16 : たぶん、そういうことだと思う。
雨季に入った。守護石が、その役目の本領を発揮できる最初の季節だ。雨が降り続ける数日、守護石が王都を護れば、師が最期まで貫いた守護者としての姿が、永遠のものとなる。誰にも、師が呪術師に堕ちていたなど、知ることはない。
「カヤ! いてくれてよかったわ。守護石はどう?」
王宮の廊下で、ぼんやりと雨空を眺めていたカヤは、声をかけられて視線を下げた。
この国の王女、ユゥリア。輝く金色の髪、深い蒼の双眸は、いつも力強く前を見据えている。この力強さには支えられたように思う。
「今のところ問題はないと、陛下に進言してきたばかりだ」
「そう。それなら、各地に守護石を配置する案は、滞ることなく進められるわね」
よかったわ、と微笑むユゥリアの、その面影に、ヒューが重なる。ヒューは金髪ではないし、双眸もユゥリアほど澄んではいないけれども、従姉弟というだけあって、似ていないわけではなかった。
「カヤ?」
「……ヒューの助力が守護石の実用化に貢献していると、そう進言したのに、陛下は取り合ってくださらなかった」
愚痴や文句を言うつもりはなかったのだが、つい口にしてしまう。案の定、ユゥリアは表情を曇らせた。
「わかって、カヤ。彼は、自身で、それを望んでいるの」
「望んで?」
「わたくしだって、できることなら彼の功績を称えたいわ。けれどそうすることで、彼はどうなってしまうかしら?」
「どう……」
「生い立ちからなにから、すべてが露見するわ。それは彼が望むこと?」
ハッとする。
べつに、隠していることはない。知られて困ることはない。けれども、知られるわけにはいかないことが一つだけ、ある。
「……そうよ。彼は、大魔導師イーヴェ・ガディアンの名誉を、その誇りを、その姿を、護りたいのよ」
それは、魔導師の性分、本能とも言うのかもしれない。
父としての姿よりも、魔導師としての姿を大切にしたいから、護りたいから、知られるわけにはいかないのだ。
「なぜ……きみが知っている」
「忘れているようだけれど、わたくしはこれでも、この国の王女よ。いずれ国の象徴となる者よ」
深い蒼の双眸が、迷うことなく、躊躇うことなく、カヤに向けられる。その強さに、ぐっと、胸を押されたような気がした。
「教えてちょうだい、カヤ。イーヴェはどうして……あちら側へ渡ってしまったの」
知られてはいけないことだと、誰かが言ったわけではない。禁忌なのだと、誰かが指摘したわけでもない。けれども、その遺志が踏み躙られるようなことがあってはならないから、これは知られてはいけないのだ。まして、だからといって誰かが知る必要もない。
「……ヒューは言った。生きてくれているだけで、いいのだと」
「それは……イーヴェのことを?」
「ああ。だが、だから、イーヴェは堕ちた」
「なぜ?」
「知っているのだろう、きみは。イーヴェが、なにを誤ったのか」
魔導師なら、わかる。
魔導師だから、わかる。
「ヒューはレヒテンではない」
魔導師であるから、それは起きた。
魔導師という生きものの性分が、本能が、それに負けた。
一度負けてしまえば、魔導師はもう、戻ってこられない。
「……殺すべきだったんだ」
今思えば、描いたその未来が、果たして本当によい考えだったのか、わからない。
「殺してくれというイーヴェの願いを、聞き届けるべきだったんだ」
今だから思う。
師が選んだ結末は、間違ってなどいなかった。
望みを聞き届けるべきだったと、今さら後悔したところで、もう遅いとわかっているけれども。
「それが、イーヴェにとっての救いだったのかもしれないのだから」
なにが救いかなんて、当人にしかわからない。だからカヤにはわからなかった。描いた未来があった。
だが、師は初めから、殺されることしか望んでいなかった。
師はそれが救いであると、言っていたようなものだった。
「わたくしは、あなたがイーヴェを手にかけるようなことがなくて、よかったと思っているわ」
「……ヒューと同じことを言う」
「当然よ。たとえイーヴェが願ったことでも、わたくしも彼も、イーヴェの神ではないのだもの」
神ではない。
そう言ったユゥリアに、カヤは僅かに目を見開いた。
そう、神ではない。カヤも、ヒューも、ユゥリアも。
「すべてを叶えることなんてできないわ。だからわたくしは、彼の望みに、耳を傾けるの。護りたいと、悲しそうに微笑みながら言うから、寂しそうに身体を震わせるから」
「耳を……傾ける」
「叶えてはならない願いもあるのよ」
願いと、望み。
師の願いと望み、わかっていると思っていたけれども、本当のところはどうなのだろう。本当に自分は、師のそれをわかっていただろうか。
「あなたは、イーヴェの願いを、叶えなくてよかったのよ」
「……そうだろうか」
師に願われ、望まれたことを、自分はどう受け止めていただろう。
「描いた未来があったのでしょう?」
カヤは師の願いと望みを、描いた未来に沿って、聞き入れることはなかった。それは師の願いと望みが、カヤにとって受け入れがたいことだったからにほかならない。
「イーヴェの言うことがすべて、正しいわけではないわ。もちろんわたくしの言うことだって、正しいことではないかもしれない」
「……なら、どこに正しさがある?」
師の願いと望みを叶えるべきだったと、思った。それが今なら正しいことだったと思うからだ。けれどもユゥリアは、それを否定する。カヤが描いた未来を、肯定してくれている。
「どこかにあるのよ」
微笑んだユゥリアに、胸で蟠っていたものが、すとん、と落とされた。
「……そうか」
間違っていたわけではないのだと、未来を描いてよかったのだと、ユゥリアはカヤを肯定してくれる。
とても心地のよい風が吹いた。
「忘れないで、カヤ。すべてが正しいのなら、すべての人が、賢者となるわ。すべての人が賢者であるなら、そこに、負に塗れた感情なんて、存在しないでしょう?」
「……ああ、そうだ」
「だから、たとえイーヴェにとって救いであっても、あなたにとっては救いとはならないの」
では、それなら、ヒューはどうなのだろう。
「……ヒューの望みを、きみは聞いたのか」
「あのひとと同じような魔導師を生み出したくない、その悲しみを誰も知らなくていい、幸福なときを過ごしてもらいたい……彼はそう望んだわ」
クッと、カヤは笑う。
随分とヒューらしい望みだ。
「そんなことを言って、では自分はどうなのだろうな。どこに……どこに、ヒューの幸福があるんだ」
「そこに、あるのよ」
「そこ?」
「彼はとても緩やかよ。流される雲のように、彼は広い世界を見ているわ」
「……広い世界、か」
そうか、と思う。
ヒューなら、道端に小さく芽吹く野花の開花を見ても、その瞬間に幸福を思うかもしれない。同時に、小さな生きものがひっそりと静かに逝く瞬間にも、深い悲しみを思うことだろう。
「いつかそれが、ヒューの心を、壊してしまわなければいいが……」
「それを願うなら、カヤがそれを、努力すればいいのよ」
「……そうだな」
「カヤ、彼の望みに耳を傾けて。あなたなら、聞こえるわよね?」
耳を澄ませば、聞こえるかもしれない。その想いが、たとえ理解できなくても、なんでもいい、なにかを知ることはできる。
この世界には正しいことだけがあるわけではない。間違ったこともある。悪いこともある。けれども、どれが正しくてどれが間違いか、すべての人が同じ答えを持っているとは限らない。
師の願いは果たされるべきだったかもしれないが、カヤが果たす必要はどこにもない。
たぶん、そういうことだと思う。