空へと続く坂道で、もう一度羽ばたく君へ
二十四歳。
世間一般の定規で測れば、それはもう立派な「大人」であり、地に足を着けて現実的な未来を歩み始めるべき年齢だ。
「新海さん、この資料、今日の午後までにまとめといてくれる?」
「はい、承知いたしました」
新海詩織は、オフィスのデスクでパソコンの画面に向かいながら、無機質なキーボードのタイピング音を響かせていた。単調な事務作業。決められた時間に始まり、決められた時間に終わる毎日。安定していて、誰からも後ろ指を指されない、いかにも「正しい」生活。
けれど、時折スマートフォンを開くたび、SNSのタイムラインに流れてくるオーディションの広告が、詩織の胸の奥をチクリと刺した。
『年齢制限なし! 新規アイドルグループ・オーディション開催』
きらきらと輝くステージ。スポットライト。満員の観客の熱気。
詩織は、画面に映るその眩しい世界から逃げるように、慌ててスマートフォンの電源を落とした。
――もう、二十四歳なんだから。
それは、詩織がこの数年間、自分自身に言い聞かせてきた魔法の、あるいは呪いの言葉だった。
幼い頃から、歌って踊ることが何よりも好きだった。高校時代はダンス部に所属し、地元の小さなステージでアイドルとして活動したこともある。観客の笑顔を見た瞬間の、あの全身の血が沸き立つような高揚感は、今でも細胞の隅々にまで焼き付いている。
けれど、現実は甘くなかった。何度か都内の大きなオーディションを受けるも、結果は落選。周りの友人たちが次々と就職を決めていく中、「いつまでも夢みたいなことを言ってられない」と、詩織は自らその夢を心の奥底にある頑丈な箱にしまい込み、厳重に鍵をかけたのだ。
二十四歳からアイドルを目指すなんて、きっと周りから笑われる。痛い人だと思われる。
今の私には、安定した仕事もあるし、何より、私のすべてを受け入れてくれる優しい恋人がいる。これ以上、何を望むというのだろう。
「……詩織ってさ、本当に今のままでいいの?」
休日のカフェ。向かいの席でカフェラテを飲んでいた学生時代からの親友・結衣が、ふいにそんなことを口にした。
「今のままって?」
「だから、アイドルのこと。最近また、オーディション番組とか食い入るように見てるじゃん。本当は、まだ諦めきれてないんでしょ?」
図星を突かれ、詩織は言葉に詰まった。
「……そんなことないよ。ただ、見るのが好きなだけ。私なんかが今から目指したって、若い子たちに敵うわけないし。もう二十四だよ?」
「年齢なんて記号でしょ。私が知ってる詩織は、ステージの上で誰よりも輝いてたよ。勝手に自分で限界決めて、言い訳してるだけに見える」
結衣の言葉は真っ直ぐで、だからこそ痛かった。
詩織は誤魔化すように笑い、冷めたコーヒーを飲み干した。分かっている。言い訳をしているのは自分だ。傷つくのが怖くて、現実という安全な毛布にくるまって、挑戦しない理由ばかりを探しているのだ。
その日の夕方。
詩織は、恋人の拓海と待ち合わせをしていた。彼は同い年で、詩織がアイドルを夢見て足掻いていた頃からずっとそばで支えてくれた人だ。
澄み切った冬の終わりの空に向かって、長く緩やかな坂道が続いている。
二人で並んで歩きながら、拓海はふと、ポケットから一枚の折りたたまれたチラシを取り出した。
「これ、詩織の部屋のゴミ箱に捨ててあったの、勝手に拾っちゃったんだけど」
それを見て、詩織は息を呑んだ。
それは、先日ネットで見つけた、あの年齢不問のアイドルオーディションの募集要項をプリントアウトしたものだった。一度は受けてみようと印刷したものの、結局勇気が出ずにくしゃくしゃに丸めて捨てたものだ。
「……勝手に見ないでよ。ただのゴミだから」
詩織が奪い取ろうとすると、拓海はその手をスッと避け、真剣な眼差しで詩織を見つめた。
「詩織。オーディション、受けなよ」
「だから、無理だってば! 私が今からアイドルになれるわけないじゃない。それに……」
詩織は俯き、ぎゅっとコートの裾を握りしめた。
「それに、もし本当に受かったら、恋愛なんて禁止になる。拓海と一緒にいられなくなるんだよ? 私は、拓海との今の穏やかな生活を壊したくないの」
それは本心だった。夢を追いかけてすべてを失うのが怖かった。
坂道の途中で、冷たく乾いた風が吹き抜ける。
拓海は、詩織の両肩を優しく、けれど力強く掴んだ。
「詩織。俺はね、君のことが大好きだよ。でも……ステージの上で、誰よりも夢中になって、熱く生きている君の瞳が、一番好きだったんだ」
拓海の言葉が、詩織の胸の奥で、厳重に鍵をかけていたあの箱を静かに叩いた。
「俺と一緒にいる時の詩織は、どこか息苦しそうだ。本当は羽ばたきたいのに、俺という存在や『年齢』っていう鎖で、無理やり自分を地面に縛り付けてる。そんなの、俺は嬉しくない」
「拓海……」
「夢を、諦めないでほしい。周りがどう言うかとか、何歳だとか関係ない。君が後悔しないように、君らしく一番輝ける場所で生きてほしいんだよ」
詩織の目から、せき止めていた感情が涙となってボロボロと溢れ出した。
本当は、歌いたかった。踊りたかった。あの眩しい光の真ん中に立ちたかった。誰かに「まだ遅くない」と、背中を押してほしかったのだ。
「でも、苦しいよ……。もし失敗したら、もし誰にも見向きもされなかったら……。それに、拓海と離れるなんて、痛くて寂しくて……」
泣きじゃくる詩織の頭を、拓海は優しく撫でた。
「新しい道を選ぶんだから、苦しいことや躓くことも絶対にある。でも、詩織なら絶対に上手に越えていける。これまでの悔しさも、全部君の強さに変わるから」
彼は少しだけ寂しそうに、でもこれ以上ないほど温かい笑顔を向けた。
「俺の心配なんて、ずっとしなくていい。俺は俺で、自分に似た誰かとちゃんと幸せになるからさ。だから……後ろを振り返らないで、思い切り飛んでこいよ。誰よりも遠い場所から、君が輝くのをずっと信じてるから」
それは、最大の愛を込めた「さよなら」であり、詩織の背中に翼を授けるための言葉だった。
私を愛し、私の夢を誰よりも信じてくれた彼が、自分の身を切ってまで私の背中を押してくれている。
その深い愛情と痛みが、詩織の心に分厚く張っていた氷を完全に溶かした。
選ばなかった道に対する切なく残る痛みは、きっとこれから先、何度も何度も押し寄せてくるだろう。けれど、ステージで輝くために流す汗と涙が、繰り返すたびにその痛みを薄れさせ、やがて確かな光へと変えてくれるはずだ。
「……うん。私、やってみる」
詩織は涙を乱暴に拭い、真っ直ぐに拓海を見上げた。その瞳には、かつての熱く燃えるような光がはっきりと宿っていた。
「私、諦めない。絶対にアイドルになって、一番輝くから」
「ああ。楽しみにしてる」
澄み切った空へと続く坂道の途中で、二人は別れた。
詩織が振り返ると、坂を下っていく拓海の後ろ姿が少しずつ小さくなっていく。
優しい言葉は探せなかった。ただ、冷えた両手を口元に当て、小さくなっていく彼に向かって、心の中で何度も「ありがとう」と手を振り続けた。
二十四歳。
遅すぎるスタートなんてない。ここからが、私の本当の始まりだ。
***
今、スマートフォンを見つめながら、自分の年齢や周りの目を気にして、本当の夢に蓋をしてしまっているあなたへ。
「もう大人だから」「今さら恥ずかしいから」と、自分で自分に呪いをかけていませんか?
あなたの心の奥底で燻っているその熱は、蓋をして消えるようなものではないはずです。安定や常識という言葉に逃げ込んで、熱く生きる自分の瞳を曇らせないでください。
夢に向かって踏み出す時、何かを手放す痛みや、躓く苦しさは必ず伴います。
けれど、あなたが自分らしく輝こうと足掻くその姿は、絶対に誰かの心を打ちます。あなたが選ぶすべての険しい道を、あなたの勇気を、見えない場所から信じている人が必ずいます。
だから、どうかあなたの夢を、諦めないで。
負けないように、悔やまぬように。あなたらしく、ステージの上で咲き誇るその日を、待っています。




