01 : また魔導師が、遠きユメをみる。
*魔導師シリーズ短編の主人公「堅氷の魔導師」の始まりの物語でございます。
目を覚ますと、そこには真っ白な天井が広がっていた。染み一つ、クモの巣一つなく、随分と清潔そうな天井だ。
「……目が覚めたのかい」
横から声がして、どうやらそれはこの清潔そうな部屋のあるじのようで、視線を泳がせる。視界に捉えたその姿に、少しだけ、ほんの少しだけ、畏怖を覚えた。
「だれ……」
艶のない白と灰色の髪、黒っぽい双眸、それは見たことのない配色だった。老人ならまだしも、こんな、自分よりいくらか歳上だろうという青年に、その色はあまりにも不似合いだ。
「……おまえ、話せるのかい」
無表情に見下ろしてくる顔は、ぱっとしたものは感じられないが、黒っぽい双眸の奥には底知れないなにかを感じる。均衡が取れた顔つきだが、その黒っぽい双眸のせいか、できれば直視したくない。だが、黒っぽい双眸は自分を視界に捉え、放そうとしない。
「話せるなら、それでいい。手間が省けるからね」
「……だ、れだ」
「おまえこそ、誰だい?」
畏怖を感じても、なぜか恐怖は感じない双眸に、軽く息を呑む。自然と身体が逃げを打ったが、不思議なことに腕にも脚にも力が入らなかった。
「な……んで」
「崖から転落すれば、まあ無事では済むまいよ。生きているだけでも奇跡だろうね」
「……がけ?」
「憶えていないのかい」
なんのことか、わからない。いや、それ以前に、自分がどうしてこんな状態になっているのかも、なぜ青年に覗きこまれているのかも、わからない。いったい自分になにが起こったというのだろう。
「状況確認もよいが、まずは教えなさい。おまえは誰だい?」
混乱した頭に、冷や水でも浴びせるかのように、青年は淡々と問うてくる。状況を確認することのほうが先であるように思うのだが、青年はそう思っていないらしい。
「お、れ……は」
誰、と青年に訊いておきながら、同じように問われても、答えられない自分がいる。
誰、と問われて、持っている答えなど、なかった。
「……名は?」
おれ、という自分に名前があるとしたら、それは「おまえ」とか「おい」とか、それこそ「おれ」だ。
「……ないのかい」
いつまでも答えないでいると、さらりと答えを見つけられた。
軽く唇を噛む。悔しいからではない。悲しいからではない。欲しかったと、憧れさえ抱く羨望のためだ。
名、というものは、平等に与えられるものではない。それが個人のために存在するものであるのなら、なおさら、平等というものや公平な言葉は、生きるすべての人間に与えられるわけではないのだ。
「わたしは、イーヴェ・ガディアン。守護者の名を継いだ魔導師だ」
「……いー、ヴぇ?」
「そう。おまえは……そうだね、カヤ、と呼ぼうか」
「は……?」
「白い髪、森色の瞳……天地の化身たる万緑の神、カヤディナイン。そこから名を頂戴して、カヤ。おまえにはちょうどよかろう」
随分と大層な名をつけられた気がする。けれども、名をつけられるその心地よさは、たまらなく胸をしめつけた。
「おれに、名を……くれるのか」
「要らなかったかい?」
反射的に沈黙し、だが、しっかりと首を左右に振った。
人間らしい扱いを受けたのは、初めてだ。それを素直に嬉しいと思う自分がいる。たとえ青年が、初対面で見ず知らずの人間でも、人間として扱ってくれるそのことに変わりはない。そして彼は、わざわざ自分のために、「名」を考えてくれたのだ。名がないと不自由だと人はよく言っていたが、だからといって名を与えようとすることはないのである。あとが面倒になるとわかっているから、なければないままにしておくものなのだ。
彼は、あとの面倒など考えていないのかもしれない。考えなしに、ただ名をつけたのかもしれない。
それでも、名をつけられるというのは、嬉しいものだ。
「おまえが誰かわかったところで……」
青年、イーヴェという彼が、誰だと言ってきたのは名を知るためだけだったらしい。それ以外はどうでもいいのか、それまでじっと捉えていた目を反らすと、イーヴェは立ち上がった。
「食事にしようか、カヤ」
そうイーヴェが言ったとたん、美味しそうな香りが漂ってきた。なんていい香りだろう。なんて軟らかい匂いだろう。
なぜだか涙が溢れそうになった。
「……なんで、おれに、やさしく、する」
「優しい? このわたしが?」
「名を、くれた。食事も、与えようとして、くれている」
涙をこらえ、動かない身体でどうにかイーヴェのほうへと向くと、小首を傾げたイーヴェが無表情を崩し、淡く微笑んでいた。
「おまえにわたしの名を継がせようと思う」
「……つが、せ?」
「優しさなどではないよ。わたしは、ただおまえの力を、憐れんでいるだけだからね」
「ちから……って」
「おまえを魔導師にする」
そういえば、イーヴェは己れを「守護者の名を継いだ魔導師」だと言っていた。
魔導師とは、国に仕え、天地の災害などから国を護る、緑の力を有した異能者のことだ。
「おれが……魔導師に?」
「可哀想にね、カヤ」
「え……?」
「魔導師とは、セカイにユメみる、悲しい生きものだ」
自分の解釈が間違っているのか、それとも持っているその知識はイーヴェには通用しないのか。
「それでもわたしは、おまえを魔導師にするよ」
これは優しさなどではないのだと言ったイーヴェは、その黒っぽい双眸を細め、悲しげな顔をした。
「可哀想に……また魔導師が、遠きユメをみる」
その言葉を理解することはできなかったが、稀少な力を持ち重宝される魔導師という存在は、しかし人間として悲しい運命にあるのだろうと、漠然と思った。
そんな魔導師に、自分はなるらしい。イーヴェによれば、そこに拒否権はない。カヤ、と名づけられた自分は、名づけ親たるイーヴェによって、魔導師の道を歩まなければならないのだろう。
「今日からおまえは、カヤ・ガディアンだよ」
そっと撫でてくるイーヴェの手のひらは温かい。
今はそれでいいかと、先のことも考えず、カヤと名づけられた少年は瞼を閉じた。
楽しんでいただければ幸いです。