第34話:基準
丘を下るあいだ、二人はほとんど言葉を交わさなかった。
風だけが背を押してくる。
アルノーの視線は、まだ遠くにあった。
「あれを、基準にするな。」
不意に、ヴェルドが言った。
アルノーは歩みを止めない。
「強かったです。」
事実として答える。
「だからだ。」
短い言葉だった。
草を踏む音だけが続く。
アルノーは少しだけ考える。
基準。
学園に集まる者の象徴。
怪物。
だが。
「均等が取れていませんでした。」
自分の言葉が、驚くほど静かに落ちる。
ヴェルドは横目で見る。
「見えたか。」
「はい。」
「なら、それでいい。」
沈黙。
丘の下、屋敷が近づいてくる。
やがてヴェルドが言う。
「力はな。」
一拍置く。
「目を曇らせる。」
アルノーは視線を前に戻す。
曇る。
その感覚は、まだ分からない。
「世界が醜く見える日が来る。」
淡々とした声だった。
予言でも、慰めでもない。
ただの事実のように。
「そのとき、目を逸らすな。」
アルノーはわずかに眉を動かす。
「美しくなくても、ですか。」
ヴェルドは歩みを止めない。
「そうだ。」
短い肯定。
「だが、それも世界だ。」
「その時でさえ、世界は美しいと思い続けろ。」
屋敷の門が見えてくる。
見慣れた石壁。
均一ではない。
小さな欠けがいくつもある。
それでも崩れてはいない。
アルノーは空を見上げる。
雲が流れている。
完全な青ではない。
それでも、空は空だ。
「基準は外に置くな。」
ヴェルドの声が落ちる。
「歪む。」
アルノーは小さく息を吸う。
外ではなく。
内に。
自分の見方を。
守る。
門をくぐる直前、ヴェルドが最後に言った。
「均等を取れるなら、歪みを正せ。」
試すようでも、突き放すようでもない。
ただ、委ねる声音だった。
その夜。
机の上に紙を広げる。
昼に見た巨大な魔術を思い出す。
強さ。
圧。
だが。
線を引く。
一本、逃がす。
もう一本、余白を残す。
魔力を流す。
光が立つ。
揺れない。
長く、静かに伸びる。
アルノーは目を細める。
怪物ではなくてもいい。
基準でなくてもいい。
世界は美しい。
そう信じたまま、線を重ねた。




