第35話:招かざる物
夜半、屋敷の外がわずかに騒がしくなった。
大きな音ではない。
だが、静かな水面に落ちた雫のように、確かに空気が揺れている。
アルノーは顔を上げた。
廊下を急ぐ足音。
低く交わされる声。
扉を叩く音がした。
「起きておいでですか。」
じいやだった。
「結界の外縁に反応がありました。念のため、外出はお控えください。」
魔物。
その言葉は出なかったが、分かった。
「行くぞ。」
背後からヴェルドの声が落ちる。
振り返ると、すでに外套を羽織っていた。
「近づきすぎるな。」
それだけ言う。
屋敷の灯りを背に、二人は外縁へ向かった。
森との境目。
見張りの灯火が、一定の間隔で揺れている。
使用人たちの表情は硬い。
誰も大声を出さない。
それがかえって、異常を際立たせていた。
「まだ破られてはいないようです。」
誰かが小声で言う。
そのときだった。
空気が、静かに沈んだ。
風が止む。
虫の音が消える。
アルノーは無意識に息を潜めた。
いる。
暗がりの向こう。
結界の外側。
それは、ゆっくりと姿を現した。
四足の獣に似ていた。
だが、どこか違う。
それなのに。
崩れていない。
歩く。
音がほとんどない。
一歩ごとに、重心が静かに移る。
迷いがない。
無駄がない。
まるで最初から、その形であることが決まっていたかのように。
アルノーの口から、言葉がこぼれた。
「……歪んでいない。」
すぐ隣で、誰かが息を呑む。
「坊ちゃま……?」
恐れを含んだ声だった。
だがアルノーの視線は動かない。
魔物の周囲で、魔力が淡く巡っている。
荒れていない。
一定の流れを保っている。
均衡している。
「魔物とは……」
小さく呟く。
「なぜ、あの形で保てる……」
理解が追いつかない。
それでも目を逸らせなかった。
ヴェルドが、わずかに視線だけを向ける。
「そう見えるか。」
否定しない。
ただ、確かめるように。
魔物が立ち止まる。
こちらを見ているのかどうかは分からない。
目にあたる部分は暗く、感情の気配がない。
やがて、ゆっくりと向きを変える。
森の奥へ。
音もなく、闇に溶けた。
張り詰めていた空気が緩む。
誰かが大きく息を吐いた。
「去った……のか。」
安堵が広がる。
だがアルノーだけは、まだ森を見ていた。
「先生。」
「なんだ。」
「あれは……醜いのでしょうか。」
少しだけ考えてから、ヴェルドは答える。
「人は、理解できぬものをそう呼ぶ。」
短い言葉だった。
アルノーはもう一度、魔物の消えた場所を見る。
恐ろしいとは思わなかった。
ただ、
そこに、ある種の静けさを感じていた。
「世界は、人だけではない。」
ヴェルドの声が夜気に落ちる。
アルノーは頷いた。
胸の奥に、わずかな感覚が残る。
憧れではない。
理解したい、という衝動でもない。
あの魔物を、もう一度見たいと思った。
空を仰ぐ。
雲間から、欠けた月が覗いている。
完全ではない光。
それでも形を保ち、そこに在る。
アルノーは静かに目を細めた。




