第18話:足りないということ
紙の上の魔法陣は、そのまま残されていた。
じいやが片付けることもなく、書庫の床の隅に置かれている。アルノーは朝になってから、何度かその前を通ったが、触れはしなかった。
動かなかった形。
それだけが、はっきりしている。
昼前、再び家宰が書庫を訪れた。
「若様。」
アルノーは顔を上げる。
「昨夜の陣の件ですが。」
家宰は穏やかな口調だった。
「やはり、魔力が不足しております。」
不足。
その言葉は、思ったよりも静かに胸に落ちた。
「少ない?」
「ええ。決して無いわけではありません。ただ——」
家宰は陣を一瞥する。
「この形には、相応の量が必要です。」
アルノーは頷いた。
揃っている形ほど、多くを求める。
昨夜聞いた言葉が、少しだけ輪郭を持つ。
「……みんな、これくらい?」
家宰は首を振った。
「一般的な陣であれば、若様の魔力でも十分でしょう。」
一般的。
その言葉に、アルノーは少し考える。
「じゃあ。」
視線を落とし、陣を見る。
「この形が、普通じゃない?」
家宰は、わずかに目を細めた。
「そうなりますな。」
アルノーは、しばらく黙っていた。
足りない。
けれど、それは自分自身が欠けているという意味ではない。
形が、求めすぎている。
そう考えると、不思議と腑に落ちた。
「……減らせばいいのかな。」
ぽつりと呟く。
家宰は聞き返した。
「何を、でしょうか。」
アルノーは陣の外周を目でなぞる。
線の数。
重なり。
間隔。
「求める量を。」
家宰は何も言わなかった。
否定もしない。
ただ、少しだけ驚いたような顔をしている。
「揃っているのは、好き。」
アルノーは続ける。
「でも、動かないなら……」
言葉を探す。
「形を、変えればいい。」
じいやが、静かに息を吸った。
「ほう。」
短い声だったが、そこには確かな興味があった。
アルノーは陣を見つめる。
完全な円でなくてもいいのかもしれない。
線が少なくても。
少し歪んでいても。
揃え方が、違うだけかもしれない。
「足りないなら、合わせればいい。」
誰に言うでもなく、そう言った。
家宰は小さく笑う。
「それは……珍しい考え方ですな。」
アルノーは顔を上げる。
「そう?」
「多くは、力を増やそうとします。」
アルノーは、少しだけ首を傾げた。
力を増やす。
それは、形の外側の話だ。
「形のほうを、静かにすれば。」
そう言うと、じいやがゆっくりと頷いた。
「若様らしい発想でございます。」
書庫の窓から、風が入る。
紙の端が、かすかに揺れた。
アルノーは、その動きを見て思う。
揺れは、無くさなくてもいい。
揺れ方を、揃えればいい。
まだ何もできていない。
けれど、進む方向だけは見えた気がした。
陣の前に座り、アルノーは新しい紙を取り出す。
今度は、少しだけ線を減らしてみようと思った。




