第33話:交差
「遠くを見ろ。」
丘へ向かう途中、ヴェルドはそれだけ言った。
屋敷から歩いてしばらく。
なだらかな斜面の先に、視界の開けた場所がある。
アルノーは手にした紙を押さえながら歩いていた。
そこにはいくつもの線と数字が書き込まれている。
「近すぎると、揺らぎは見えん。」
ヴェルドが続ける。
「魔術は放たれた瞬間より、離れてからの方が多くを語る。」
丘の頂に着くと、風が少しだけ強くなった。
アルノーは周囲を見渡す。
林。
遠い街道。
さらに向こうの低い山並み。
「ここなら、余計なものがない。」
紙を広げ、簡易の観測陣を地面に描く。
魔術を受け止めるためではない。
ただ、流れを視るための陣。
魔力をわずかに通す。
淡い線が浮かび上がった。
「減衰の記録を取ります。」
ヴェルドは答えない。
興味がないのではない。
任せているのだ。
アルノーは目を細め、遠方へ意識を向ける。
風の流れ。
空気の重さ。
微細な揺れ。
――そのときだった。
「……重い。」
アルノーが呟く。
ヴェルドの視線だけが動く。
「分かるか。」
次の瞬間。
遠方の空気が歪んだ。
遅れて、膨大な魔力が立ち上がる。
アルノーは息を止めた。
大きい。
だが、それ以上に。
「収束が……速すぎる。」
言葉が漏れる。
光が膨張する。
そして。
轟音。
丘の上にまで衝撃が届いた。
草が揺れる。
だがアルノーは、爆ぜた中心ではなく、その外側を見ていた。
「外周が乱れている……」
魔力が余っている。
逃げ場を失い、押し合っている。
惜しい、と自然に思った。
煙の向こうから、人影が現れる。
少女だった。
アルノーと同じ年頃に見える。
長い髪が、まだざわつく空気の中で静かに揺れていた。
立ち姿に迷いがない。
線が完成している。
少女は抉れた地面を一瞥し、小さく息を吐く。
「また出力が過剰……」
独り言のようだった。
アルノーは一歩だけ近づく。
気づけば、口を開いていた。
「一本、逃がした方がいい。」
少女の視線が止まる。
「……何を?」
「外側の魔力です。
流す線が足りない。」
沈黙。
少女はアルノーを見る。
測るような目だった。
恐れでも、驚きでもない。
ただ理解できないものを見る目。
「威力は足りているわ。」
「はい。」
アルノーは頷く。
否定する気はない。
ただ――均等が取れず、バランスが悪い。
それだけが気になった。
風が吹き抜ける。
少女はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「あなた、変なことを言うのね。」
率直だった。
そのとき、後方から足音が駆けてくる。
「お嬢様!」
従者らしき男が息を切らしていた。
「この規模の魔術は目立ちます。場所を――」
少女は軽く手を上げ、言葉を止める。
視線はまだアルノーに向けられていた。
「歪み、ね……」
小さく繰り返す。
従者が声を潜めた。
「さすがはリュミエール様。
学園からの正式な使いも、間もなく――」
声は遠ざかる。
名前だけが残った。
リュミエール。
少女は背を向ける直前、もう一度だけ言った。
「強ければ、それでいいわ。」
言葉に迷いはなかった。
アルノーはその背を見送りながら、丘の下に残る魔力の揺らぎを見つめる。
強い。
疑いようもなく。
だが。
「惜しいな……」
ヴェルドがわずかに笑った気がした。
「怪物だぞ、あれは。」
アルノーは答えない。
視線はまだ遠くにある。
やがて空を見上げた。
昼の青は、どこまでも均一だった。
夜になれば月が昇る。
満ちていなくとも、形を保つ光。
「……歪みを正せば、もっと遠くまで届くのに。」
ヴェルドの目が細くなる。
アルノーは、少女の残した揺らぎを、最後まで見届けていた。




