第14話:残された線
屋敷の北側には、あまり使われない倉があった。
昼でも薄暗く、扉を開けると冷えた空気が流れ出てくる。積まれた箱や古い道具の隙間に、長い時間が溜まっているような場所だった。
アルノーは、じいやの後ろを歩いていた。
「ここは?」
「昔、簡単な術の準備に使われていた倉でございます。」
簡単な、という言い方が少し引っかかった。
中へ進むと、床の一部が見えた。
埃が薄く積もっているが、円の形だけが、かすかに残っている。
魔法陣だった。
線は消えかけている。
ところどころ途切れ、円は完全ではない。
それでも、形は分かる。
アルノーは足を止めた。
「……これ。」
じいやも立ち止まり、床を見下ろす。
「使われなくなって、久しいものですな。」
アルノーは近づき、しゃがみ込む。
指で触れることはしない。
目で追う。
円は、わずかに歪んでいた。
中心も、ほんの少しずれている。
左右の線の間隔が、揃っていない。
「古いから?」
そう言うと、じいやはすぐには答えなかった。
「それも、あるでしょう。」
曖昧な返事だった。
アルノーは、書庫で見た図を思い出す。
揺れない線。
等しい間隔。
それと比べると、この陣は——
「違う。」
声に出してから、少し驚いた。
じいやは否定しない。
「お気づきになりましたか。」
アルノーは円の欠けた部分を見る。
もし、ここが揃っていたら。
もし、中心がずれていなければ。
中庭の光と、同じだと思った。
「これで、魔法は使えたの?」
じいやは静かに頷く。
「ええ。問題なく。」
問題なく。
その言葉が、胸に引っかかる。
アルノーは立ち上がり、もう一度全体を見る。
問題なく使えた。
けれど、揃ってはいない。
「……直さなかったの?」
じいやは、ゆっくりと首を振る。
「必要がなかったのでしょう。」
必要がない。
その言葉の意味を、アルノーはまだ理解できなかった。
ただ、分かることがある。
揃っていなくても、世界は動く。
魔法は使える。
それでも——
「きれいじゃない。」
ぽつりと漏れた言葉に、じいやは何も言わなかった。
倉の奥で、木が軋む音がする。
アルノーは床の円から視線を離し、扉の方を見る。
この形は、ずっとここにあった。
誰も直さず。
誰も困らず。
けれど、自分だけが気づいた。
その事実が、静かに胸に残る。
倉を出ると、外の光がまぶしかった。
アルノーは無意識に目を細める。
頭の中に、二つの円が浮かんでいた。
揺れない理想の形と、
使われ続けた歪んだ形。
どちらが正しいのかは、まだ分からない。
ただ——
同じではないことだけは、はっきりしていた。




