「鏡の管理人風情が口を挟むな」と追放されましたが、王家の月光鏡は十二年間わたくしが水銀を注いでいたので、三日で曇ります ――前世は精密機器の保守点検員。補充記録簿百四十四冊、全部持って出ます
【第一章 「鏡の管理人風情が」――満月の夜、わたくしは懐中時計を開いた】
「セレスティア。お前との婚約を破棄する」
満月の夜会。シャンデリアの下で、王太子アルフレド・ヴェルナン殿下は高らかにそう宣言した。
「鏡の管理人風情が、未来の王妃の器であるはずがない」
広間がざわめく。三百人の視線が、わたくし一人に刺さった。
わたくしがしたことは、一つ。
懐中時計の蓋を開けた。
(前回の補充から、二十九日と十四時間)
指で文字盤をなぞる。祖父の形見ということになっているこの銀時計は、装身具ではない。計測器だ。十二年、わたくしはこれで水銀の沈降時間を測ってきた。
(次の補充予定まで、あと一日弱。……ちょうどいい頃合いですね)
「何をしている」
殿下が眉をひそめる。わたくしは時計を閉じ、顔を上げた。
「……失礼いたしました。時刻を確認しておりました」
「時刻だと? お前は今、何を宣告されたか分かっているのか」
「ええ。殿下の宣告の時刻です。記録に残しますので」
場が、ざわりと揺れた。
泣き崩れるはずの女が、懐から小さな帳面を出して、鉛筆の芯を舐めている。そういう絵面である。
わたくしは書いた。
『第百四十四回補充より二十九日。満月の夜会にて、王太子アルフレド・ヴェルナン殿下より婚約破棄の宣告。文言「鏡の管理人風情が、未来の王妃の器であるはずがない」。証人、夜会出席者三百名』
一字一句。
「……帳面など出して、何のつもりだ」
「一字一句、でございます。殿下のお言葉は国の言葉ですから、間違いがあってはなりません」
前世のわたくしは、日本の精密機器メーカーで二十年、計測機器の保守点検をしていた。四十八歳、独身、現場回り。
トラブルが起きたとき、最初にすることは怒ることではない。
記録を取ることだ。
記録だけが、あとで物を言う。
十三歳の冬、高熱の中でその二十年がまるごと戻ってきたとき、わたくしは三日寝込んで、起き上がって、最初に王城の最下級職の志願書を書いた。『鏡守』。満月の夜にだけ国土を映す国宝、月光鏡の水銀を補充する役目。侯爵令嬢が志願する職ではない。
だが、あの鏡は計測機器だ。
計測機器には、保守点検員が要る。
殿下の隣には、淡い蜂蜜色の髪の少女が立っていた。男爵令嬢ミレイユ・サンク。両手を胸の前で組み、大きな榛色の瞳を揺らしている。
「ミレイユは、月光鏡の前で祈りを捧げ、鏡を輝かせた。誰も為し得なかったことだ」
殿下の声が誇らしげに響いた。
「彼女こそ真の『鏡の聖女』。お前のように水を足すだけの雑用係とは、生まれが違う」
「あ、あの……わたし、祈っただけで……」
「謙虚なことだ。これが王妃の器というものだ、セレスティア」
(……輝かせた)
わたくしは頭の中で日付を繰った。
(ミレイユ嬢が王城を見学されたのは、先々月の十七日。第百四十二回補充の、翌日)
整備直後の月光鏡は、誰が前に立っていても光る。祈っていようと、あくびをしていようと、犬が通りかかっても光る。
当然である。そういう状態に、わたくしが調整したのだから。
だが、わたくしは言わなかった。
訊かれていないからだ。
「承知いたしました」
わたくしは帳面を閉じ、裾をつまんで礼をした。
「……それだけか」
「はい。婚約破棄の件、謹んでお受けいたします。つきましては――鏡守の職も、辞してよろしいですね」
一拍、間が空いた。
殿下は鼻で笑った。
「当然だ。水差し係など誰にでもできる」
「かしこまりました」
わたくしは微笑んだ。たぶん、この夜で一番自然な表情だったと思う。
「引き継ぎ書は、以前よりお渡ししておりますので」
「引き継ぎ書? そんなものを受け取った覚えはないな」
「ええ。三度とも未開封で返却されました。封蝋も切られずに。表書きには殿下の筆跡で、『雑務の書類など読む価値がない』と」
「……覚えていない。些末なことだ」
「でしょうね。ですので、わたくしが覚えております。封筒も、保管しております」
捨てていない。
怨念ではない。職業病である。
記録は、すべて残す。
「ではこれにて、失礼いたします」
わたくしは踵を返した。ドレスの裾が床を擦る音だけが、静まった広間に響く。
誰も止めなかった。
「あの、ロウェン様……!」
背後から、細い声がした。ミレイユ嬢が、裾を握りしめて追いかけてきていた。
「わたし、本当に、祈っただけなんです……!」
「存じております、ミレイユ様」
わたくしは足を止めずに答えた。
「――ですが、訊かれておりませんので」
扉の手前で、ふと視線を感じた。
宰相、ギルベルト・オルセン閣下。白髪を几帳面に撫でつけた老人が、わたくしの手元――閉じた懐中時計を、じっと見ていた。
目が合う。閣下の喉が、わずかに動いた。
(……ああ。この方は、気づきましたね)
絶望した女は、時刻を確認しない。
期限を確認するのは、技術者だ。
わたくしは会釈をして、扉を抜けた。
夜風が頬を撫でる。満月が、やけに明るい。
王城の最奥で、月光鏡は今夜も国土を映しているだろう。北の村の雪も、南の麦畑も。
(最後の補充から、二十九日)
指先がかすかに水銀の匂いを帯びている。十二年、落ちたことのない匂いだ。
(三日で曇りますよ、あの鏡)
わたくしは誰にも言わず、石畳を歩いた。
【第二章 百四十四冊のノートと、未開封の封筒三通】
荷造りに要した時間は、二時間だった。
ドレスは置いていく。宝石は元から持っていない。侯爵家の令嬢としては異様だが、鏡守の作業着に宝石は邪魔なだけだ。
持って出たものは三つ。
一、補充記録簿、百四十四冊。
二、引き継ぎ書の受領拒否印が押された封筒、三通。
三、懐中時計。
それから着替えと石鹸と、鉱物測定用の小道具一式。
「お嬢様……本当に、よろしいのですか」
老いた侍女が、荷車の木箱を見て涙ぐんでいた。木箱六つ。中身はすべて紙である。
「本よりも、せめてご衣装を」
「衣装は買えます。記録は買えません」
わたくしは木箱の蓋を閉めた。背表紙に番号を振ったノートが、ぎっしり詰まっている。
第一巻は十三歳の冬。文字が震えている。初めて水銀を注いだ日だ。重い。冷たい。銀というより、液体の金属の塊が、器の中で生き物みたいに震える。
『温度十九度。傾斜三・二度。曇り、翌朝まで残る。失敗。原因不明』
第一巻は、失敗の記録だらけだ。
四十三回、失敗した。
二百年前に失われた配合比を独力で割り出すのに、四十三回。そのあいだ、月光鏡はたびたび曇った。そのたびに「鏡守が無能だから」と叱責された。当然である。わたくしは無能だった。そのときは。
だが、四十四回目に、鏡は澄んだ。
第四十四巻、三行目。
『成功。水銀純度九八・二。希釈比一対七・五。温度二十二度。傾斜三・五度。――これだ』
文字が、また震えている。別の理由で。
「……お嬢様は、十二年、あの冷たい部屋に通われて。食事も立ったまま、湯浴みも半刻で済ませて。わたくしは、それが――」
侍女が言葉を詰まらせる。
わたくしは少し考えた。
正直なところ、苦ではなかった。鏡は嘘をつかない。注いだ分だけ応える。気温が一度下がれば、〇・三度傾斜を浅くすればいい。やるべきことが明快で、結果が数字で返ってくる。
前世のわたくしは、そういう仕事を二十年していた。誰にも褒められなかった。定年の手前で、廊下で倒れた。最後に思ったことは「報告書、途中だった」である。
だが、不幸だったとは思っていない。
機械は裏切らない。
「不幸ではありませんでしたよ」
わたくしは言った。
「ただ――少し、長かったですね」
王城を出る朝、最後に一度だけ、鏡の間に寄った。
王城最奥。石の円天井の下、直径三メートルの円い鏡が、わずかに傾いて据えられている。鏡面は特殊な水銀溶液で満たされ、今は静かな銀色をしていた。
満月の翌日。
最も美しい日である。
わたくしは手を伸ばしかけて、やめた。
(職は解かれました。触れる権限はありません)
代わりに、懐から鍵束を出して作業台に置いた。作業帽、計量匙、温度計の予備。すべて王家の備品だ。並べて、位置を揃える。
最後に、壁の記録板にチョークで一行書いた。
『第百四十四回補充 完了。次回――第百四十五回。担当:未定』
担当:未定。
書いて、チョークを置いた。
廊下に出ると、若い衛兵が立っていた。わたくしを見て、気まずそうに視線を逸らす。
「あの、ロウェン様」
「はい」
「……鏡は、その、しばらく、どうなるんでしょうか」
いい質問だ。この城で初めて、誰かがそれを訊いた。
十二年で、初めて。
「三日で曇ります」
わたくしは答えた。
「五日で膜が張り、十日で水銀が分離します。ああ、それと」
「はい」
「分離した水銀は非常に扱いが難しいので、絶対に素手で触れないよう、後任の方にお伝えください。中毒になります」
衛兵の顔が白くなった。
「後任は、どなたでしょう」
「存じません」
わたくしは微笑んだ。
「水差し係など誰にでもできる、とのことでしたので」
荷車が王都の門を抜けたのは、昼過ぎだった。
御者台の横で、わたくしは懐中時計を開いた。
(第百四十五回補充予定日まで、あと三十日)
閉じる。
振り返らなかった。
背後で、城の尖塔がゆっくり遠ざかっていく。
十二年。百四十四回。四十三回の失敗。三通の未開封の封筒。
わたくしは、全部持って出た。
【第三章 銀灰亭の湯と、硬いライ麦パンと、十二年ぶりの石鹸】
鉱山町『鉄鎚峠』の宿は、『銀灰亭』といった。
赤毛を布で巻き上げた女将は、わたくしの身なりを上から下まで一瞥して、腕を組んだ。
「訳ありだね」
「はい」
「訊かないよ」
「助かります」
「湯、沸かすかい」
女将――ハンナ・ロウは、顎で奥を示した。
「風呂、二時間貸し切りでいいよ。追加料金は銅貨三枚」
「……二時間」
「足りないかい」
「いえ」
わたくしは、言葉を探した。見つからなかった。
「……十分です。ありがとうございます」
湯は、木桶に張られていた。石を焼いて放り込む簡素な方式で、湯気が低い天井にこもっている。
服を脱ぐ。袖口が擦り切れている。十二年、同じ型の作業着を仕立て直して着続けた。
肩に湯をかけた。
熱い。
(……熱い)
王城での湯浴みは、いつも半刻だった。半刻以上かけると、その日の測定記録を書く時間が削られる。満月の前後は三日続けて鏡の間に泊まり込んだ。溶液の沈降を見ていなければならないからだ。
石鹸を取った。
指先を洗う。
左手の指先は、薄く灰色に変色している。水銀の痕だ。もう何年も落ちない。
洗う。洗う。洗う。
匂いが、薄くなっていく。
十二年、ずっとわたくしに染みついていた、金属のあの匂いが。
石鹸の泡が、白く手を包んだ。
「…………」
わたくしは、湯に顔を半分沈めた。
(なるほど)
(わたくしは、少し疲れていたようですね)
目の奥が熱くなったが、湯のせいということにした。
夕食は、硬いライ麦パンと、塩気の強い豆のスープだった。
パンは本当に硬い。前歯では無理だ。千切って、スープに浸す。しばらく置く。水分を吸って膨らんだところを口に入れる。
「……おいしい」
小さく呟いた。
「なんだって?」
カウンターの向こうでハンナが振り返る。
「おいしいです」
「そりゃ一番安いパンだよ」
「存じております。ですが、おいしいです」
ハンナは一瞬ぽかんとして、それから豪快に笑った。
「変な客だね、あんた」
「よく言われます」
三日目の朝、わたくしは宿の裏手の古井戸を見ていた。
釣瓶が朽ちている。覗くと、水面が濁っていた。
「十年前から使えないんだよ」とハンナが言った。「上の鉱山が掘り進んでからね。井戸屋に見てもらったけど、原因わかんないってさ」
「原因は、わかります」
「は?」
「水の色と匂いで、だいたい。鉱滓です。地層のどこかに割れ目ができて、ずり山の排水が混ざっています」
ハンナがぽかんとした。
「泊まり賃の代わりに、調べてもよろしいですか」
三日かかった。
わたくしは町の斜面を歩き、湧水を七か所採って色を見て、井戸水の濁りを時間ごとに記録し、雨の翌日に濁度が跳ね上がることを確かめた。混入経路は、宿の北三十歩にある古い排水溝だった。石組みが崩れ、滲みた水が地層の割れ目に落ちていた。
石を積み直し、粘土で止めた。
四日目の朝、井戸水は澄んだ。
ハンナは釣瓶を引き上げ、桶の中を覗き込んで、しばらく動かなかった。
「……あんた」
声が震えていた。
「あんた、井戸直しちまったね。十年濁ってたんだよ、あれ。あんた、何者だい」
わたくしは、記録用の帳面を閉じた。
「点検員です」
そのとき、ハンナが眉を吊り上げて、宿の向かいを睨んだ。
「ところであんた。三日前から、向かいの軒下に黒いのが突っ立ってんだけど、知り合いかい」
わたくしは振り返った。
黒い技師外套の男が、軒下で、雨も降っていないのに傘のように身をすぼめて、手元の帳面に何か書き写していた。
背が高く、痩身。黒髪。表情が一切動かない。
「……存じません」
「おい黒いの!」
ハンナが大股で道を渡り、男の首根っこを掴んだ。
「気味が悪いから中に入んな!」
男は抵抗せず、引きずられてきた。
そして、わたくしの前で、深々と頭を下げた。
「王国魔道具院次席技師、ヴァイス・アーレントと申します」
無表情のまま、耳だけが真っ赤だった。
「十二年間、あなたの記録簿を写本しておりました」
【第四章 「あれで俺は、鏡が生き物だと知りました」】
「……写本」
わたくしは繰り返した。
「はい」
「十二年」
「はい」
「……毎月」
「はい。満月の三日後、書庫の第七棚に記録簿が納められます。そこから五日以内に写しを取っておりました。司書が食事に出る、半刻の間に」
無断である。
「それは、窃盗では」
「写しただけです」
ヴァイス・アーレント次席技師は、まったく表情を変えずに言った。耳だけが赤い。器用な壊れ方をする人だ。
彼は背負っていた革袋を下ろし、中から帳面の束を出した。
出てきた。
出てきた。
まだ出てくる。
テーブルの上に、写本が積み上がっていく。わたくしの記録簿と同じ寸法、同じ罫、同じ番号。背表紙に一から百四十四まで。
「全巻ですか」
「第一巻から第百四十四巻まで。第六十二巻の後半のみ、司書に見つかりかけたため、翌月に補完いたしました」
「…………」
ハンナがカウンターの向こうで「うわあ」と呟いた。
「……なぜ」
わたくしは訊いた。
純粋な疑問だった。あれは作業記録である。温度、傾斜角、純度、天候、備考。詩でもなければ物語でもない。数字の羅列だ。
ヴァイス氏は、写本の山から一冊を抜き出した。
第八十七巻。
ページを開く。指が迷わない。何度も開いた位置だと、それだけでわかる。
「十六の年に、暇つぶしに書庫で読みました」
彼は読み上げた。
「『十一月十四日。温度十七度。傾斜三・二度。――この日は雪で気温が下がったため、傾斜を〇・三度浅くした。溶液の粘度が上がると沈降が遅れる。鏡は寒がりである』」
彼は顔を上げた。
表情は動かない。灰青の瞳が、まっすぐにわたくしを見ている。
「鏡は寒がりである」
もう一度、彼は言った。
「あれで俺は、鏡が生き物だと知りました」
宿の暖炉で、薪が爆ぜた。
「……わたくしは」
言葉が、喉で引っかかった。
「わたくしは、あれをただの作業記録として書いておりました」
「存じております」
「誰も読まないと思っておりました」
「はい」
「実際、誰も読みませんでした」
「……俺が、読みました」
声が、わずかに低くなった。
「毎月。十二年。百四十四回」
百四十四回。
わたくしが注いだ回数と、同じ数だ。
わたくしは懐中時計に手を伸ばしかけて――やめた。
十二年で初めて、時間を確認せずに人の言葉に答えた。
「……なぜ、ここまで来られたのですか」
ヴァイス氏は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「お願いが、ございます」
「はい」
「俺の名を」
彼は、写本の一冊目を開いた。表紙裏の、罫線で囲まれた小さな欄を指で示す。
『観測者』欄。わたくしの名前だけが、十二年、ずっと一人で書かれていた欄だ。
「いつか記録簿を再開されるとき、この欄に、共同観測者として一行、俺の名を載せていただけませんか」
「……それだけですか」
「それだけです」
「報酬は」
「不要です」
「地位は」
「不要です」
「……あなた、変人と言われませんか」
「言われます。院内では『氷の次席』『黙殺のアーレント』と」
「そちらではなく」
「『写本魔』とも」
ハンナが噴き出した。
わたくしは、少し――本当に少しだけ、笑った気がする。
「では、ヴァイス様。一つ、お尋ねします」
わたくしは姿勢を正した。
「鏡は、今どうなっていますか」
彼の表情が、初めて動いた。ほんのわずか、眉が寄った。
「満月の翌日、何も映しませんでした」
「でしょうね」
「三日目、鏡面に灰色の膜が」
「はい」
「五日目、北のヴェルデ村で魔物の群れが発生しました。鏡は、何も教えませんでした」
暖炉の火が、ぱちりと鳴った。
「死者は」
「十一名。発見が二日遅れました」
わたくしは目を閉じた。
十一名。
その数字は、わたくしが書くべき記録ではない。だが、書かれるべき記録ではある。
「……ヴァイス様」
「はい」
「その十一名の名前と、村の位置と、発生の推定時刻を、控えておられますか」
「控えております」
「見せてください」
「はい」
彼は迷いなく帳面を出した。
わたくしはそれを開き、余白に日付と時刻を書き入れた。
『第百四十五回補充 不実施。鏡面観測機能、停止。――担当:未定』
「ミレイユ嬢は」
「毎日祈っておられます。光りません。三日目に『祈りが足りない』と責められ、泣いておられました」
「……でしょうね」
あの娘は、ただ祈っただけだ。
整備済みの鏡の前で。
そのとき、宿の扉が勢いよく開いた。
「次席ィーッ! 見つけましたよ、やっと!」
くせ毛の茶髪にそばかすの少年が、息を切らせて飛び込んできた。十七か、八。落ち着きのない目が、わたくしを見て、固まった。
「……って、えっ、えっ、この方が? 先生ですか? 記録簿の? 百四十四冊の?」
「先生ではありません。元鏡守です」
「いや先生ですって! 僕、全部読んだんです、泣きながら! 三日ですよ!? たった三日で鏡が灰色になるんですよ! 誰も記録簿読んでないんですか!? 僕は読みましたよ! 全部! 百四十四冊!」
「落ち着きなさい。息継ぎを」
「それでですね先生、照合したんです、聖女様が祈った日と補充記録を」
彼は帳面を広げ、指で二つの日付を指した。
「……これ、先生が水銀注いだ次の日じゃないですか」
「気づきましたか」
「気づきますよ! 日付並べただけですよ!?」
「ええ。読めば、誰でも気づきます」
わたくしは言った。
「――読まなかっただけですね。二百年」
「二百年……」
見習い技師トビアス・ミュラーは、床にへたり込んだ。
わたくしは懐中時計を開き、今度こそ時刻を確認した。
(第百四十五回補充予定日を、過ぎて六日)
(あと四日で、水銀が分離します)
閉じた。
「ヴァイス様。写本を、王国魔道具院に正式提出していただけますか」
「……正式に、ですか」
「ええ。『鏡守セレスティア・ロウェンの職務記録』として。受理印をもらってください。日付入りで」
「理由を、お伺いしても」
わたくしは微笑んだ。
「そろそろ、使者が来る頃ですので」
【第五章 「うちの客だ。靴ぐらい脱ぎな」】
使者は、四日後の昼過ぎに来た。
馬蹄の音が三つ。『銀灰亭』の前に止まる。王家の紋章を刺繍した外套の男が、泥のついたブーツのまま、食堂の板床にずかずかと踏み込んできた。
「セレスティア・ロウェンはいるか」
わたくしが顔を上げる前に、ハンナが動いた。
女将は厨房から出てきて、両手を腰に当て、玄関と使者の間に立ちはだかった。
「うちの客だ」
低い声だった。
「靴ぐらい脱ぎな」
使者が鼻白む。
「平民が、王家の使者に――」
「王家の使者だろうが鉱夫だろうが、うちの床を汚す奴は客じゃない。表で脱ぐか、出て行くか、どっちかだよ」
使者の頬が引きつった。後ろの従者が慌てて袖を引く。長い沈黙のあと、使者は無言でブーツを脱いだ。
わたくしは、その光景をぼんやりと見ていた。
(……ああ)
胸の奥が、妙に熱かった。
十二年。わたくしは一人で鏡の間に通い、一人で叱責を受け、一人で記録を書いた。侯爵家の令嬢でありながら、誰も守ってくれなかった。守られる立場だと、誰も思わなかった。わたくし自身も、思っていなかった。
生まれて初めてだった。
誰かが、わたくしの前に立つのは。
「……ハンナさん」
「なんだい」
「のちほど、お礼を申し上げます」
「銅貨三枚でいいよ」
使者が、靴下のまま、テーブルの前に立った。
巻物を広げ、読み上げる。
「王命である。鏡守セレスティア・ロウェンは、国宝『月光鏡』を曇らせた責を問われる。これは職務怠慢であり、国家への重大な背信である。直ちに王都へ出頭し、鏡の修復にあたれ」
食堂が静まり返った。
ヴァイス氏が、ゆっくりと立ち上がりかけた。わたくしは手で制した。
「一つ、お伺いしてもよろしいですか」
わたくしは、スープの皿を横にずらした。
「その命令書の宛先は、『鏡守セレスティア・ロウェン』ですね」
「書かれている」
「わたくしは、鏡守ではございません」
使者が眉をひそめた。
「何を言う。お前は十二年、鏡守を務めて――」
「務めておりました。過去形です」
わたくしは、テーブルに帳面を置いた。あの夜会の帳面だ。
開く。
「二十七日前、満月の夜会。王太子アルフレド・ヴェルナン殿下より、わたくしへの宣告。『鏡の管理人風情が、未来の王妃の器であるはずがない』」
わたくしは、指でなぞりながら読んだ。
「続けて、わたくしの発言。『では、鏡守の職も辞してよろしいですね』。殿下の御返答――」
わたくしは顔を上げた。
「『当然だ。水差し係など誰にでもできる』」
使者の喉が、こくりと鳴った。
「わたくしは解任されております。公開の場で、王太子殿下御自身のお言葉で。証人は夜会に出席した三百名です」
「……それは、口頭の」
「王族の口頭命令は、この国では正式な王命です。職務規定第一条にそう書かれております。読まれたことは、ございますか」
「…………」
「ないようですね」
わたくしは帳面を閉じた。
「つまり、この命令書は宛先が存在いたしません。鏡守セレスティア・ロウェンという人物は、二十七日前に消滅しておりますので」
使者が、巻物を握りしめた。
「……屁理屈だ」
「ええ、屁理屈です」
わたくしは素直に認めた。
「ですが、わたくしは十二年、屁理屈ではない仕事をしてまいりました。それを『水差し』と呼んだのは、そちらです」
静かに言った。
声は、一度も高くならなかった。
使者は、それから三十分、脅し、すかし、侯爵家への圧力をちらつかせ、最後には机を叩いて叫んだ。
「国民が死んでいるのだぞ!」
わたくしは、その言葉にだけ、少し間を置いて答えた。
「ヴェルデ村、死者十一名。発見の遅れ、二日。推定発生、第百四十五回補充予定日の四日後」
使者の顔が強張った。
「わたくしは控えております。あなたは控えておられますか」
「…………」
「控えておられないのでしたら、まずそこからです」
わたくしは立ち上がった。
「王都へは参ります」
使者が、ぱっと顔を上げた。
「お、おお、では――」
「ただし出頭ではありません。協議です」
わたくしは木箱の蓋を叩いた。
中には百四十四冊。
「宰相閣下に、お伝えください。ギルベルト・オルセン閣下御同席のもと、物証を三点、提示いたします」
「物証、とは」
わたくしは微笑んだ。
「読まなかった方々に、読んでいただくものです」
使者が帰ったあと、ハンナが大きな溜息をついた。
「あんた、怖い女だね。で、勝てんのかい」
わたくしは、荷を括りながら答えた。
「勝ち負けではありません」
「じゃあ何だい」
「点検です」
木箱の紐を締めた。
「この国が、十二年前から故障していたことの、記録の照合です」
ヴァイス氏が、黙って木箱のもう一方を持ち上げた。
重い。紙は重い。
それでも彼は、顔色ひとつ変えなかった。
耳だけが、少し赤かった。
【第六章 「口を挟むなと仰せでしたので」】
謁見の間は、ざわついていた。
玉座の脇に、王太子アルフレド殿下。顔色が悪い。隣には、ミレイユ・サンク嬢。目が腫れている。手が震えている。
宰相ギルベルト・オルセン閣下は、階の下に立っていた。黒の宰相服。無表情。
わたくしは入室し、礼をした。
「遅い!」
殿下が叫んだ。
「鏡が、鏡がまだらになっているのだ! 水銀が分かれて、沼のように――!」
「十日目ですね」
わたくしは懐中時計を開いた。
「予定通りです」
「予定だと!? 貴様、わざと――!」
「いいえ」
わたくしは時計を閉じた。
「わざとではありません。整備をしなければそうなる、というだけです。雨が降れば地面が濡れるのと同じです」
「ならば直せ! 今すぐ直せ!」
「その前に、三点、提示させていただきます」
わたくしは、従者に合図した。
運び込まれたのは、木箱六つと、小さな銀の盆が一つ。
「一点目」
わたくしは盆の上の封筒を取り上げた。三通。
「引き継ぎ書の受領申請。第三年、第七年、第十一年。いずれも未開封で返却されております」
封蝋を、広間の高窓からの光にかざす。切られていない。
「表書きに、受領拒否の署名がございます。筆跡は――」
わたくしは封筒を裏返した。
「アルフレド・ヴェルナン。添え書き、『雑務の書類など読む価値がない』」
殿下の顔から、血の気が引いた。
「……そんなもの、覚えて」
「覚えておられないでしょうね。三通とも、別の年です」
貴族たちがざわめいた。
「二点目」
わたくしは木箱の蓋を開けた。
百四十四冊。
「補充記録簿、原本。第一巻から第百四十四巻。温度、傾斜角、水銀純度、天候、所要時間、失敗記録。十二年分です」
わたくしは第四十四巻を抜いた。
「なお、この写本は王国魔道具院に正式提出済みです。受理印は十日前。提出者は、ヴァイス・アーレント次席技師」
広間の端で、黒い外套の男が一礼した。無表情で。
「写しただけです」
「――つまり、わたくしの職務記録は、すでに国家の公的記録です。今日この場で捏造したものではございません」
宰相閣下の眉が、わずかに動いた。
「三点目」
わたくしは、一枚の古い羊皮紙を広げた。
「鏡守職務規定、原文。制定は二百十二年前。王家の書庫に保管されていたものの写しです」
わたくしは、条文を読み上げた。
「第四条。『鏡守の任は王命により解かれる。解任後の鏡の状態について、鏡守は一切の責を負わない』」
沈黙。
完全な、沈黙だった。
わたくしは羊皮紙を宰相閣下に差し出した。
閣下はそれを受け取り、老眼鏡を押し上げ、ゆっくりと読んだ。
一行目から、最後まで。
そして、顔を上げた。
「……王家の文言です」
閣下の声は、乾いていた。
「異議は、ございません」
誰も、何も言わなかった。
「お待ちを!」
声を上げたのは、ミレイユ嬢だった。
小柄な体を震わせて、彼女は前に出た。
「わたしは、祈っただけです」
「ミレイユ! 黙っていろ!」
「祈っただけなんです! ずっと言ってました! でも誰も聞いてくれなくて、一度だけ『そうかもしれません』って頷いてしまって、それで……!」
彼女は、泣きながら、ちゃんと言い切った。
「鏡は、わたしの前から、もうずっと綺麗だったんです」
わたくしは、彼女を見た。
十八歳。悪意はない。ただ、流れに抗えなかった。
「ミレイユ様」
「は、はい」
「あなたが祈られたのは、先々月の十七日の午後ですね」
「……はい」
「わたくしが第百四十二回の補充を終えたのは、その前日の深夜です。記録簿第百四十二巻に、時刻まで書いてあります」
わたくしは、巻を開いて彼女に見せた。
「整備直後の鏡は、誰が前に立っていても光ります。――あなたのせいではありません」
ミレイユ嬢が、両手で顔を覆った。
「ならば……」
殿下が、掠れた声を出した。
「ならば今すぐ配合を教えろ! 鏡を直せ! それが貴様の務めだろう!」
「それは、できません」
「なぜだ!」
「王家の文献に、配合比は載っておりません」
わたくしは言った。
「元の配合は、二百年前に失われております。わたくしは十二年かけて、四十三回失敗して、独力で割り出しました。記録簿第四十四巻に記載がございます」
「ならばその巻を寄越せ!」
「お断りします」
「なぜだ!!」
殿下は、顔を真っ赤にして叫んだ。
人生で最も必死な一言だったのだろう。
そして、最も無力な一言だった。
わたくしは、記録簿を閉じた。
表紙に手を置いて、顔を上げた。
微笑んだと思う。
「口を挟むなと仰せでしたので」
殿下の口が、開いたまま止まった。
広間は、しんと静まり返っていた。
三百人の夜会の時と同じ人数が、今度は何も言わずに、わたくしを見ていた。
宰相閣下が、一歩前に出た。
「……ロウェン嬢。条件を、伺いたい」
わたくしは、懐から一枚の紙を出した。
書いてきてあった。
「新設職『月光鏡主任技師』。記録簿の著作および管理の権利は、わたくしに帰属。部下十名、人選はわたくしが行います。修復に要する期間は三年。――ああ、それと」
わたくしは付け加えた。
「鏡守の年俸を、現行の七倍に。十二年遡って、差額を」
「……七倍」
「計測機器の保守点検とは、そういう仕事です」
宰相閣下は、しばらく紙を見ていた。
それから、懐から判を出した。
躊躇なく、押した。
「……閣下」
わたくしは、少し驚いた。
「交渉は、なさらないのですか」
宰相閣下は、顔を上げなかった。
条件書の下の余白に、何かを書き加えている。
書き終えて、彼はそれをわたくしに渡した。
一行だけ、添えてあった。
『――読まずに返した者が三名。私も、その一人です』
わたくしは、それを読んだ。
閣下は謝らなかった。
最後まで、一度も。
わたくしは紙を畳んで、懐に入れた。
「……承知いたしました」
それが、彼の謝り方だった。
【第七章 『観測者:セレスティア・ロウェン/ヴァイス・アーレント』】
三年かかった。
分離した水銀を回収し、不純物を分け、鏡面を一度すべて抜き、石の盤を磨き直し、新しい溶液を八回作り直した。
失敗は、十九回。
全部書いた。
部下は十名。一人目に名を挙げたのは、王国魔道具院の見習い技師、トビアス・ミュラー――もう二十歳だ。
「部下十名。一人目――トビアス・ミュラー技師」
彼は名を呼ばれたとき、声を上げて泣いた。
「ぼ、僕、見習いですよ!? 現場、許可下りないんですよ!?」
「手順は言えますか」
「言えます! 第一段、器具の温度を外気温に合わせる、半刻! 第二段、純度測定、三回平均! 第三段、希釈、一対七・五、ただし湿度七割超のときは一対七・三に補正――!」
全部、合っていた。
「……では、現場へ」
わたくしは、彼を「トビアス技師」と呼んだ。
彼は相変わらず、わたくしを「先生」と呼ぶ。訂正しても直さない。
王太子アルフレド・ヴェルナンは、国土監視機能の喪失と、それによる死者十一名の責を問われ、廃嫡された。北の砦へ。
出立の日、彼はわたくしに一度だけ目を向けた。何か言いたげだった。
配合比は、彼の頭の中にない。
言えることは、なかったと思う。
ミレイユ・サンク嬢は、「祈っただけです」と公式に証言し、男爵領へ戻った。
一年後、彼女から手紙が来た。
『実家の井戸の水が、少し濁っています。測り方を教えてください』
わたくしは返事を書いた。短く、丁寧に。濁度の測り方と、雨の翌日に必ず測ること。記録は必ず日付入りで残すこと。
半年後、二通目が来た。濁度の表が同封されていた。日付が全部入っていた。
悪くない表だった。
『銀灰亭』のハンナさんには、三年分の宿代を一括で送った。
返事はこうだった。
『多すぎる。次来たとき風呂に二時間入れ。追加銅貨三枚は取る』
取るらしい。
満月の夜。
修復された月光鏡の前に、わたくしは立っていた。
王城最奥、石の円天井の下。直径三メートルの円い鏡面が、静かに傾いている。
「温度」
「二十二度です」
ヴァイスが答える。
「傾斜」
「三・五度」
「湿度」
「六割八分」
「補正、不要」
わたくしは、計量匙を取った。
水銀が、器の中で重たく震える。十三歳の冬に初めて持ったときと、同じ重さだ。
注ぐ。
ゆっくりと。
銀が、銀に溶けていく。
「――第百四十五回、補充完了」
三年と十日遅れの、第百四十五回。
わたくしは新しい記録簿を開いた。
第百四十五巻。一ページ目。
表紙裏の、罫線で囲まれた小さな欄。
『観測者』
わたくしは羽根ペンを取り、書いた。
『セレスティア・ロウェン』
一行空けずに、続けて。
『/ヴァイス・アーレント』
隣で、彼の手が止まった。
温度計を持ったまま、動かない。
無表情のまま、耳が、首筋まで赤くなっていく。
「…………」
「ヴァイス様」
「……は、はい」
「温度計が傾いております。〇・五度ほど」
「し、失礼いたしました。大変に、失礼を、いたしました」
「敬語が過剰です。昂ぶっておられますね」
わたくしは言った。
「……もう、見分けがつきます」
「……ありがとうございます」
彼は、小さく言った。
わたくしは記録簿を閉じて、答えた。
「十二年分の写本代と思ってください」
鏡面に、変化が起きた。
銀がゆっくりと澄んでいく。濁りが沈み、表面が張りつめ、やがて――
光が、広がった。
静かな銀の光。叫ばず、きらめかず、ただ水面のように国土を映す。
北のヴェルデ村。雪が降っている。畑を柵で囲い直したのが見える。村は、建て直されていた。
南の麦畑。穂が実っている。収穫まであと十日というところだろう。
東の鉱山町、鉄鎚峠。『銀灰亭』の裏手に、小さな井戸が映った。
釣瓶が動いている。
誰かが、水を汲んでいる。
後ろで、トビアスが洟をすすった。
「……先生。鏡、映ってます」
「ええ」
「ちゃんと、映ってます。北の村も、麦畑も……あっ、鉱山町。誰か、井戸で水汲んでますよ」
「ええ」
わたくしは、懐中時計を開いた。
(第百四十六回補充予定日まで、あと三十日)
閉じた。
深夜。
作業を終えて、わたくしとヴァイスは、王城の厨房にいた。
「ヴァイス様。パンを焼きましょう」
「……今からですか」
「今からです。三年、ろくなものを食べていません」
生地は昼のうちに仕込んでおいた。粉と塩と水と酵母。配合は書いてある。わたくしは何でも書く。
窯に入れて、四半刻。
焦げた。
「……窯の温度が高すぎましたね」
「記録を取りましょう」
「取りましょう」
わたくしたちは、焦げたパンの表面温度と焼成時間を帳面に書き、それから千切って食べた。
硬い。苦い。底が炭になっている。
「……おいしいです」
ヴァイスが、無表情で言った。
「嘘です」
「はい。しかし、おいしいです」
わたくしは笑った。
声を出して笑ったのは、たぶん十二年ぶりだった。
「……ふふ。ええ。注いだ分だけ、応える」
わたくしは、焦げたパンの欠片をつまんだ。
「――機械は、嘘をつきませんから」
窓の外、満月が傾いている。
王城の最奥で、月光鏡は静かに国土を映し続けている。雪の村も、麦の畑も、誰かが水を汲む井戸も。
――そして明日から、またわたくしは、次の三十日を数えはじめる。
焦げたパンは、とてもおいしかった。




