第36話:家の形
翌朝、屋敷はいつもより静かだった。
昨夜の騒ぎが嘘のように、空気は整っている。
アルノーは廊下を歩きながら、ふと足を止めた。
普段は閉じられている扉が、わずかに開いている。
執務室だった。
中から低い声が聞こえる。
父の声だ。
「被害はないのだな。」
「はい。結界に触れただけで、森へ戻りました。」
使用人が答える。
短いやり取りのあと、沈黙が落ちた。
アルノーが立ち去ろうとしたとき。
「アルノーか。」
扉の向こうから声がした。
気づかれていたらしい。
逃げる理由もない。
「入れ。」
重くも、鋭くもない声だった。
執務室は無駄が少ない。
整いすぎているとも言える。
父は机の向こうに座り、書類から視線を上げた。
アルノーを見る。
ただ、それだけ。
評価も、失望もない。
「昨夜、外に出たそうだな。」
「先生と共に。」
父は小さく頷く。
ヴェルドの存在は、すでに報告されているのだろう。
「どうだった。」
恐ろしかったか、とも。
無事でよかった、とも言わない。
ただ事実を求める声。
アルノーは少しだけ考えた。
「……歪んでいませんでした。」
父の眉が、わずかに動く。
だが表情は崩れない。
「魔物が、か。」
「はい。」
短い沈黙。
父は椅子に深く座り直す。
「そうか。」
それがどういう意味なのか、アルノーには分からない。
父は机の上で指を組む。
「もうすぐだな。」
「学園の試験。」
アルノーは黙っている。
父は続けた。
「長兄は昨年卒業し、次男も今年卒業する。」
窓から差し込む光が、机の端を照らしている。
均一ではないが、乱れてもいない。
「お前には剣の師を付けていない。」
責める響きではない。
ただの事実。
アルノーは答えない。
父の言葉を待つ。
「家には限りがある。」
静かな声だった。
「すべてに等しくは割けん。」
合理。
それだけの話だ。
だが不思議と、冷たくは感じなかった。
「恨むか。」
突然の問いだった。
アルノーは首を振る。
「いいえ。」
本心だった。
父はしばらくアルノーを見ていたが、やがて小さく息を吐く。
「そうか。」
それだけ言う。
認めてもいない。
だが、否定もしない。
「一つだけ、覚えておけ。」
父の声がわずかに低くなる。
「家の名を背負う以上、形だけは崩すな。」
「落ちるなら、無様には落ちるな。」
その言葉が静かに落ちる。
アルノーは頷いた。
執務室を出ると、廊下の空気が少しだけ軽く感じた。
期待されているわけではない。
その距離が、はっきりと分かった。
部屋へ戻る。
机の上には描きかけの魔法陣。
線はまだ揃いきっていない。
ふと、昨夜の魔物を思い出す。
「形だけは、崩すな……」
小さく繰り返す。
魔力を流す。
光が立つ。
静かに、均衡を保ったまま。




