幻の泉
ふーっと深呼吸をして、私は目の前にあるツタの絡まる魔法学校の石作りの建物に不似合いなピンクのドアをそっと押した。
毎日見る度に思うのよね〜一体誰の趣味なの?! このピンクの扉って?!
まさか、ガゾロさん?
プププ〜 ち、違うわよね...。
先週一週間ずっとディートリッヒの魔術の授業はサボりまくっていたジャンヌ。でも、他の授業はキチンと受けていたから何もディートリッヒには言われていない。 一人で浮力魔術の練習を湯船でやっていた。
アウグストから「家で浮力の練習をするんなら、これを使うと良いよ」そう言って渡されたのが、マーブル玉だった。なんでもこれを湯船に入れて真上から見ると自分が見たい物が見れるそうだ。
これなら、私もやれるかも!そう思ってこの一週間私だってやれる事はやりましたよ!
家での特訓では、マーブルを使って覗いていたものは、ディートリッヒの事だった。
魔法指導教室の窓際に寄りかかる様に片方のお尻だけ器用に低い棚の上に乗せて、外を見ている。
外から何が見えるんだろう....そう思っていたら、私が住んでいる別邸が見えてる。
「ごめんな...」
ポツリとディートリッヒが呟いている。思わず私はマーブルに映し出されたディートリッヒから、顔をそらした。
上手く謝れないのは、私も同じだ...。2人して意地はってばかり.....。
浮力魔術を物にしたら、必ずディートリッヒに謝ってやるんだから!
(どこまでも、上から目線のジャンヌ)
週末は、ゆっくり別邸の自分の部屋で休んだジャンヌだったが、相変わらず悪夢にはうなされているようだ。でも、本人は、「あんなの夢よ夢!そんなピンクっぽい虫が潰されたからって、村一つとか、国一つが無くなるわけないじゃない。 馬鹿馬鹿しい」そう呟きながら、ピンクのドアを押すと入って行った。ジャンヌは、知らなかったのだが、この魔法学校のピンクのドアの由来ーそれは虫鯨を差している。
この日ジャンヌは気がつかなかった。このピンクのドアの形が虫鯨の紋章を象っていた事を。
そして、その虫鯨の目となっているダイアモンドが、光り輝いていた。
生温い風がジャンヌの頬を撫でて来る。
風が何かを恐れているようだわ。
ジャンヌは、閉めかけたピンクのドアをそっと閉めた。
いつもよりも、風が大気がざわついている。何かがこの世界で産まれようとしているのかしら?
ピリリと身体が痺れて来る感じがして、思わずジャンヌの身体が蹌踉けてしまう。壁に凭れながら、自分の身体の変調に首を傾げていた。
今日は、先週ジャンヌが怒りとイライラで投げ出してしまった浮力魔術をやる事になった。
ディートリッヒは、窓際の低いテーブル兼本棚に座って、人差し指でクルクルと簡単な魔法を使いながら、自分の大好きな紅茶を何も無い空間からティーカップに注がせると、紅茶の甘い香りが、部屋全体に広がった。
「そろそろ、時間か。今日は来るのかな? 子猫ちゃんは」
「誰が、猫なんですか?」
独り言を聞かれていた事に、何も悪びれる事無く肩を竦めて笑っているディートリッヒは、時間通りに魔法指導教室に入って来たジャンヌを見て、にっこり微笑んでいた。
「おはよう。おや、今日は逃げなかったんだね。良かったよ〜 今週も逃げられちゃったら、どうしようかと思ったからね」
口調はあくまでもやんわりだが、(逃げんなよ〜!分かっているんだろうな。ジャンヌ!お前 自分の役目くらい知れよ!ったく先週一週間も丸まる休んでくれて、こっちはスケジュールを微調整しなきゃならないんだからな!)そうディートリッヒの目が言っている。
ジャンヌは、顔を引き攣らせながら、「笑うか怒るかどっちかにすれば良いじゃない」呆れていた。
「其処まで言うのなら、ちゃんと出来るんだよね。浮力魔術。なら、やってもらおうじゃないか。今日は、特別に泉に転送するからね」
コイツ、本当に意地悪だ....。
王子だって言われていても、優しい顔をしても、魔術指導師としては、本当に厳しいディートリッヒ。
諦めかけた様に、肩を竦ませたジャンヌは、荷物を机の上に置くと首をコキコキと鳴らした。
「さあ、良いわよ。泉でも魔窟でも、もう逃げないんだからね!」
そう意気込んで言うジャンヌを見て、ディートリッヒは、クスッと笑っていた。
「よろしい。では...」
そう言って、手を空中に翳した。、ディートリッヒは、瞬間移動魔術で、ジャンヌを泉の中央に移動させた。
ぞわりと体中を猫のザラザラとした舌に舐められているような感覚が、頭の先から爪先まで感じる。思わず眉間に皺を寄せるジャンヌは、風が頬を撫でているのに気がついた。
「ここは...?!」
目の前に広がるのは、まるで夕焼けの空が泉に映ったように朱色の泉がある。初めて見るこんな不思議な色の泉をジャンヌは、息を殺しながら、じっと見ていた。
「血のように赤いわ...」
「ここは、幻の泉と呼ばれる場所です。ジャンヌの運が良ければ、女神に会えるかも知れないよ。だけど、泉に引きずり込まれない様にね」
え?今、何かさらって恐ろしい事を言っていたような気がするんだけど...。スルーしなきゃダメかしら...。
実は、ジャンヌ金槌で、泳げません。だけど、そんな事を今更ディートリッヒに言っても何も始まらないから、もうやるしか無い!
幻の泉と呼ばれるこの泉は、魔力に寄って見える物と見えない物があると言われている。
ディートリッヒは、一体ジャンヌがこの泉で何を見る事が出来るのかとワクワクしていた。
昼間でも霧が立ちこめるこの泉には、未来や夢を魅せる女神が居ると言われている。だが、その女神は何でも相当な気分屋だと言う事は、ガゾロからも聞いているし、女神に会った時に自分も体験したから分かっている。
今回は、女神は一体何をしてくれるんだろうな...。
目を瞑って精神統一しているジャンヌは、アウグストに言われた事を思い出した。
『ジャンヌは、習うより慣れろだろ? 自分がやりたいと思わないとね。ジャンヌ幻の泉を観に行きたいなら、行ってみたいからこれをやりたい!って思える筈だ。やってごらん』
すーぅと深呼吸をし始めたジャンヌは、階段を一段一段上るように右足で上に上って行く。
足下がふらついて来ているが、ジャンヌは心の中で水面の上を歩きたい!そう強く願った。今までは、左足で踏みしめた途端に、体がぐらついて水の中に落ちてしまっていたのだが、今日は落ちる事無く広い泉の上をゆっくりと歩く事が出来たのである。
それをみたディートリッヒは、パンパンと拍手をするとジャンヌを褒めた。
「よく頑張ったな。ジャンヌ!」
「.....」
「ジャンヌ?」
水面の上に立ったままで、動かないジャンヌは、誰かに呼ばれたかの様に、ふと空を見上げた。
徐に目を瞑ったジャンヌは体を小刻みに震わせると一言呟いた。
「......来る....」
「? 何が?どうしたんだ! ジャンヌ!」
その言葉を発したジャンヌの体は電撃を受けた様に、眩い閃光を体から発した。
「キャ..」短い悲鳴をあげた後、ジャンヌの体はゆっくりと水面の上に倒れて行った。例え倒れてもまだ浮力する力は残っているらしく、ジャンヌは仰向けになった。
ジャンヌの目は遠くを見つめている。その銀眼は、静かに光を讃えていた。それはまるで湖に浮かぶ月光のようだ。痙攣しているのか、たまに小指がピクピクと動いている。
脈は.....そう思い、ディートリッヒがジャンヌの首筋に手をやると、弱々しいが規則正しく脈を打っている。
横たわったジャンヌの身体は蒼い魔石の輝きに満ちあふれていた。
泉の女神が音も無く水面に出て来ると、眉を少しだけあげて横たわったジャンヌを見ていた。
ジャンヌは、朦朧とした意識の中で、誰かの声が聞こえて来る。
肩までに切り揃えられた深紅の髪に銀の瞳を持った少女が、ジャンヌの髪を撫でながら呪文の様に囁いている。5才くらいの少女だろう。腕には、腕輪が嵌められていて、其処には魔法学校にあるあのピンクのドアに刻まれている紋章と同じ物が刻まれてあった。
薄緑色のポンチョを着ている少女は、サクランボの様に赤く小さな唇でそっとジャンヌの額に口付けをした。
ジャンヌの身体は、まだ痺れていて指一本動かす事も出来ない。そんな時に、まるで子供にあやされる様に、額に口付けされたジャンヌは、顔を真っ赤に染めた。
少女は、額に口付けをすると共に、ジャンヌの記憶を少し辿って行った。
「ジャンヌか...。『歴史は繰り返される』そうレゼンド王に伝えよ『二つの力が一つに成る時に真実が見えて来ると』」
ジャンヌは、自分がまるで運河の上の小舟に乗せられているような気がしていた。
歴史は繰り返されるー
朱色の虫鯨が王都に飛来して来る。それは、この世界を滅ぼそうとしている者達が放った一つの罠。
誰の目にも留まらせる事無く朱色の虫鯨を殺す事なかれ。」
頭の中に響いて来る不思議な声は、ジャンヌの身体を使って彼女の側に居たディートリッヒに伝えられた。