第0話:非対称はエレガントではない
「――歪んでいる。」
少年は眉をひそめた。
教室の中央に描かれた魔法陣は、誰の目にも十分に整って見える。王立魔導学園の入学試験に用いられる基礎陣式。幾何学的な円、放射状に伸びる補助線、均等に配置された符号。
だが、彼にはどうしても気に入らなかった。
「半径が、右だけ〇・三ほど長い……」
しゃがみ込み、指先で床をなぞる。白い石床の冷たさが指に伝わった。
「そこまで分かるのか?」
試験官の老魔導士が呆れたように言う。
少年は顔を上げた。
「分かるというより、気持ち悪いのです。」
そして、当然のように続ける。
「非対称はエレガントではありません。」
試験官は小さく息を吐いた。
「魔法は芸術ではない。多少のズレなど誤差だ。起動すれば結果は同じだよ。」
少年は一瞬だけ黙った。
本当にそうだろうか?
視線を魔法陣に戻す。補助線の交点、刻印の角度、符号の間隔――微細な乱れが、まるで砂粒のように全体へ混じっている。
ノイズだ。
理由は説明できない。だが、分かる。
この陣は、本来もっと美しいはずだ。
「……修正してもよろしいでしょうか。」
「時間は減るぞ?」
「構いません。」
試験官が肩をすくめるのを横目に、少年は試験用の白墨を手に取った。
円周の一部を消し、描き直す。
補助線の角度を揃える。
刻印の間隔を微調整する。
誰も気づかないほどの差。だが、彼にとっては世界の軸がずれるほど重大な差だった。
ふと、懐かしい声が脳裏に浮かぶ。
――若様、非対称は品がございません。
幼い頃から屋敷に仕えていた老執事、じいやの口癖だ。
食器の配置が左右で違えば直され、庭木の剪定が偏ればやり直される。
「美しさとは整っていることです」と、何度も聞かされた。
少年はその言葉を、半ば無意識に信じていた。
やがて修正を終え、立ち上がる。
「できました。」
「では起動しろ。」
少年は魔力を流し込んだ。
――瞬間。
光が走る。
通常よりも滑らかに、静かに、魔法陣が発動した。
空気の震えがほとんどない。
まるで最初からそこに存在していたかのように、炎が一点に現れる。
試験官の眉が動いた。
「……妙だな。」
炎は揺れない。
燃焼が安定している。
魔力消費も明らかに少ない。
「何をした?」
「対称に近づけただけです。」
少年は首を傾げる。
「本来、魔法陣はもっと効率化できるはずです。なぜ皆、この程度の歪みを放置しているのでしょう。」
試験官はしばらく黙っていたが、やがて低く言った。
「君、名前は?」
「アルノー・ヴァレリウスです。」
「ヴァレリウス……ああ、あの家の。」
三流貴族、と続けかけて飲み込んだのが分かった。
三男ゆえ、家督とは無縁。
期待も薄い。
だからこそ、好きな本ばかり読んで育った。
ふと、幼い日の記憶がよぎる。
まだ背丈も本棚に届かなかった頃、屋敷の奥で見つけた古い本。
そこに描かれていた、完璧な円。
無駄な線が一切ない、静かな図形。
そしてその夜、夢を見た。
巨大な魔法陣が空いっぱいに広がり、寸分の狂いもなく回転している夢。
あれほど美しいものを、彼は他に知らない。
「……アルノー。」
試験官が言った。
「忠告しておこう。魔法は理屈通りにはいかない。世界はそれほど整っていない。」
少年は即座に答えた。
「なら、整えればいいのです。」
試験官は苦笑した。
若さだな、とでも言いたげに。
試験終了の鐘が鳴る。
アルノーはもう一度だけ魔法陣を見下ろした。
まだ完全ではない。
もっと削れる。
もっと静かにできる。
もっと、美しく。
胸の奥で、確信に近い感覚が芽生えていた。
――この世界の魔法は、ノイズが多すぎる。
だがそれは、欠陥ではないのかもしれない。
未発見の法則が、どこかにあるだけだ。
「非対称はエレガントではない。」
小さく呟き、彼は教室を後にした。
後に王立魔導学園の歴史を変えることになる少年が、この日抱いたのは、ただ一つの素朴な仮説だった。
世界は、本来もっと美しいはずだ。




