3 遥の記憶
翌朝、祖母の姿が見えなかった。
呼んでも返事はなく、仏間には誰もいない。ただ線香の残り香だけが、空気に残っていた。
祖母は時々、裏山の祠にひとりで行くことがあると言っていた。
悠真はぼんやりと朝食をとりながら、ふと仏間の襖がわずかに開いているのに気づいた。
(……昨日、閉まっていたはずだ)
好奇心に駆られ、彼は静かに襖を開ける。
仏壇の横、古びた木箱が置かれていた。上に布がかぶせられていたが、何かが引っかかっていたのか、少しずれて中身が覗いていた。
中には、古いノート、乾いた花束、そして――一枚の髪飾り。
どれも埃をかぶっていたが、そのノートの表紙には、丁寧な文字でこう記されていた。
「遥の日記」
彼は思わずページをめくる。
ノートの抜粋(昭和五十三年)
八月一日
雨が降らない。みんな困ってる。
お母さんが「村の水神さまが怒ってる」と言ってた。
私は大丈夫。井戸の中の声が「わたしを見つけて」って言ってくれる。
八月五日
夜、井戸を見に行ったら、自分と同じ顔をした子が下にいた。
だけど、それは私じゃない。目だけが笑ってなかった。
八月十日
おばあちゃんが言った。
「遥、おまえは選ばれたんだよ」
――“替え身”って、なんだろう?
八月十二日
明日、私は「水に還る」。
読み進めるごとに、悠真の背筋が冷たくなっていった。
ノートは途中で破れており、以降のページはなかった。
彼はふと、ノートの最後のページの裏に、小さく鉛筆で書かれた言葉を見つけた。
「この身体を使って、帰ってきます」
「今度は、私が選ぶ番」
手が震えた。
そのとき、部屋のどこかで「ポタリ」と音がした。
彼は顔を上げた。
仏間の天井――そこから、ひと滴の水が、畳の上に落ちていた。
そしてその水たまりの中に、ひとつの瞳が浮かんでいた。
自分とまったく同じ形の、だがどこか異質な目。
それは、笑っていた。