09 : 与えられた道で。
ヒューの任務を終え、せっかくの地方任務だったのに晴れない気分を裡に抱えたまま、帰路の数日を過ごした。イーヴェはずっと、ヒューを「レヒテン」と呼んでいた。
魔導師団棟に帰りついてすぐ、カヤは師団長ロルガルーンのもとへ走る。
「おお堅氷、ちょうどよいところに。ロザヴィンを頼……」
「イーヴェのあれはなんだ」
「……はて?」
「イーヴェの、あれはなんだ。ヒューをレヒテンと呼ぶ。違うと言っているのに、ヒューをそう呼ぶ。ヒューを間違えている。だのに、おれのことは理解している。あれはいったいなんだ」
ロザヴィンを抱えていたロルガルーンは、カヤの急いた質問にしばらく口を噤んでいたが、少ししてロザヴィンを腕から下ろしながら口を開いた。
「そうか、やはり治らんか」
「治る? そんな類いの間違え方ではなかった」
「そのようだな。おまえをしっかりと認識しておったんだから」
ロルガルーンはロザヴィンを隣室に促し、文句を言われながらもどうにか部屋から出すと、カヤとふたりきりになる。暢気に椅子に腰かけると、カヤにも座るよう促してきた。もちろん座って落ち着けるわけもないので、カヤは無視した。
「あれはいったいなんだ!」
「見たならわかろう。わしとしては、おまえも行くというから、少しは期待しとったんだがな」
「期待?」
「イーヴェが、水萍を妻と間違わんことだよ」
「あんたはずっと前から知っていたんだな」
「当たり前だ。あれとのつき合いは長い」
「なんで間違いを正さないんだ!」
たぶんカヤは、今までになく激昂している。それはいやがおうにも、師の様子が常識的に見なくともおかしいと、はっきりしたからだ。
イーヴェは異常だった。
ヒューを前にして、異常な振る舞いをしていた。それはカヤに、師の姿を崩壊させるほどの衝撃だった。
「おまえに、正せたか?」
「それは……」
「わしにできると思うか。弟子たるおまえにできぬことを、ただつき合いが長いという兄弟子のわしに、できると思うか。わしが、ただ見過ごしていたと思うか」
珍しくもロルガルーンも、イーヴェに対するものとは違う、静かな怒りを含ませた。落ち着けと言われているのはわかった。落ち着けないというのもわかってくれていた。ロルガルーンにも、その憤怒はあるのだ。
「水萍は違うと、幾度も言うたわ。それでも聞かんのだよ、あれは。わかっとるからな」
「わかっている?」
「自分が間違うことを、イーヴェはわかっとる。水萍を前にしながら、妻の名で呼んどることもな」
「そんな……めちゃくちゃだ。それならヒューはどうなる。ヒューはレヒテンではない」
「水萍は諦めとっただろう」
「仕方ないと言っていた。だが、そんなわけがない」
イーヴェの妻は死に、ヒューは生きている。それを否定するように、イーヴェは妻の姿をヒューに重ねる。
ただ見過ごすことなどできない。
ヒューは、ヒューの存在は、イーヴェに掻き消されていいものではない。
「堅氷、諦めも、一つの手なのだ」
「諦められるか!」
「では呼んでやれ、水萍を、おまえが知る名で呼び続けてやれ」
「それしか方法がないなんてことはない!」
「カヤ」
「ヒューはヒューだ!」
イーヴェのあんな姿など、師の狂った姿など、見たくない。
「おまえは若いな」
苦笑したロルガルーンに、若いとかそういうことは関係ないと、カヤは怒鳴る。
諦めたら終わりなのに、なぜ諦められるのかわからない。そうであることをよしとする理由がわからない。
イーヴェが狂っていると、肯定されるのはたまらない。
「呪術師、という存在を、知っておるか?」
「呪術師?」
「イーヴェは、あちら側へ渡ってしまったのかもしれん。いや、渡ってしまったんだろう。水萍を妻の名で呼んだ日から、あれは少しずつ、あちら側へ心を明け渡したんだ」
魔導師には、唯一得られる自由があるという。万緑にすべての関心を向けてしまう魔導師は、万緑に囚われる。代わりに、一つだけ自由を得るのだ。その自由を唐突に奪われ、失うと、「あちら側」へ渡ってしまう。向けられていた関心、囚われていた心が、向けてはならないものへと、移ってしまうことだ。つまり、万緑へと向けられるはずのものが、異界へと、そして慈しむべき人間へと移り、害を成すようになる。その現象を「あちら側へ渡る」と言い、そうなった魔導師のことは「呪術師」と呼んだ。
「違う……イーヴェは違う!」
「そうかもしれんが、可能性は否定できまい」
イーヴェは狂っているのかもしれない。けれども、呪術師になったわけではない。
イーヴェは日々、魔導師の力を研究し、先だって『守護石』というものを発案し、カヤに実験させた。守護石はこれから、国を天災から護る大切な機能を果たすものとなっていく。そんなものを発案するイーヴェが、人々に害をなす呪術師に堕ちるわけがない。
「呪術師に守護石を発案できるものか」
「それは……そうなんだがな」
「イーヴェは呪術師ではない。大魔導師だ」
「そうで在り続けてくれることを祈っとるよ」
「祈らずともイーヴェは大魔導師だ」
この先、その未来は変わらない。イーヴェは大魔導師で、これまでがそうであったように、これからも魔導師として国防の要となる。ガディアンの名を継いだ者だ、カヤはそれをさらに継いでいく者だ。未来は変わらない。
「だが、堅氷よ、憶えておれ」
「なにを」
「自由を奪われた者に幸福はない」
静かに語るロルガルーンを、カヤは睨みつけた。
イーヴェの悲しみは知っている。失ったことへの虚無感しかイーヴェにはないこともわかっている。
それでも、諦めることなんてできるわけもなかった。
イーヴェは違うと、信じた。
信じ続ける。
あの瞳が闇に覆われても、呪術師になんてならない。そこには絶対に堕ちない。
死を切望していても、その絶望の中にあっても、イーヴェはまだ、生きることを捨ててはいない。
「忘れるな、堅氷よ……奪われた者に、救いはないのだ」
「救いはなくとも、今イーヴェは、生きている」
「それが絶望であると、おまえもいつか、知るだろう」
「生きることこそ戦いだ」
「……だから、救われたいのだ」
ロルガルーンの悲しげな双眸に、カヤは振り切るようにして背を向け、部屋を飛び出した。
諦められない気持ちでいっぱいになりながら、廊下を走る。途中で見知った魔導師に声をかけられたが、無視して走り続ける。
そうして、ぶつかった。
「どうした、カヤ」
ずっと、間違われていたのに、その間、当たり前のように接して、青褪めながらも微笑み続けた魔導師は、見たとたんにカヤの心を複雑にする。
「ヒュー」
「ん?」
「おれは信じ続ける」
「……どうした」
カヤがまだそこに届かないから、ヒューはそれが当然であるように、少し身を屈めてカヤの視線に合わせる。
深い蒼の双眸は、母たるレヒテンから譲られたもので、鈍色の髪はイーヴェから譲られたのだという。外見は全体的にレヒテンに似ていて、背はイーヴェに似たらしい。ルーク公爵家の長子ではあるが、レヒテンが養女だったことと、イーヴェと結婚したことから、公爵家の跡取りではないと聞いた。マルという愛称は王族に連なる者としての省略された名で、カヤがそうであるように、イーヴェにつけられたヒュエスという名がある。
ヒューと呼ぶのは意趣返しだった。
今は違う。
「ヒュー」
このひとは、ヒューだ。
「もう、水萍と呼んでいいんだぞ。あのひとは塒に帰った。無理にそう呼ぶ必要はない」
「あなたはヒューだ」
師が初めに言った。わたしは間違えてしまうから、おまえだけはそう呼んでやれと。
「ヒュー」
「……どうした、カヤ」
「ヒュー……っ」
どうしてだろう。これまでの反動だろうか。
名を与えられた喜び、師にさまざまなことを教えられる楽しさ、もっとも近いと感じる存在への憧憬、この幸福の中にあってただ生きるだけでは満足できなくなった。もっと幸福を願ってしまった。
「おれは、信じる。あなたと、イーヴェを」
喜びを、楽しさを、憧憬を、幸福を知ったから。
人間らしさを、人間を、知ったから。
「ヒュー……っ」
「いったいどうした……泣くな、カヤ」
イーヴェに与えられた魔導師という道、そこで出逢ったこの、兄のようなひと。
幸福を知らなければ、こんなにも、怯えることはなかっただろうか。