1 帰郷
八月の田舎は、まるで蒸し風呂のようだった。
湿った空気が肌にまとわりつき、セミの鳴き声が耳を刺す。
悠真はキャリーケースを引きずりながら、細い田舎道を歩いていた。
雑草は膝の高さまで伸び、水路の石垣さえも飲み込んでいる。
草むらの奥から、正体不明の虫の音がかすかに響いていた。
十五年ぶりの帰郷だった。
両親は早くにこの村を離れ、都会で新しい生活を築いた。
村人とは連絡を断ち、祖母とも疎遠になった。
最後にこの家を訪れたのは、悠真が七歳の夏だった。
あの時、彼は井戸に落ちかけた——いや、誰かに引きずり込まれそうになったのだ。
以来、両親は「水の霊に憑かれた」と言い、村への訪問を禁じた。
そして今——両親はもういない。
祖母は病に伏し、余命わずかだという。
曲がり角を過ぎると、屋根瓦が赤茶けた古い家が現れた。
湿気に覆われ、木の壁は黒く染み、石段には青苔がびっしりと張りついている。
まるで家全体が、ゆっくりと土に還ろうとしているようだった。
玄関には、色褪せたお札が斜めに貼られていた。
それが何の封印なのか、悠真には分からなかった。
「……帰ったか。」
“ギィ”という音と共に、玄関の引き戸が開いた。
現れたのは、祖母だった。
記憶よりも一回り小さくなっていて、肌は黒く乾き、目の奥には影が宿っている。
その姿は、まるで家の一部に溶け込んでいるかのようだった。
「部屋はそのままだ。夜は……井戸に近づくな。」
それだけ言うと、祖母はふらりと奥へと消えていった。
屋内には濃密な湿気が漂っていた。
畳はカビ臭く、天井には水染みが広がり、どこからか鉄錆のような匂いがする。
どこか懐かしく、しかし不穏な匂いだった。
悠真は荷物を引きながら廊下を歩き、ふと足を止めた。
壁に掛けられた、古い集合写真に目が留まったのだ。
色あせた白黒写真。
村の子どもたちが列になって並んでいる。
ぼやけた顔の中に——一人、見覚えのある少女の姿があった。
……自分に、よく似ていた。
少女は列の端に立ち、微かに笑っていた。
だがその目には、妙に冷たい光が宿っていた。
悠真は近づいて目を凝らした。
だが、その子の手元は写真の端ごと破れていて、黒くちぎられた空白に消えていた。
その時、喉の奥が急に乾き、首筋に冷たい汗が流れた。
――ポタリ。
耳元で、水の滴る音が聞こえた。
音は、畳の下から……いや、家のどこか深い場所から、じわじわと染み出しているようだった。
慌てて振り返ると、視界の端に何かが映った。
開け放たれた障子の向こう——
あの古井戸の前に、白く霞んだ“誰か”の姿が立っていた。
それは、静かに——こちらを見つめていた。