第13話:まだ遠い場所
書庫の窓は高く、空だけがよく見えた。
昼の光が棚の上を滑り、古い背表紙を淡く照らしている。部屋の奥では、紙をめくる小さな音だけが時折響いていた。
アルノーは、机の上に積まれた本の中から一冊を引き抜く。
見慣れない装丁だった。
革の表紙は少し硬く、縁に細い模様が刻まれている。
開くと、最初の頁に整った図が現れた。
幾重にも重なる円。
その内側を、正確な線が結んでいる。
しばらく見つめていると、足音が近づいた。
「それは、学園で使われる入門書でございます。」
じいやだった。
アルノーは顔を上げる。
「学園の?」
「ええ。魔法を志す者が、初めに触れる本です。」
志す者。
アルノーはもう一度頁を見る。
線はどれも揺らいでいない。
まるで最初からそこに在る形のようだった。
「みんな、これを覚えるの?」
「覚えるというより、慣れていくのでしょうな。」
じいやは机の端に手を添え、本を少しだけアルノーの見やすい位置へ寄せた。
「形を正しく保つための基礎と聞いております。」
形を保つ。
その言葉に、アルノーの指先がわずかに動く。
「揺れない?」
問いは自然と零れた。
じいやは穏やかに答える。
「理想の上では。」
理想。
アルノーはその響きを胸の中で転がす。
中庭の光を思い出す。
裂けた輪郭。ほどける形。
本の図は、それとはまるで違っていた。
「ここは、遠い?」
不意にそう尋ねる。
じいやは少し考え、それから言った。
「距離で言えば、それほどではありません。」
「でも?」
アルノーが続きを待つと、じいやは小さく微笑んだ。
「辿り着くまでの道は、人それぞれでございます。」
曖昧な言葉だった。
けれど、不思議と否定には聞こえない。
アルノーは再び本に視線を落とす。
円と線が、静かに重なっている。
揃っている形。
指でなぞろうとして、やめた。
触れれば、この静けさが崩れる気がした。
「若様は、学園にご興味が?」
アルノーは少しだけ首を傾げる。
興味、なのだろうか。
まだ分からない。
ただ、この形がどこから来るのかは知りたかった。
「……まだ、遠い気がする。」
そう言うと、じいやはゆっくり頷いた。
「遠くに見えるものほど、形はよく整って見えるものです。」
アルノーはその言葉を聞きながら、もう一度図を見つめる。
遠くにある形。
近づけば、揺れが見えるのだろうか。
それとも——
本当に揺れないのだろうか。
窓の外では、雲がゆっくりと流れていた。
アルノーは本を閉じる。
まだ届かない場所があると知っても、不思議と焦りはなかった。
ただ、そこに形があるのなら。
いつか、見てみたいと思った。




