第58話:世界を覗くもの
工房の空気は静かだった。
旧い魔法陣の石板が机の上に置かれている。
円の一部が欠け、補助線が歪んでいる。
「やってみろ。」
アルディウスが言う。
アルノーは白墨を手に取る。
線を引き直す。
均等が取るため、補助符号の角度を揃える。
魔力を流す。
淡い光。
小さな火花が安定する。
アルディウスは腕を組む。
「魔力量は少ないな。」
唐突に言う。
アルノーは頷く。
「はい。」
「だが発動は安定している。」
老研究員は石板を覗き込む。
「基礎理論を知っている。」
「基本式の重ね方も正確だ。」
視線が鋭くなる。
「師はいるか。」
少しの沈黙。
「家庭教師に習いました。」
「名は。」
「……」
一瞬迷うが、答える。
「ヴェルド」
アルディウスは眉をひそめる。
「聞いたことがない。」
王立研究員だった男が知らない。
それは奇妙だ。
だがアルディウスは続ける。
「良い師に巡り合ったな。」
それだけ言う。
アルノーは少し安堵する。
「魔力量が少ない者は、普通は陣式を重ねる。」
「だが君は均等を取り、美しくさえしようとしている。」
老研究員は石板を叩く。
「ここを削り、ここを薄くし、そして、線を足すことで、干渉を避けている。」
「ギリギリを攻めているな。」
アルノーは首を傾げる。
「余分が気持ち悪いのです。」
アルディウスが笑う。
「気持ち悪い、か。」
石板を持ち上げる。
「君は基礎理論で魔力を補っている。」
「無駄な線を削り、必要な線を足し、消費を減らす。」
「魔力量が少ないからこそ、基礎理論を極限まで使っている。」
その言葉に、アルノーは静かに頷く。
魔力は少ない。
だが。
削れば、使える。
老研究員はふと呟く。
「王立学園は“積む”教育だ。」
「重ね、足し、補う。」
「だが君は違う。」
アルノーは石板の円を見る。
必要な部分を観測し、均等を取ることで美しさを求める。
アルディウスは言う。
「だが気をつけろ。」
「ギリギリは崩れやすい。」
「少しの歪みで壊れる。」
その言葉は、どこか重い。
「師は本当にヴェルドか?」
「はい。」
アルディウスは小さく頷く。
「覚えておこう。」
だが目は何かを測っている。
工房の奥で、亜人の少女が静かにこちらを見ている。
警戒ではない。
観察だ。
アルノーは再び石板に向き合う。
均等を取り、美しさを求める。
静かに。
光が安定する。
魔力量が少なくても。
美しさは作れる。
アルディウスは低く言う。
「君は、魔力ではなく構造で戦うのだな。」
アルノーは答える。
「私にはその方法でしか世界を覗けません。」
工房の空気が、少しだけ柔らぐ。
外では、旧区の風が石を撫でていた。




