10 : 描いたミライ。1
あれからイーヴェは変わらなかった。長く一緒にいることがなければ、ヒューをレヒテンと呼ぶことはなく、ヒューとして認識する。一緒にいることは少なかったが、カヤがヒューと組むようなことや、行き方向が同じ場合であれば、イーヴェはついてきた。そうしてヒューを、妻の名で呼んだ。
たまに、イーヴェはヒューに無理やり王族の異能を使わせていたが、それは異能を制御できないヒューのためだった。異能を制御できないヒューは、水の一種である血を操ることで制御できるようになったらしいのだが、その方法はカヤが聞いても「やめろ」と言いたい制御方法だったので、イーヴェのその強行には手を貸した。一度その制御方法を見てからは、カヤもたまに、ヒューに無理やり異能を使わせて相手をし、違う制御方法を模索させた。
けれども、ヒューと出逢って一年経ち、二年経ち、カヤが再びイーヴェの発案した守護石をやや完璧に発動させた頃になっても、ヒューの異能の制御方法はよいものが得られなかった。
「最近、身体が痛い」
「成長期だろうね」
「おれもあんたと同じくらい大きくなるか」
「やはり背は欲しいのかい」
「ヒューより欲しい」
年を経るごとに、少しずつ身長差が縮まっていったが、それでもまだイーヴェとヒューには追いつかない。ヒューがイーヴェより少し小さいのは救いだ。先にヒューを追い越せるかもしれない。
「背はそのうち伸びる。しかし……年々おまえは確かに成長したね」
「そうか?」
「この守護石、よく発動させたね」
イーヴェが発案した守護石は、見た感じは平べったいただの石だが、術式が組み込まれている。その構築式は、イーヴェがカヤの力を見て研究されたもので、初期の発案から幾度も改良がなされている。カヤの強大な力が守護石の発動を促しているらしいが、発動させるだけで機能は長く働かないので、今回もまた改良が必要だ。
「さて、おまえがいるうちに実験も済んだことだし、また取り組むかね。おまえはまたどこかに行くのだろう?」
「途中までヒューとガガンの街に行って、おれはそこからひとりで国境の街に行く」
「ほう……わたしも行こうかな」
「守護石の研究が先だ」
「ヒューと途中まで一緒になのだろう? 久しぶりだね。行こうか」
言うのではなかった、と思っても遅い。だが、そのときは途中までとはいえ、ヒューと一緒に行動するのは久しぶりだった。
考えてみれば、イーヴェが気紛れを起こしてついて来るのは、カヤがヒューと任務が重なったときくらいだ。カヤは世界を見るためによく単独行動するが、ヒューもよくひとりでふらふらと歩いていて、しかしイーヴェはヒューについて行くことはない。イーヴェの中にも、ヒューを妻と間違えることに対して、無意識にせよ考えていることがあるのだろう。だからそういう行動を取る。逆を言えば、カヤはイーヴェがヒューを間違わない姿をあまり見ない。このところは漸く慣れてきたが、ヒューが青褪めた微笑みを浮かべるのだけは変わらないので、共に行動しているときはいつでも複雑だった。もちろん、違うのだと諌めることは忘れていない。
そして不思議なのは。
「またあんたは、ヒューを間違えるだろう」
「だろうね」
あっさりとイーヴェが、ヒューを妻と間違えることを認めていることだ。さらに言えば、ヒューはヒューだということも、わかっている。諌められる理由を把握しているのだ。
「ヒューを苦しめるな」
「はて……残念ながらその間の記憶は曖昧でね。わたしの前にはレヒテンがいるのだよ」
「だから、それがヒューだと言っている」
「あれはレヒテンだよ」
ヒューだと言っているのに、わかっていながら妻の名で呼ぶ。
今回はどうなるだろう。
そう思いながら、カヤは任務に出た。城門前で合流したヒューは、イーヴェの姿に呆れていた。
「また来たのか……」
「来るとも」
「守護石の研究に忙しいと聞いたが」
「気分転換だよ。このところロルゥはわたしを外に出してくれなくてね」
「守護石が重要だからだ。あなたもわかっているだろう」
「まあそう言うでないよ、ヒュー」
ヒューを間違うことさえなければ、イーヴェは父親の顔をしている。間違えるそのときまで、確かに父親だ。間違い始めると、目が虚ろになってくる。
だから、その日の夜、宿でヒューを間違えなかったことには驚いた。
「ヒュー、酒は飲めるかい」
そろそろ間違え始めると思っていた矢先に、イーヴェがヒューを呼び、酒の相手をさせた。酔うほどは飲まないのはいつものことで、だがヒューを呼び間違えなかった夜は、それがカヤには初めての光景だった。
深夜、イーヴェが眠ったあと、カヤはヒューを叩き起こして外に連れ出した。
「イーヴェが間違わなかった」
「まあ……たまにはあるのだろうな」
「たまに? おれは初めて見た」
「治ったか」
「暢気な。そんな簡単に治るか」
これまで幾度も諌めた。違うと言い続けた。その効果があったというなら喜ばしい。だが、久しぶりに行動を共にして、その日の夜初めて間違わなかったというのは、どうも不気味だ。一度くらい間違ってくれてもいいはずだ。
「ずっと、ヒューだと認識していた。目が濁らなかった」
なにかあるのでは、と不安になった。それを払拭させるかのように、ヒューは淡く微笑む。
「気づいていたか、カヤ」
「ん?」
「あのひとは、絶対に、わたしに近づかない」
「……なんのことだ」
「きみがいて、初めて、わたしに声をかける。きみがあのひとの弟子になってからだ。あのひとが、自分からわたしに声をかけてくるようになったのは」
「……そう、なのか?」
「わたしはそれだけでも、随分と回復したと思っている」
この変化は当たり前ではないかと、ヒューは言った。
ヒューは、カヤがイーヴェの弟子となるまで、気軽にイーヴェには近づけなかったらしい。間違われるようになってから、姿を見せただけで「レヒテン」と呼ばれていたらしいのだ。それから比べれば、この二年で、いやカヤがイーヴェの弟子となったこの五年あまりで、劇的な変化だという。もともと距離を置かれていたが、それはイーヴェ自身も妻と間違えるからで、ヒューを苦しめないためにそうされていたし、ヒュー自身も間違われないために距離を置いていたのだ。
変化といえば、変化だろう。
置かれていた距離が、カヤを通して、近くなってきた。
「あのひとも、変わろうとしているのかもしれない。母はもう、どこにもいないのだから」
ヒューは安堵したように、ほっと息をついた。
「きみが諦めなかったからだろうな。わたしのことを、そう呼び続けてくれたから、あのひとの心にも響いたのかもしれない」
「……だと、いいが」
「悪いほうには考えるな。わたしはもはや諦めている身だが、それでも、あのひとが死を望むよりいい。生きていてくれることのほうが、嬉しい。あのひとを父親とはなかなか思い難いが」
間違われることを諦めてはいるが、ヒューがイーヴェを間違うことはない。名前で呼んでいるときも、その目は父親を見ている。父親の姿を、間違えることはない。それは諦めとは違うのではないかと思った。ヒューも、イーヴェが狂っているということを、諦めて見ているのではないということだ。
「このまま様子を見よう、ヒュー」
なにか変わるかもしれない。
「明後日にはガガンの街に着いて、おれはそこから国境の街へ行くが……ヒューも一緒に行こう。イーヴェを連れて、もう少し旅をしよう」
「ああ、それもいいな……だがすまない。ガガンで任務を終わらせたら、すぐに帰還しろと言われている。日照りが続いている地方があるんだ。様子見をしているが、おそらくわたしが行くまで雨は降らないだろう。強制的に雨季に入れ込まなければならない」
「ならおれも」
「カヤ、きみは魔導師だ。そしてわたしも魔導師だ。万緑の言葉に、魔導師は逆らえない。わかるだろう?」
国境の街へは、カヤが行かなければならない。実りが続いている今のこの国で、国境付近は危険だ。だからこそ、力のある魔導師が国防に赴く。ヒューが旱魃の地方へ赴く必要があるのと同じだ。
「……わかった。だが、すぐに終わらせて王都に戻る。だからヒュー、ロルガルーンを言い包めて、イーヴェと外に出よう」
「師団長を言い包め……簡単に言ってくれるな」
「今は外に出て様子を見たい。守護石の研究の一環だと言えば、イーヴェもロルガルーンも納得するはずだ」
「……まあ」
「行こう、ヒュー。イーヴェが変わる」
「……そうだな、それを願おう」
頷いてくれたヒューに、知らずほっとして、その日は眠った。
翌日、ガガンの街を目指す傍ら、ずっとイーヴェを観察していたら、不気味そうな目で見られた。
「なんだい」
「……なんでもない」
「少しは笑いなさい。ヒューのほうが可愛らしいよ」
「どこを笑えばいいのかわからない」
「ヒューを真似ればよい。あれはどこでも笑うよ」
「……そうだな」
なんだかひどい言い方をされているな、と言ったヒューに、イーヴェはいつものように淡く笑む。
変わらない。けれども変わるかもしれない。その微笑み方も。
その日の夜も、眠る前の一度だけイーヴェはヒューを「レヒテン」と呼んだが、休む挨拶は「お休み、子どもたち」だった。カヤはもちろん、ヒューを子どもと認識していた。
少しずつ変わろうとしているのだと、カヤはほっとした。
だからガガンの街に着いて、もう行くのかいと言ったイーヴェに、すぐ帰るからおとなしくあんたも帰れと言って、イーヴェとヒューを置いて国境へ向かった。
まさか、それが油断だったとは、思わない。
ちゃんと考えていた。
これからの未来を、変わるだろう世界を、疑いもしなかった。
雷鳴が轟きひどい大雨が降るまで。
「イーヴェが……死んだ……?」
あり得るはずのない未来に、眩暈がした。