤが任務に出る際に聞いたことはなかった。
「ヒューも遠くへ出ると言うし……なんだかつまらなくなるね、ここが」
「……不気味だ」
「うん?」
「あんたが変なことを言っている」
「……おまえはけっこう失礼な口をきくね」
座っていたイーヴェが、すっと立ち上がる。怒ったのかと思ったが、違った。
呆れている様子の水萍の魔導師に並んで立ち、その視線もほとんど同じくらいの高さに並べ、こくりと首を傾げる。
「ヒュー、どこまで行くつもりだい?」
「レイビ山脈だが」
「カヤ、おまえは?」
イーヴェの視線が、カヤに合わせて下げられる。なんとなくムッとしたのは、ふたりの背の高さが羨ましいと、思ってしまったからだろう。
「おれも方向はそちらだ。山脈までは行かないが、二つ前の街までは行く」
「そうかい。では、行こうか」
「は?」
一歩踏み出したイーヴェが、ぽんと水萍の魔導師の背を叩き、歩くよう促すとカヤの真ん前に立つ。イーヴェがなにを言っているのか理解が追いつかなかったカヤだが、「行こうか」というのが「出かける」という意味だというのはわかった。
「どこに行く気だ」
「ちょっ、父さん、まさか」
カヤと水萍の魔導師が声を揃えたとき、イーヴェはカヤを避けて部屋の扉に向かい、廊下に出んとしていた。
「ほら行くよ、子どもたち」
にこ、と笑ったイーヴェに、水萍の魔導師がこれでもかというほど長いため息をついた。
「幾度も言わせないで欲しいのだが。わたしとあなたが親子だと、なぜわざわざ周知させる必要がある」
「レヒテン、と……呼ばれたいのかい、ヒュー?」
そのとき、カヤは聞き覚えのある「レヒテン」という名にしか反応できなかったが、水萍の魔導師は違った。青褪め、息を呑み、怯えるように身体を震わせていた。
「おいで、ヒュー。カヤ、支度しておいで」
「……もう行くのか」
「師団長に話をつけてくる。しばらく任務についていなかったからね。研究ばかりで身体も鈍ってしまうことだし、おまえたちにつき添うことにするよ」
「つき添いが必要な任務ではない」
「これも経験だよ、カヤ。レイビ山脈までは行ったこともないだろう。それから、ヒューの力も、おまえは知っておいたほうがいい」
「……水萍の力?」
「ヒュー、だよ。おまえはそう呼んでおやり」
なぜだろう、微笑むイーヴェに、なにかゾッとするものを感じた。
「わたしはたまに間違ってしまうからね。だからおまえだけは、そう呼んでおやり」
ふつうに微笑んでいるのに、この感じは、怖い。全身が、心が、ぞわぞわする。
いったいなんだろう。
「父さん。わたしは」
「マル……なんて、わたしは呼んでやらない。ほら行くよ」
先を行こうとするイーヴェに、わけがわからないながらも、カヤは続いた。
ただ思ったのは、この親子が、ただの親子ではなさそうだということ。カヤには両親がいたことがなく、イーヴェに対してそんな感覚を抱いているだけなので、親子というものがどういうものなのか、理解できない。それでもこの親子の関係は不思議だと、そう思うくらいにはぎくしゃくとしたものを感じだ。
「すまない、カヤ。しばらくあのひとの気紛れにつき合ってくれ」
「ああ、べつに。その……」
「ん、ああ、呼び名はどちらでもいい。ただ、マルと呼ばれたほうが反応すると思う。ヒュー、と呼ばれても、馴染みがないからな。呼ぶのはあのひとくらいだし」
名に拘りがないのだと、彼は言う。名が欲しくて、与えられた喜びを知っているカヤとしては、なんて贅沢なことだと思った。
「ヒュー。そう、イーヴェが呼んでいる」
「……ああ。よろしく、カヤ」
ふっと微笑んだその顔が、イーヴェに少し似ていた。
ここでの新キャラ、マルの物語があります(ご存知かと思いますが)。
よろしければそちらもお願いします。
このたびも読んでくださりありがとうございます。