第10話:まだ言わない
夜は、思ったよりも静かだった。
窓を少しだけ開けると、冷えた空気がゆっくりと部屋に入り込んでくる。遠くで木々がかすかに揺れ、屋敷の中はすでに眠りに沈み始めていた。
アルノーは机の前に座っていたが、本は開いていなかった。
視線は、窓の外へ向いている。
月が出ていた。
今夜の月は、半分より少し満ちている。
しばらく眺めてから、アルノーは小さく息を吐く。
——揺れは、起きる前から始まっている。
昼間、中庭で見た光を思い出す。
右側が薄くなっていた。
そして、裂けた。
偶然ではないように思える。
けれど、理由はまだ分からない。
分からないことを、そのまま持っている感覚は、不思議と嫌ではなかった。
机の上に置かれた紙に、アルノーはそっと円を描く。
なるべく静かに。
線がずれないように。
描き終えてから、少しだけ首を傾げた。
閉じているはずの線なのに、どこか頼りない。
ほんのわずかな歪みが、気になる。
指先でなぞり、もう一度見つめる。
それから、新しく描き直した。
今度は、先ほどよりゆっくりと。
線は、さっきより整って見えた。
理由は分からない。
ただ、違うことだけが分かる。
そのとき、控えめなノックが部屋に響いた。
「若様、まだお休みでないのですか。」
じいやの声だった。
「……うん。」
扉が静かに開く。
じいやは机の上の紙に目を向け、何も言わずに微笑んだ。
「円を?」
アルノーは少し迷い、それから頷く。
「きれいに、描けない。」
じいやは否定しなかった。
「手で描く形は、どうしても揺れるものです。」
アルノーは紙を見つめる。
「揺れない形は、ないのかな。」
問いは小さく、独り言のようだった。
じいやはすぐには答えない。
窓の外の月を一度だけ見てから、静かに言う。
「あるかもしれませんな。」
それだけだった。
方法も、意味も、語らない。
アルノーはその言葉を聞き、もう一度円を見る。
揺れない形。
もしそんなものがあるのなら、一度見てみたいと思った。
だが、その考えを口にはしない。
まだ、うまく言葉にできない気がした。
「若様、夜は冷えます。どうぞお休みください。」
アルノーは頷き、紙を机の端へ寄せる。
灯りを落とすと、部屋はすぐに静けさに包まれた。
寝台に入っても、しばらく眠気は来なかった。
目を閉じると、光の輪郭が浮かぶ。
裂ける前の、あのわずかな揺れ。
やがて、それもゆっくりと遠のいていく。
分からないことは、まだ多い。
けれど——
アルノーは小さく息を吐いた。
まだ、言わなくていい。
夜は何も答えず、ただ静かに更けていった。




