04 : 悲しい生きもの。2
カヤがイーヴェの仮家に居候して、あと少しで一年が経とうとしていた頃、いつものように雨降りの外へと放り出されたカヤは、思いつきで足許に錬成陣を描き、その中央に立っていた。
カヤの行動を部屋から見ていたらしいイーヴェが、窓を開けて「なにをしている」のだと訊いてくる。
「今日の雨はひどい。もしかすると土砂災害が起きる」
「……だから?」
びしょ濡れになりながら、地面に木の枝で書いた錬成陣が消えないよう、結界を張る。結界、と言っても、カヤは「錬成陣を消さない」ように意識を向けるだけだが、効果はあった。錬成陣は雨を弾き、カヤが描いたときのまま地面の時間を停めている。
「土砂災害が起きるから、だからその錬成陣で、なにをすると? というか、錬成陣を描く必要がおまえにあるのかい?」
「陣は補助だ。間に合わなければ、この陣で土砂を退ける」
「ほう。錬成陣を、いわば時限式にしたと?」
「考えている時間が惜しい」
「なるほど。それで、おまえ自身はなにをする気だい」
「雨雲を消す」
「……雨雲を消す?」
怪訝そうな顔をしたイーヴェをちらりと見やったあと、カヤは雨に打たれながら天を見上げた。遠くでは雷鳴が響き、閃光が走っている。
「できる。そう思ったから、消す」
「……おまえの理屈は、わたしには理解できないからね。まあ、やって見せなさい」
「暴走するとか、思わないのか」
「おまえが?」
「ああ」
「なぜ」
「……初めて試みる」
雨雲を消そうと思ったのは、できると思ったから、という以上の理由はない。できると思ったから、やってみようと思い立った。だが、不安がないわけではない。今まで無意識にせよ魔導師の力を使っていたとはいえ、天候を操ろうと思ったことは一度としてなく、また関心もなかった。大雨が降っても、カヤが外に出てしばらくすると止んでしまう雨は、そこまでカヤの関心を惹きつけなかったのだ。
だから、初めての力を試みることに対して、僅かな不安も抱かないほうがおかしい。もし力が上手く働かなければ、カヤは自滅し、見守るイーヴェを巻き込む可能性がある。
「先ほども言ったがね」
イーヴェの発した声に、カヤはそっと振り返る。
「わたしは、おまえの理屈が理解できない。わたしは詠唱という言葉の媒体を使って力を揮うが、おまえの場合は想像するという思考が、媒体の役割を担っている。わたしはおまえのように力を揮うことはできないのだよ」
「……だから、わからない、と?」
「いいや」
薄く笑みを浮かべたイーヴェが、違う、と首を左右に振る。
「できる、と思ったのだろう?」
「ああ」
「ならば、それが答えだ。おまえの思考がその答えを導き出したのだから、できないことはないのだろうよ」
楽しそうに言うイーヴェに、一瞬だが目を丸くする。
イーヴェは、まるきりカヤの力を信じきって、カヤ以上の確信を持っていた。
「……なんだい、その顔は」
「顔……?」
「おまえにしては可愛らしいよ」
ハッと、慌ててイーヴェから顔を反らした。思った以上にイーヴェからの言葉が嬉しくて、少し変な顔をしてしまっていたかもしれない。
「カヤ」
「……なんだ」
「早く、わたしにその力を見せなさい」
「わかっている」
イーヴェがカヤに期待していることは、一つしかない。それは、己れより上回る力で、その身を滅して欲しいという願いだ。カヤはそれを受け入れているわけではないが、こうして力に強い確信を持たれると、それはそれで嬉しく思うところがある。イーヴェはただ死を迎えたいだけでカヤの力を確信しているだけだろうが、カヤにとっては、自分を肯定してもらったようなものだ。
この世に自分は存在してもいい、イーヴェが認めてくれている。
そのことが、カヤに強い喜びを与える。
生きていてもいいのだと、思考することをやめなくていいのだと、人として認められた気がして、生きようと思ってよかったとすら思う。
「……今は考えごとなどおよしなさい、カヤ」
「うるさい」
「ほら、さっさとお見せ」
いつでもカヤの考えていることを見抜くイーヴェに、いくら魔導師としての力がイーヴェよりあろうとも、一生敵わないのだろうなと思った。
これが師弟関係というものか、と感慨深くカヤは息をつく。
「窓を閉めろ。巻き込まれるぞ」
「かまわないよ。面白そうだからね」
とりあえず必要だと思われる注意を促すと、カヤは呼吸を整え、一向に勢いの衰えない雨雲を見上げて睨んだ。
そうして。
「退け」
一言、そう声を発すると、カヤの思考に触発された陣が青白い光りを帯び始めた。
意図的に、自分の意思で、魔導師の力だというそれを使うようになってから、気づいたことがある。先にもイーヴェが述べたように、カヤは、想像するという思考力が魔導師の力を引き出し、本来なら必要とされる錬成陣や詠唱といった媒体を、まったく使わない。
今回、足許に施した錬成陣は、考える時間が惜しいことから予め発動する条件を与え、カヤが考えるまもなくことが為される仕組みだ。錬成陣とはそのように使うこともあるが、本来は魔導師の負荷を軽減するものであり、カヤのような使い方をする者は少ない。
「おまえの力は、本当に、面白い」
イーヴェは、いつものようにそれを声に出し、微笑む。
べつに、魔導師の力そのものが、おかしいわけではないだろう。カヤの思考力が媒体になっていることが、イーヴェにとっては興味深いことなのだ。
この力がカヤのものであり続ける限り、イーヴェはカヤを見捨てたり裏切ったりすることは、ない。
ホッとしたカヤは、ただただ微笑むイーヴェをちらりと窺って、自分はどうもこの人間のそばを心地いいと思っているらしいと、諦めにも似た思いを抱いた。
「……あんたが優しいのは、気質、なんだろうな」
「? なにか言ったかい」
「なんでもない」
「力の発動中に余裕だね。おまえが暴走しても、わたしは助けないよ」
「助けなど必要ない」
「いい言葉だ」
自分は優しくない、とイーヴェはよく言う。けれども、その瞳も、その声も、その表情も、なにを考えているかなどわからなくとも、一つだけわかることがある。
イーヴェは人間的に優しい。
自身でそれを認めようとしていないわけではないが、もともと情に厚いのだというのは自覚しているはずだ。だからカヤを拾い、育て、死を望みながら拒絶して生きている。カヤに自分を殺させるため、そのためだけに、今はその優しさに蓋でもしているのだろう。それでも、イーヴェから感じられる優しさがあるということは、持って生まれた気質をそう簡単には隠せない、というところだろうか。
「……よそ見をしていていいのかい」
「いちいちうるさい」
イーヴェのことは、もうそれでいいかと、カヤは考えを途中で放棄すると意識を魔導師の力に集中させた。
数分後、突然と雨は上がる。
とたんに覗いた晴れ空に、人々は驚く。
「ほう……わが弟子は有言実行する子だね」
イーヴェが、どこか嬉しそうに声を弾ませて、空を見上げていた。
「これはいい構築式が完成しそうだ」
「……構築式?」
「わたしには不可能だが、おまえなら、発動させられるだろうね」
なにかの研究だろうか。
イーヴェのそれに首を傾げたとき、ふとイーヴェがなにかを見つけ、そして珍しく目を丸くした。
「おまえ、いつのまに孫を持つ歳になったんだい」
「は?」
なんのことだ、と思ったとき、カヤもそれに気づいた。
「これは弟子だ。おまえも、いつのまにまた息子を持った」
という声が、街のほうへ続く道から聞こえてきた。
「息子……まあ、名を継がせようとは思っているから、ガディアンの継承で言うならそうなるのか。カヤ・ガディアン、わたしの弟子だよ。それで、そっちの孫は?」
「だから弟子だ。ほれ、慈光を憶えとるだろ」
「エルティ?」
「その息子だ」
「二世代で魔導師だと? おや、おや……」
イーヴェがひらりと窓から外に出てくると、街の方角からやって来た者の姿も、漸くカヤの目で視認できた。
壮年の魔導師と、その腕に抱かれた幼い少年だ。
「こんなところにいたとは、探すのに手間だったぞ、護法の」
「護法の、なんてやめてくれないか。おまえにそう言われると寒気がする」
「……久しぶりだな、イーヴェ」
「ああ、そうだね、ロルガルーン」
イーヴェが誰かと親しげに話す姿など初めて見る。また、イーヴェに親しげに話しかける人間も、初めてだ。そもそも、この仮家に誰かが訪ねてくるなど初めてかもしれない。
「……誰だ?」
「ああ、ロルガルーンだよ。大海の魔導師ロルガルーン・ゼク・レクト、わたしの兄弟子だね」
「あんたにも師がいたのか」
「なんだいその顔。当たり前だろう。勝手にひとりで魔導師になれるとでも思っていたのかい」
イーヴェにも師がいたらしい。そして兄弟子もいたらしい。当たり前だが、自分がイーヴェを師と仰いでいるからか、ちょっと驚いてしまう。
「イーヴェに弟子か……わしも歳を取るわけだ」
「風の噂で、魔導師団長に就任したと、聞いたけれど」
「この子を預かる少し前にな。おまえが姿を消したから、仕方ない、わしに矛先が向いたんだ」
「わたしが師団長なんてありえない」
「なにを言うか……しかし、先ほどまでの雨が綺麗さっぱり消えたのは、おまえの仕業ではなさそうだな」
「ああ、カヤだ」
ロルガルーン、というらしい壮年の魔導師の目が、カヤに向けられる。薄茶色だな、とわかるくらいにしかカヤの目には捉えられないが、ロルガルーンの腕に抱かれた幼い少年のほうが、印象的に惹きつけられる。
「その子ども……」
「ん? ああ、ロザヴィンだ。道中で疲れて眠ってしまった」
「……壊れてないか?」
カヤのその発言は意外なものだったらしい。息を呑む気配がしたあと、なぜかイーヴェに頭を撫でられた。
「なんだ?」
「おまえも、わかるようになってきたようだね」
「なにを」
「魔導師の力、だよ」
言っていることは理解できなかったが、ロルガルーンの腕に抱かれたロザヴィンという少年は、カヤが言った状態で間違いはないらしい。
少しの沈黙のあと、思い出したようにロルガルーンと挨拶を交わした。