第1話:満ちた月
「若様、右足がわずかに前へ出ております。」
少年は足を止めた。磨き上げられた廊下の床に映る自分の姿を見下ろし、静かに右足を引く。影の輪郭が左右で揃ったのを確かめてから、小さく息を吐いた。
「これでどうだ、じいや。」
背後に控えていた老執事は、満足げに頷いた。
「ええ。均整が取れております。整っているものは、それだけで美しい。」
アルノー・ヴァレリウスはその言葉を疑ったことがない。
ヴァレリウス家は貴族の端に名を連ねてはいるが、王都では三流と評される家柄だった。長男は家督を継ぐため剣術に励み、次兄はすでに縁談が進んでいる。三男であるアルノーには、まだ何も定められていなかった。
だからこそ、彼の傍にはいつもじいやがいた。
「世の中には二種類ございます、若様。整っているものと、そうでないものです。」
幼い頃から幾度となく聞かされた言葉だ。
整っていないのであれば、整えればいい。アルノーにとって、それはあまりにも当然の理だった。
屋敷の裏手にある庭園へ出ると、夕暮れはすでに夜へと沈み始めていた。噴水の水音だけが静かに響いている。
アルノーは石畳の縁に視線を落とした。
等間隔に並ぶはずの石の列。その一箇所だけ、わずかに幅が違う。
気づいた瞬間、胸の奥がざわつく。
落ち着かない。
「……あの石、ずれているな。」
「庭師に伝えておきましょう。」
「頼む。」
じいやは柔らかく目を細めた。
「若様は均整を好まれますな。」
アルノーは少し考え、やがて口にした。
「非対称はエレガントではない。」
じいやの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「よく覚えておいでです。」
それが彼の口癖だと知ったのは、もう少し後のことだった。
侍女が灯りを運んできた頃、空は完全に夜の色を湛えていた。
「冷えますよ、アルノー様。」
「もう少しだけ。」
侍女が去ると、じいやが静かに天を仰いだ。
「今宵は満月でございます。」
アルノーもまた視線を上げる。
そこには、欠けるところのない円があった。
揺らぐことなく、ただ在る形。
「……見事だな。」
思わず漏れた言葉に、じいやは頷いた。
「完全なものには、人の心を鎮める力がございます。」
アルノーはしばらく何も言わなかった。
整いきった形には、説明を拒む静けさがある。
乱れがないというだけで、世界はこれほど穏やかに見えるのかと思った。
やがて彼は、ゆっくりと息を吐く。
「いずれ、あのように無駄のない形を描けたなら。」
じいやは答えず、ただ傍らに控えていた。
夜は深まり、庭園を渡る風もいつしか止んでいた。
アルノーはなおも天を見上げ続ける。
疑う理由など、どこにもなかった。
天には満ちた月が在った。




