2 井戸の眼
夜になると、家全体が湿気に包まれる。
畳はじっとりと冷たく、壁の木材はかすかに軋み続けていた。まるで家そのものが何かを呻いているようだった。
悠真は祖母の家の一室、古びた布団の上で仰向けになっていた。
天井を見つめながら、耳を澄ます。
——ぽたり、ぽたり。
天井からではない。どこか、もっと深いところから水の音がする。
(……井戸?)
その瞬間、なぜかあの少女の顔が頭に浮かんだ。
壁にあった写真。自分によく似たあの顔。誰も話そうとしない、あの「遥」という名前。
次の朝。
祖母は何も言わずに仏間にこもっていた。
悠真はひとりで家の裏へ回り、草むらをかき分けるようにして井戸の前に立った。
そこには、苔に覆われた石造りの古井戸が静かに口を開けていた。
蓋などはなく、誰でも簡単に覗き込める。だが、奥は真っ暗で、底がまったく見えない。
風も吹いていないのに、どこかから冷たい空気が吹き上げてくるようだった。
彼はふと、近くの木に打ち付けられた錆びた板に気づいた。
薄れて読み取れない墨の跡——ただ、最後の一行だけが、かろうじて読めた。
「この水を飲んではならぬ」
その瞬間、井戸の底から風が吹き上がり、悠真の目の前に白い紙片が舞い上がってきた。
反射的にそれを掴むと、湿って破れかけた紙には、子供の字でこう書かれていた。
「わたしは いきてる」
「かわりにして ごめんなさい」
悠真の手が震えた。
その裏には、名前が記されていた。
——はるか
「……遥?」
背後で風が揺れ、草がさざめいた。
振り返ると、誰もいない。
だが、何かが井戸の底からこちらを見上げているような感覚が離れなかった。
その夜。
祖母は夕飯の後、ぽつりと呟いた。
「……水は、飲まんかったろうね?」
悠真は頷いたが、内心では不思議に思っていた。
食事中に口にした味噌汁。コップの水。
それらに、昨日までにはなかった、**奇妙な“重さ”**を感じていたのだ。
まるで、水そのものが、喉を下る瞬間に何かを置いていくような感覚。
その夜、夢を見た。
夢の中で彼は井戸の底にいた。
水に沈む少女。白いワンピース。動かない顔。だが——目だけが、しっかりと開いていた。
その目は、間違いなく自分と同じ目だった。