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第30話:持たない形



書庫の窓から、朝の光が差し込んでいた。


机の上には、一本の杖が置かれている。


細身で、装飾もほとんどない。


じいやが用意してくれたものだった。


「魔術を学ばれるなら、いずれ必要になります。」


そう言って、静かに机へ置いていった。


アルノーはしばらくそれを眺めていた。


手に取る。


思っていたより軽い。


これがあれば、魔力の不足を補える——らしい。


まだ使ったことはない。


扉が軋む。


振り返ると、ヴェルドが入ってきた。


いつものように足音がしない。


視線が杖に落ちる。


そして一言。


「使うな。」


アルノーは瞬きをする。


「……まだ、何もしていません。」


「分かっている。」


ヴェルドはそれ以上説明しない。


杖を手に取り、軽く眺める。


価値を測るでもなく、ただ形を見るように。


やがて机へ戻した。


「形が崩れる。」


ぽつりと言う。


アルノーは眉を寄せた。


「でも、魔力が少ないなら……」


言い終わる前に、ヴェルドが小さく首を振る。


「足りぬなら、その形で届かせろ。」


静かな声だった。


厳しさはない。


ただ、揺るがない。


アルノーは杖を見る。


整えられた道具。


不足を埋めるためのもの。


「道具に整えられた形は、美しくない。」


ヴェルドが言う。


その言葉は、どこか確信に満ちていた。


アルノーには、まだ分からない。


魔術は届かなければ意味がないはずだ。


次男の光を思い出す。


強く、迷いのない魔法。


あれは確かに“届いていた”。


「……世界はな。」


ヴェルドが窓の外を見る。


朝の空は、雲一つない。


「本来、美しくできている。」


独り言のようだった。


「歪むのは、多くが余計なものを足すからだ。」


アルノーは杖に触れる。


余計なもの。


これが?


答えは出ない。


沈黙が落ちる。


やがてヴェルドが言った。


「陣を描け。」


アルノーは紙を広げる。


線を引く。


魔力を流す。


光は生まれる。


だが、二秒ほどで揺らぎ、消えた。


ヴェルドは何も言わない。


失敗とも言わない。


ただ見ている。


もう一度描く。


今度は、少しだけ線を減らし、必要な部分には均等を保つために足した。


揃えすぎないように。


光が灯る。


三秒。


わずかに伸びた。


それでも、やがて消える。


アルノーは息を吐く。


届かない。


足りない。


それでも。


杖に手は伸びなかった。


ヴェルドが小さく頷く。


評価ではない。


ただ、見届けるように。


「覚えておけ。」


低い声が落ちる。


「持たぬ形も、形だ。」


アルノーはその言葉を胸の奥で繰り返す。


意味はまだ遠い。


だが、不思議と拒む気にはならなかった。


窓の外では、朝の光が静かに広がっている。


欠けるところのない空だった。


それでもアルノーは思う。


満ちた月の方が、きっと美しいのだろうと。


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