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胎動

綺麗な魔法(チート)なんて、ハナから信じちゃいねえよ。

西の狂信騎士団、東の大帝国、利権に群がる有象無象の組織ども。

あいつらは生々しい大人の都合で、俺の街を焼き、俺の家族を縄で縛り、俺を邪神の眠る奈落の底へとハメ落とした。

死の底で手に入れたのは、おぞましい漆黒の菌糸を操る、世界で最も忌むべき『邪神』の力。

──反吐が出るほど大嫌いだわ、こんな力。

一流の戦士になって、真っ直ぐ旅に出たかった俺からすれば、最悪のバケモノに成り果てた自覚はある。

だけどよ、綺麗なプライドを守って家族が皆殺しになるくらいなら、俺は喜んでこの泥を啜ってやる。

魔法みたいにどこでも爆発する便利さはねえ。

俺の菌が、物理的に届く範囲だけが、俺の戦場だ。

よぉ外道ども。家族を傷つけたんだ……地べたを這いずり回るほどの地獄を見せてやる。

これは、世界中の全組織を敵に回した俺たちが、鉄壁のチームワークで全てをまとめてハメ殺すまでの物語。

「──おい、アルス。起きろ。朝の見回りの時間だぞ」

肩をぐいぐいと力強く揺すられて、俺──アルス・ウルスラは重い瞼を開けた。

目の前にいたのは、親父のヘンリーだ。いくつもの死線をくぐり抜けてきた傷だらけの手が、俺の寝癖のついた頭をごしごしと乱暴に、だけど愛おしそうに撫でる。

「……ん、あと五分。親父、まだ外が暗いよ」

「駄目だ。冬の山道は日の出前が一番危ない。怪物の足跡も、略奪を狙う異民族の影も、夜明け直前にしか見つからないからな。ほら、みんな待ってるぞ」

「分かったよ、起きるって……」

俺は大きなあくびをしながら、重い体をベッドから起こした。

こっそり木剣を握り締め、家族が寝静まった夜中に一人で特訓を始めてもう何年になるだろう。親父から教わった武術。本当は、いつかこの雪山の外へ出て一流の戦士として世界を旅するっていう夢がある。

だが、家族を置いていく気なんてサラサラない。だから、夢をここに縛り付ける代わりに、俺は毎晩、隠れて泥臭い特訓を重ねていた。そのおかげで、年中深刻な寝不足だ。

階下に降りると、すでに賑やかな声が暖炉の周りから響いていた。

「あ、アルス兄さん遅い! また夜遅くまで親父の戦術書読んでたんでしょ? はい、スープ。ちゃんと残しといてあげたんだから、冷めない内に早く食べなよ!」

元気よく器を差し出してきたのは、義妹のルーカス。罠の天才で口の悪いクソガキだ。

「戦術書じゃねえよ、ただの夜更かしだ。……あとルーカス、そのスープ、肉よりタマネギの方が多くねえか? 嫌がらせかよ」

「アルス、お前は僕みたいに物事を要領よくこなせるわけじゃないんだから、朝からしっかり頭を働かせろよ。ほら、今日の買い出しの帳簿だ。不備がないか確認しておけよ」

暖炉の側で羊皮紙を広げていたのは、義兄のジュリアス。

「お前も朝っぱらからインテリぶって嫌味言ってんじゃねえよジュリアス! その気取ったツラ、後でバザールで高い美味いもん奢らせるからな!」

「ガハハ! ジュリアス、朝からアルスをいじるな。ほらアルス、飯を食ったら街へ行くぞ。今日はお前が一番荷物を持てる優秀な衛兵だからな!」

俺の背中をパチンと叩いて豪快に笑うのは、義兄のガストン。かつて東方大帝国の将校だった親父の背中を見て育ち、身の丈ほどもある大斧を背負う、我が家の一番の力持ちだ。

「痛ぇなガストン! お前のその無駄なヒグマ並みの怪力を少しはセーブしろ! 背骨折れるわ!」

「もう、みんな朝からアルスをからかいすぎ。はいアルス、これ上着。外は冷えるからちゃんと着ね」

困ったように笑いながら、厚手の外套を優しくかけてくれたのは、義姉のサリア。

「サリア……お前だけがこの家で唯一の良心だわ……」

「お前ら、仲がいいのは結構だが、仕事は忘れるなよ」

親父のヘンリーが不器用な笑顔を見せる。

俺の口の悪さはいつものことなので、家族はみんな笑って受け流している。

厳しい雪山に囲まれたこのウシュグリの集落で、親父が戦場から拾い集めてくれた俺たちは、確かに、世界で一番幸せな家族だった。


◇

ウシュグリの活気あるバザール。

石造りの防衛塔が立ち並ぶ無骨な街並みの中、俺たちは親父の部下たちと合流し、パトロールを兼ねた買い出しをこなしていた。

俺は口は悪いが、街では人がいい、よく気のつく衛兵としてそこそこ有名だった。

「おう、アルス坊っちゃんにガストン! 今日も元気だねえ!」

「坊っちゃん、また夜中に木剣を振り回してたろ。顔が眠そうだぜ」

声をかけてきたのは、親父の古い部下であり、今は集落の見張りをしているボリスとシャリフの二人組だった。

「ボリスさん、シャリフさん、おはよう。昨夜の交代時の見回りはどうだった? 東方の国境側に不審な動きはなかったか?」

「いやあ、お陰様で今のところは静かなもんだ。アルス坊っちゃんが昨日警戒しろって言ってた北の谷筋も、シャリフと一緒に夜通し確認したが異常なしだ。本当に坊っちゃんはよく気がつく、いい領主になるぜ」

シャリフが白い歯を見せて笑い、ボリスが頼もしそうに頷く。

「ボリス、シャリフ、あんまりアルスを褒めるなよ。こいつすぐ調子に乗るからな」

ガストンがからかう。

「るせえよ大男。っつーか、俺は親父の後継ぎとしてこの街に骨を埋めるって決めてんだ。これくらい当然だろ」

俺がフンと鼻を鳴らして言い返すと、周りの部下たちや、広場のあちこちからさらに声が飛んできた。

「そうだぞガストン、アルス坊っちゃんをいじめるなよ! ほら坊っちゃん、今日も男前だね、この新鮮なリンゴ一個オマケだ!」

干し果物を商う露店の気のいい親父が、俺のポケットに赤いリンゴをねじ込んでくる。

「ありがとよ、おっちゃん。でも皮くらい剥いといてくれよな」

「あ、アルス坊っちゃん! こっちの冬用の外套、新しく仕立てといたから持っていきな!」

羊毛売りの小屋のミレーヌおばさんが、仕上がったばかりの温かい毛皮の衣服を嬉そうに手渡してくれる。

「ウルスラの若先生! こっちの新しい荷馬車の軸受け、また知恵を貸してくれよ!」

鍛冶場の青年たちも、通りすがりにおれの肩を叩いていく。

一見すると粗野でぶっきらぼうだけど、頼まれたら絶対に断らない。そんな俺の性格を、街の奴らはみんな知っている。

だが、そんな活気あるバザールの一角で、大国の高価な絹織物を扱う肥満体の交易商人、バザロフが、俺たちをねめつけるように鼻で笑った。

「おい、土民のクソガキ。お前たちの間抜けな親父が、東方の大国の帳簿をいつまでも誤魔化せると思うなよ。この土地がいつまでも平和な『軍事緩衝地』のままでいられるわけがないだろうが」

「ああん? 手前、今なんつったバザロフ。親父のことをもう一回でも愚弄してみろ、その醜いツラをバザールの肥溜めに叩き落としてやるぞ」

俺が胸ぐらを掴みかけ、ガストンが大斧の柄を鳴らすと、バザロフは下卑た笑みを浮かべてすっと視線を逸らした。この時、こいつがすでに大国に村の情報を売り渡していたことなど、俺たちは知る由もなかった。

その帰り道。ふと、路地裏の冷たい石畳の上で、泥に塗れて震えている幼い子供の影が目に入った。東方の遊牧民の血を引く、小さな子供だ。顔が特徴的なのですぐわかった。この境界の土地では、そうした異民族の子供は宗教や偏見のせいで物乞いをするしかない。

俺たちだって、親父に拾われて生まれはバラバラだ。だけどここでは本物の家族になれた。なのに、この世界の理不尽は、ただの子供にすら牙を剥く。

俺は歩みを止め、子供の前に立った。

黙ったまま、子供の冷え切った小さな頭を、優しく、ゆっくりと撫でる。子供が怯えたように身体をすくめる。

俺は何も言わず、自分の懐から、さっき買ったばかりの温かい黒パンを引っ張り出した。そして、それを黙って子供の手の中に握らせる。これでお前が今日一日、飢えずに済むように。

「もう、アルス兄さんってば。いつもそうやって黙って世話焼くんだから。本当は外の世界に旅に出たいくせに、この街のために残るって決めて、夜中に一人で特訓までしてさ。お節介がすぎるんだよ」

ルーカスがニヤニヤしながら、俺の脇腹を小突いてくる。

「っ、テメェ、なんでそれ……!?」

「バレバレんだよ。木剣の音が夜中に響いてるっての」

ガストンが俺の頭をくしゃくしゃに撫でる。

サリアも、ジュリアスも、後ろで本当に温かい目を俺に向けていた。全部知った上で、こいつらは俺を家族として愛してくれている。

そんな幸せな日常が、ずっと続くのだと、誰もが信じていた。


◇

だが、夕方、集落に戻った俺たちの前に広がっていたのは──言葉を失うほどの絶望だった。

「……な、んだよ……これ……」

ウシュグリの集落は、色んな国々の軍隊、何千という大軍隊によって完全に包囲されていた。国境を挟んで長年睨み合っていた大国たちが、この村を根こそぎ消し去るために一時的に手を取り合い、この軍勢を差し向けてきたのだ。

親父の部下たちは──さっきまで俺たちと笑い合っていたボリスやシャリフ、おばさんたちも含め、全員が息絶えて地面を血に染めていた。放置された死体や燃え上がる家々から、生々しい硝煙と血の臭いが風に乗って漂ってくる。

何千もの兵士たちが整然と並び、鉄の槍を突きつけ、ハンドカノンや巨大な投石器がウシュグリの塔を冷酷に睨んでいる。ただの衛兵でしかない俺や、縛られた家族の肌に、その圧倒的な大軍の質量がもたらす本能的な恐怖と戦慄が、容赦なく突き刺さってきた。サリアもルーカスも、身体の震えを抑えられずにいた。

その後方、親父のヘンリーも、サリアも、ジュリアスも、ガストンも、ルーカスも──全員が固く縄で縛られ、無数の槍頭を突きつけられて地面に膝を突かされていた。

「おいおい、見ろよ。これが境界のゴミ屑どもの無様なツラだ」

金で雇われた残虐な傭兵隊長・ディートリヒが、サリアの髪を乱暴に掴み上げて嘲笑した。

「神聖なるほうが届かぬ、東方の泥に染まった穢れた教会の蛮族どもが。これ以上我らの利権を汚すな」

「やめろ……ッ!!」

ガストンが縛られた体で体当たりしようとするが、すかさず東方大帝国の冷酷な将校・ボルマンが、鉄の軍靴でガストンの顔面を無慈悲に踏みつけた。ぐいぎゅりと生々しい音がしてガストンの鼻から血が噴き出す。

「大人しくしろ、帝国の裏切り者の家畜ども。魂を売った貴様らの命など、最初から一銭の価値もないのだ」

その横では、さっきバザールで俺たちを嘲笑った交易商人バザロフが、ディートリヒたちに揉み手をしながら、ウルスラ家の帳簿を差し出していた。

「へへ、傭兵隊長様、将校様。これがこの村の防衛網と隠し財産のすべてでございます。私のような大国に忠実な商人は、土民どもとは格が違いますからな。……おい、アルスのクソガキ。お前の親父も、家族も、ここで全員首を撥ねられて終わりだ。これが大国の都合ってやつだよ、ガハハ!」

バザロフは冷たい目で言い放ち、さっきまで俺たちと笑い合っていたシャリフの死体(したい)を、邪魔だと言わんばかりに渓谷の崖下へと蹴り落とした。

縄目を食い込ませ、槍を突きつけられた家族たちの口から、生々しい無念と覚悟が血混じりの言葉となって溢れ出る。

「クソ野郎どもが……! 俺たちのウシュグリを、よくもめちゃくちゃにしてくれたな……!」

顔を土に塗みれさせたガストンが、牙を剥いて唸るように吼えた。

「アルス……頼むから、僕たちのことはいい、逃げてくれ……! 君だけでも生き延びて、いつか……!」

ジュリアスが、冷静さを失った悲痛な声で、必死に俺をこの場から遠ざけようと叫ぶ。

「嫌、アルス兄さん! 来ちゃダメ! こいつら本当に狂ってる……っ!」

ルーカスが涙を堪えながら、喉を引き裂くように悲鳴を上げた。

「アルス……サリア、怖くないよ。だから……だからあなただけでも……ッ!!」

サリアはディートリヒに髪を引っ張られ、苦痛に顔を歪めながらも、俺を巻き込むまいと必死に元気を取り繕うとして、声を震わせた。

親父のヘンリーが、血塗れの顔を上げて俺を見た。その目が「逃げろ」と激しく訴えかけていた。だが、背後にはすでに数千の軍勢。逃げ場など一歩もなかった。

胸の奥から、煮えたぎるような怒りが爆発する。家族を、俺の居場所を、こんな理不尽に踏みにじった外道どもを──俺は断固として許さない。

「おい……やってやるよ。てめえら全員、タダで死ねると思うなよ……!」

長年この集落を守り続けてきた衛兵としての意地が、死を前にしてもなお俺の身体を前に進めようとした。だが──。

「私の名前はアルシャーリでございます。おぉぉ!その顔やめてぇそんなお顔見たら僕と結婚しろって言ってるのかな❔僕のお嫁さんにしてやるよ雌豚がぁ!」

軍勢の最前線から、手下の魔術師たちを何人も引き連れて歩み出てきたのは、悪名高き魔術師アルシャーリだった。その目は完全に狂気に染まり、激しく顔を歪めながら、唾を飛ばして狂ったうわ言を絶叫している。

アルシャーリは地面に転がるヘンリーの前に歩み寄り、狂った笑い声を響かせた。

「軍勢がここを攻めるって聞いた時にね、私は思ったのさあ! 地底に眠る邪神の力を手に入れられるチャンスだってね! だから自ら進んで先鋒を引き受けてやったんだよ!! お前たちの先祖がこの地の底に隠した邪神……! その血筋のクソガキを生贄として大穴へ叩き落せば、封印は私の魔力でいくらでも書き換えられる!!」

魔術師アルシャーリが容赦なく杖を振るった。強烈な衝撃波が、胸を正面から直撃した。

「ガはっ……っ!?」

肺の空気がすべて引き裂かれ、内臓が破裂する生々しい感覚。視界が真っ赤に染まる。地面を転がった俺の体を、魔術師はゴミを片付けるように、淡々と集落のはずれにある暗黒の奈落──邪神の封印地へと蹴り飛ばした。

「アルスーーーッ!!」

きょうだいたちの、喉を掻きむしるような絶望の悲鳴。

俺の体は、大地の底にぽっかりと開いた、巨大な大穴の闇へとまっ逆さまに落とされた。


◇

崖の下。冷たい石の床。

俺の胸は大きく陥没し、呼吸はとうに止まりかけていた。

そこは、古びた煉瓦が果てしなく積み上げられた、巨大な迷宮のようなダンジョンだった。崩れかけた壁の隙間からはびっしりと分厚い苔が這い回り、見たこともない奇妙な植物が天井から垂れ下がっている。半分は崩落した遺跡、半分は湿った廃墟のような、果てしない大穴の底──邪神の封印地。

上空から、狂ったうわ言を叫びながら魔術師アルシャーリが静かに降り立ってきた。

「さあ目覚めろ!私の雌豚になれぇ!邪神…私の力としてその力を振るうのだ‼︎」

だが、その浅ましい計算は、この地に眠る怪異の前に一瞬で瓦解した。

「な、んだこれ……!? 邪神の魔力があ、制御できん……!? 暴走している! 待て、私の魔力に従え! 従えと言っているだろう!!」

魔術師の顔が、恐怖で生々しく歪んだ。

煉瓦の床の隙間から噴き出したのは、おぞましい漆黒の『菌糸』と蠢く『黒カビ』の濁流だった。アルシャーリは悲鳴を上げて逃げようとしたが、物理的な肉体を持つ菌糸の触手が、彼の両足を容赦なく捉えた。

「ぎ、あ、あああああああッ!! 私の、力がぁああっ!!」

アルシャーリは必死に杖を振り回し、狂ったように叫びながら光を放とうとしたが、無数の菌糸は彼の衣服を引き裂き、皮膚を食い破って容赦なく肉体の内側へと侵入していく。

「やめろ、嫌だ、私の魔力が、肉体が、溶ける、溶けるぅうああ浅はかあああッ!!」

骨が軋み、人間の肉体が内側からドロドロに腐食・分解されていく生々しい絶叫が、ダンジョン全体に何重にも反響する。アルシャーリの目は恐怖で裏返り、血の泡を吹きながら、わずか数秒の間に衣服の燃え残りだけを残して、跡形もなく完全に消滅した。手下の魔術師たちも、そのあまりに凄惨な最期を目の当たりにし、悲鳴を上げながら奈落の闇の奥へと逃げ去ろうとしたが、遺跡の壁伝いに超高速で増殖した黒い触手網に次々と捕らえられた。

「助けてくれ! 身体からカビが、ぎゃあああああ!!」

手下の魔術師たちも、逃げる間もなく全身の穴という穴から黒いカビを噴き出し、内臓を腐らせながら次々と肉の塊へと分解され、全滅していった。

静寂が戻った暗闇の中。

俺は壊れた人形のように煉瓦の床に横たわり、溢れ出る血の泡で溺れかけていた。耳の奥で、自分の心臓が消え入りそうな音を立てている。

もう、駄目だ。親父、みんな……。

その時、しんとした静寂を破って、ペタ、ペタ、と濡れた何かが歩く音が聞こえた。

苔むした煉瓦の影からトコトコと現れたのは──おとぎ話の絵本に出てくるようなキノコの姿をした、奇妙で不気味なバケモノだった。

丸く膨らんだ漆黒の傘の下から、人間の幼い子供のような細い足が2本、ちょこんと生えて歩いている。だが、その輪郭はジクジクと蠢く無数の黒い菌糸だけで形成されており、歩くたびに微かに煙のような黒い胞子をパウダー状に散らしていた。見た目こそ絵本のようだが、生き物としての本能が全力で拒絶するような、底知れない不気味さとゾッとするほどの寒気を放っている。そのキノコは、死にかけの俺の顔のすぐ横まで歩み寄ってくると、どこまでも優しく、丁寧に語りかけてきた。

『はじめまして。私は、大昔にこの奥に封印された『邪神』と申します。……おやおや、とても酷い有様ですね。大丈夫ですか?』

妙に高くて、鈴が鳴るような声。

耳元で囁かれる言葉はとても穏やかで、敬語の丁寧な口調。だからこそ、その裏にある底知れない異質さに、魂がガタガタと震える。

「な、んだよ……その姿……。近寄るな、クソ化物……っ!」

普通の人間なら狂いそうになる圧倒的な威圧感。俺は恐怖と強烈な嫌悪感で息を詰まらせ、ボロボロの身体を必死に後ろへ引きずろうとした。だが、指先一つ動かない。ただ、血を吐いて這いつくばることしかできない。

キノコの姿をした邪神は、俺の顔をじっと覗き込みながら、静かに、優しく首を傾げた。

『本当に可哀想に。心から同情いたしますよ。あなたの心臓はあと数分で完全に止まってしまいますし、上の大軍勢は、あなたの大切なご家族を今すぐ全員処刑してしまうでしょう。……さて、アルスさん。あなたなら、この状況をどうされるおつもりですか?』

どこまでも親切そうに、だが冷徹に現状を提示してくる化物。

「何が……どうするだ……! 訳の分からねえこと言ってんじゃねえよ……っ!」

『言葉通りですよ。君のような衛兵の腕前では、あの何千もの軍隊を相手に、今の壊れた身体でどうやってご家族を助けるのですか? ……もちろん、不可能なのは分かっていますよね。逃げ場なんてどこにもありませんから』

「がはっ……、うる、せえ……ッ!」

『ですが、諦めるのはまだ早いですよ。実は私があなたの身体に寄生すれば、その絶望をすべて突破できるだけの強い力を、あなたに差し上げることができるのです。……さあ、私と契約を結びませんか?』

静かの敬語のまま、有無を言わせぬ絶対的な条件を突きつけてくる。

『お分かりですか? あなたにはもう、ボクを受け入れるしか道は残されていないのですよ。配置された数千の兵を前に、君がボクを拒絶してここで死ねば、上の方々も全員死にます。ほら、本当に追い詰められてしまいましたね』

(クソが……! なんで俺が、こんなわけのわからないバケモノに命を握られてんだよ……!)

激しい怒りと、おぞましい力への拒絶感。

本当は、こんな不気味な力なんて絶対に借りたくなかった。親父に教わった武術を必死に磨いて、いつか自分の力だけで世界を旅する、一流の戦士になりたかった。こんな化物の力を借りるなんて、死んでも御免だ。

だが、邪神はさらに深く顔を近づけ、静かに、どこまでも丁寧に目的を明かした。

『ちなみにですが、私があなたを助けるのは、優しさなどではありませんよ。私の目標である【完全復活】を、あなたに手伝っていただきたいからです。私が外に出て、再び完全な神に戻るのを手伝ってくださるのなら、ご家族は今すぐ助けて差し上げましょう。……さあ、どうされますか?』

胸を引き裂くような罪悪感を、俺はただ彼らを救うための頑なな「覚悟」の裏に強引にねじ伏せた。ここで綺麗に死ぬくらいなら、邪神の奴隷にでも、完全復活の手伝いでも何でもやってやる。勝つために、アイツらを救い出すために、俺は迷わず覚醒を選んだ。

「……動けるなら……全部、持ってけ……! お前の復活でも何でも……手伝ってやるよ……! その代わり、アイツらを、全員助けさせろ……!!」

アルスの悲痛な叫びに、キノコの邪神が満足そうに、静かに身体を揺らした。

その瞬間、俺の全身の血管を漆黒の菌糸が超高速で駆け巡り、破裂したはずの心臓を物理的に無理やり縫い合わせる。

だが、そこから現れたのは醜い化物の姿ではなかった。

幾重にも織り重なった強靭な漆黒の菌糸が、鋼のように硬い繊維の束となってアルスの肉体を包み込み、夜の闇を纏ったかのような美しい大外套(ローブ)を形成していく。その内側には、腐食のカビ紋様が鈍い黒光りを放ちながら静かに流れる、洗練された頑強な漆黒の鋼甲冑が編み上げられていった。血の滲むような赤く発光する片目が、外套の奥の暗闇から圧倒的な威圧感と格好よさを放ちながら、最悪のダークヒーローとしての変異を遂げていった。


◇

崖の上。

「ガハハ! いい泣き声だ、もっと啼け異端の雌豚が!」

西の傭兵隊長ディートリヒがサリアの顔のすぐ横で、冷酷に剣をギラつかせて下劣に笑った。

「──っ、アルスは、死なない……! あんたたちみたいな外道、あいつが絶対に……絶対にただじゃおかないんだから……ッ!」

サリアは涙と血を流しながら、刃に怯むことなく、喉を引き裂くように叫んでディートリヒを烈火の如く睨み据えた。

「──おい、さっさとその敗残兵どもの首を撥ねろ。アルシャーリ様がお戻りになる前に片付けるぞ」

東方大帝国の将校ボルマンも冷たく命令を下す。

「ひいぃっ! 命だけは、命だけはお助けをぉ!!」

その横では、用済みとなってディートリヒたちに突き飛ばされた交易商人バザロフが、無様に這いつくばって命乞いをしていた。ボルマンは一瞥すらくれず、ヘンリーたちの首筋に、冷たい刃がピタリと押し当てられた。誰もが死を覚悟した、その瞬間だった。

ドゴォォォォンッ!!!

大穴の底から、漆黒の巨大な菌糸の触手が、地響きを立てて噴き上がった。

大気を埋め尽くすような黒い胞子の暴風が吹き荒れ、周囲の兵士たちをなぎ倒す。その中心から、漆黒の美しい鎧と外套を纏った姿で這い上がってきたのは──アルスだった。

「ア, ルス……? お前、その姿は──」

縄に縛られたジュリアスが、驚愕で声を震わせる。

アルスは赤く発光する目で敵を睨みつけ、骨の髄まで響くような声で吼えた。

「よぉ外道ども。家族を傷つけたんだ……地べたを這いずり回るほどの地獄を見せてやる」

「な、んだあの化物め! 構わん、総員攻撃! 叩き潰せ!」

ディートリヒとボルマンの怒号と共に、大軍勢が一斉に動き出す。

生き残りの魔術師部隊が怪しげな詠唱を始め、ハンドカノンを構えた兵士たちと、爆薬を大量に積んだ重装騎兵が突撃してくる。さらに後方の投石器が凄まじい音を立てて、巨大な岩石を次々と投げつけてきた。

空を覆うほどの巨石が、猛烈な速度で迫る。

(こんな最悪のバケモノの力……! 誰が喜んで使うかよ……ッ!)

おぞましい力を使ってしまっている自分への激しい罪悪感を衛兵としての覚悟の裏にねじ伏せ、アルスは胞子の嵐を前方へと放った。

空から降ってきた巨大な岩石に胞子が触れた瞬間、岩は見る間に黒くカビ付き、ボロボロに腐食して空中で粉々に砕け散った。それだけではない。容赦なく降り注ぐ胞子の雨は、突撃してくる重装騎兵たちの鎧や、兵士たちのハンドカノンや杖を瞬時に赤黒く錆び付かせ、ボロボロに分解していく。

敵の攻撃は次々と無力化され、大爆発を起こすはずだった爆薬の導火線も、黒いカビに侵食されて一瞬で湿り、ただの鉄の塊へと変わっていった。

「な、何が起きて──ぎゃあああああああッ!!」

先頭で叫んだ東方大帝国の将校ボルマンの黒い甲冑が、一瞬で赤黒い錆の塊へと変わり、その隙間から噴き出した極彩色のキノコが彼の肉体を内側から食い破った。ボルマンは白目を剥き、自分の喉を掻きむしりながら血を吐いて絶命した。

「化物め! 私が、高貴なる傭兵隊長がこのようなカビごときにぃいいッ!!」

激昂して剣を振りかざしたディートリヒだったが、その自慢の鋼の剣はアルスの放った胞子に触れた瞬間にボロボロのクズ鉄へと分解され、風に解けた。恐怖に顔を歪めたディートリヒの全身の鎧の隙間から一斉にカビの触手が噴き出し、彼は絶叫を上げる間もなく、生きたまま巨大なキノコの塊へと変貌して物言わぬ肉の標本に変わった。

「うわああああっ! 来るな、来るなぁあああ!!」

腰を抜かして逃げ惑う裏切り者バザロフの足元から、黒い菌糸が津波のように襲いかかる。衣服を侵食し、彼の肥満した身体を締め上げると、バザロフの皮膚が一瞬にして黒くカビ付き、悲鳴を上げる暇もなく骨ごとドロドロの汚水へと分解・腐食され、跡形もなく消滅した。

敵の指揮官も、魔術師も、ハンドカノン兵も、爆薬を積んだ騎兵も、アルスの圧倒的な黒い菌糸の網に絡め取られ、ただの悲鳴と血の海の中に完全に壊滅していった。

目の前の敵が一瞬で大混乱に陥ったその隙。

アルスの身体から伸びた鋭い菌糸が、ヘンリー、サリア、ジュリアス、ガストン、ルーカスの縄を一瞬で切り裂き、すべて解放した。

傷ついた彼らの肉体に黒い菌が這い回り、傷口を優しく塞いでいく。

「みんな、動けるか! 敵の本隊が来る前に、ここは一旦退くぞ!」

漆黒の外套をなびかせ、誰よりも頼もしい声で叫ぶアルス。

まだ何千という敵の包囲網が遠巻いている。全員を抱え、アルスは黒い菌糸の触手を崖に引っ掛け、驚異的な肉体再生を繰り返しながら、家族と共に燃え盛る集落から音もなく闇へと駆け抜け、逃げ延びた。

世界中の全組織を敵に回した、クレイジーなダークヒーローの戦いが、今ここに幕を開けた。

第1話をお読みいただき、本当にありがとうございました!

ついに世界を侵食するダークヒーローとして覚醒したアルスですが、本作は「足を引っ張らない、完璧なチームワーク」をモットーにお送りします。味方同士のイライラする不和や、過去回想によるダレ場は一切挟みません!

邪神の力は「届かない場所には1ミリも及ばない」という絶対的な物理ルール。だからこそ、アルスが持ち前の頭脳と特訓してきた武術を活かし、手段を選ばない狂った物理戦術で世界中の最強組織をハメ殺していきます。

次回、集落を脱出したアルスたち家族の鉄壁の逃亡劇が始まります。

脳内に居座る、丁寧でどこまでも不気味な「キノコの邪神」とのクレイジーな掛け合いもお楽しみに!

もし「面白い!」「アルスの男気にシビれた!」「続きが気になる!」と思ってくださったら、ページ下部からの【ブックマーク登録】や【ポイント評価(☆☆☆☆☆を★★★★★に!)】で応援していただけると、執筆の凄まじい励みになります! よろしくお願いします!

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