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第89話:綻びの観測



王立魔術監視院の朝は、静寂という名の膜に覆われている。


高い窓から差し込む光は、磨き上げられた石床に鋭い矩形を並べ、浮遊する細かな埃すらも管理されているかのように一定の速度で漂っていた。


室内には、羊皮紙をめくる音と、硬いペン先が記録を刻む音だけが規則正しく響いている。


監視院第一調査室。


そこは世界の「脆さ」を数値化し、王立の重厚な魔術によって綻びを補強し続ける、王国の防波堤だった。


「……不可解だな」


低く、冷徹な声が落ちる。


声を漏らしたのは、調査室の筆頭官である初老の男だ。


その傍らに、副官として控えている青年がいた。


次男、イグノス・ヴァレリウス。


整った身なりに、一点の曇りもない眼鏡。


彼は父や長兄と同じく、ヴァレリウス家の「正しさ」を体現したような佇まいで、上司の指し示す資料を覗き込んだ。


「イグノス。西門ギルドの管轄エリア、この数値の動きをどう見る」


イグノスは無言で眼鏡を指で押し上げ、卓上に広げられた魔力変動の統計表を注視した。


情報の輪郭が、不自然なほどに透き通っている。


本来、現場じっちとは混沌の集積体だ。


魔物の気まぐれ、採取者の未熟、大気の揺らぎ。


それらが重なり合って生まれる「淀み」を管理するのが、自分たちの職務である。


だが、この数週間の西門エリアには、その淀みが存在しない。


「魔物接触率、二段階低下。負傷者数、ほぼ皆無。薬草の品質維持率に至っては、理論上の最高値を維持し続けています」


イグノスは淡々と事実を述べた。


「力による掃討の形跡はありません。騎士団の出動記録も、上位魔導師の介入もなし。にもかかわらず、まるで最初からそこに歪みがなかったかのように、世界が『均されて』いる。これは統計のバグではありません。……意図的な書き換えです」


「左様。何者かが、我々の『重ねる管理』の外側で、勝手に綻びを繕っているということだ」


筆頭官は重々しく椅子を鳴らして立ち上がった。


「管理されない秩序は、混沌よりも恐ろしい。イグノス、実地調査の準備を。ギルドへ向かうぞ。付き添え」


「承知いたしました」


イグノスは短く答え、手元の書類を揃えた。


筆跡。理論の癖。


イグノスの胸の奥に、ある微かな予感が芽生えていた。


王立の式を否定し、一瞬の均衡に執着していた、あの出来損ないの弟。


だが、魔力量わずか「F」の三男に、これほど広範囲の事象を統御できるはずがない。


(……思い上がりだな。アルノーにそんな芸当ができるはずがない)


自分に言い聞かせるように、イグノスは思考を切り捨てた。


だが、その視線の先にある統計表の数字は、かつて実家の書庫で見た、あの歪なまでに整った円を連想させて止まなかった。


「綻びは、王家が正しく重ねることで塞ぐもの。勝手な修正は許されない」


イグノスは外套を羽織り、上司の後ろに従った。


向かうは、冒険者ギルド。


そこにあるはずの「歪な美しさ」の正体を暴くために、彼は静かに一歩を踏み出した。

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