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夫人革命逃亡記  作者: 伊阪証


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野心

北西にそびえる岩壁は、夜明け前の薄明りの中で巨大な獣の背骨のように突き出していた。道とは名ばかりの、剥き出しの石灰岩が連なる急斜面を、一行は一歩ずつ這い上がるようにして進んだ。足元の石が崩れるたびに、乾いた音が崖下に吸い込まれていく。馬の蹄が届かぬこの険峻な地形だけが、背後に迫る革命軍の追手から彼らを切り離す唯一の境界線となっていた。

レイモンは先頭に立ち、全員分の荷を括り付けた背嚢を担い、さらに末の子供を前抱きにした状態で岩に指を掛けていた。彼の端正な輪郭は青白く透け、こめかみには太い血管が浮き出ている。呼吸を繰り返すたびに、喉の奥からは肺が焼けるような喘鳴が漏れた。岩を掴む指先は泥と血で汚れ、爪は数箇所が割れていたが、彼は一度もその手を見なかった。 ようやく斜面が途切れ、人一人がようやく横になれるほどの狭い岩棚に到達した時、太陽の端が地平線から顔を出した。レイモンは背後を振り返り、エリーズの手を引いて最後の一段を登り切る。彼は家族を岩の陰へと促すと、音を立てぬよう慎重に背嚢を下ろした。

背負い紐が肩から離れた瞬間、レイモンの身体が微かに揺れた。麻の服の肩口には、赤黒い染みが大きく広がっている。長時間の行軍と重圧により、衣服の生地が擦り切れた皮膚と癒着していた。彼は顔を歪めることもなく、家族に背を向けて座り込むと、指先で器用に生地を剥がした。じり、という皮膚が引き裂かれる音が狭い岩棚に響き、新鮮な血液が泥に汚れた首筋を伝って流れ落ちる。男は傍らの岩に溜まった冷たい泥を指で掬い、そのまま傷口に塗りつけた。筋肉が激しく収縮し、彼の項が岩のように強張る。

アデルは乱れた呼吸を整え、岩壁に背を預けて立ち尽くしていた。切り裂いたドレスから覗く脚は、岩角で打った痣と切り傷で無惨な状態であったが、彼女はそれを一瞥しただけで視線を外した。彼女の手元には、先ほどの村から連れてきた書記の青年が、震えながら蹲っている。アデルは泥のついた指先を自身の顎に添え、水平な視線で周囲の地形を確認した。 「水は。どれほど残っていますの」 アデルの問いに、レイモンは黙って水袋を差し出した。振れば、中身が半分も残っていない不確かな音が返ってくる。

傍らでは、少年が鋭い石の破片を拾い上げ、足元の平らな岩肌に何かを刻み始めていた。それは周囲の等高線を簡略化した地図であり、追手が入り込める唯一の隙間を×印で塞いだ戦術図でもあった。少年の瞳に疲労の色はなく、ただ計算機のように冷徹な光だけが宿っている。 レイモンは泥のついた手で自身の顔を拭い、掌に残った鉄の匂いを嗅いだ。家族の静かな寝息と、岩壁を叩く乾いた風の音だけが、この一時的な停滞を支配していた。アデルは手に入れたばかりの「情報源」である青年を見下ろし、その怯えた瞳の奥にある価値を、冷徹に計り始めていた。一行の背後では、太陽が冷たく、しかし確実に高く昇り始めていた。

岩棚を吹き抜ける風は、高度を増すごとに鋭さを増し、石灰岩の角を削るような乾いた音を立てていた。その風に晒され、書記の青年は岩壁に背を擦り付けるようにして震えていた。彼の指先は、恐怖と寒冷によって感覚を失い、膝の上で握りしめられた掌からは、不自然なほどの冷や汗が溢れている。アデルは、その青年のすぐ目の前に立った。彼女の影が、怯える書記の顔を暗く覆う。

「パリの登記所。あそこは今、どのような惨状になっていますの。私がルーヴシエンヌに持っていた邸宅、それからベルサイユ付近の小間物屋の利権、没収された財産の行方はどうなっていますの。」 アデルの声は、荒々しい風の音に混じりながらも、鋭く青年の鼓動を射抜いた。 「…すべて、リストに入っています。公社の管理下に置かれ、家財はオークションにかけられるか、あるいは革命委員の宿泊所に割り当てられています。貴女の邸宅は…あそこは今、地区の民兵たちの屯所に変わっているはずです。」 青年の声は、震えで途切れがちだった。彼は一度もアデルと目を合わせようとせず、ただ地面に刻まれた石の模様を凝視している。 「接収リスト。誰がその紙に署名したの。責任者の名前を言いなさい。」 「バラス、あるいはロベスピエールの事務所の役人たちです。毎日、コンシェルジュリーの奥にある登記所に新しい名前が書き加えられ、その度に古い権利書が焼かれています。貴女の名前は、一番上の赤い枠の中にありました。逃亡者、国家の敵として。」

アデルは眉一つ動かさず、泥のついた指で自身の喉元をなぞった。指先が触れるのは、かつて宝石が飾られていた場所ではなく、今はただの汚れた皮膚だ。だが、彼女の瞳に絶望の色はなかった。むしろ、奪われたもののリストが実在するという事実に、冷徹な計算の光が宿っていく。瞳孔は鋭く絞られ、彼女の思考は既にパリという名の戦場へ跳躍していた。 「登記所は、今も機能しているのですわね。略奪の記録を、彼らは正確に残している。」 「ええ。彼らは管理を何よりも優先します。誰から何を奪い、誰に分け与えたか。その記録だけは、異常なほど正確に、一冊の大きな台帳に綴じられているはずです。」 「…そう。それなら、まだ取り返せますわ。あの方たちの『管理』という無能な正義が、私に復讐の道を示してくれているのね。」

レイモンは家族の傍らに腰を下ろしながら、片時も剣の柄から手を離さなかった。彼の視線は書記に向けられ、その言葉の一つ一つを、逃亡の経路を塞ぐ障壁としてではなく、奪い返すための地図として咀嚼しているようだった。男の背中では、傷口に塗りつけた泥が乾燥し、灰色のひび割れを作っている。泥の隙間からは再び鮮血が滲み出し、服の生地を赤黒く染めていたが、彼は表情を変えなかった。彼の項筋は、青年の語る「パリの現状」を聞くたびに、より強固な岩のように強張っていく。 エリーズは黙って子供を抱き寄せ、夫の横顔をじっと見つめていた。彼女の指先がレイモンの袖を握り、微かな震えが伝わる。かつての平穏な暮らしが、もはや紙切れ一枚のリストによって完全に抹消されたという事実は、逃亡者たちにとっての足かせではなく、むしろ戻るべき場所を指し示す呪いへと変わっていた。

アデルは、岩肌に鋭い石の破片を走らせ続ける少年へと歩み寄った。少年は二人の会話には一切耳を貸さず、ただ指先の石を冷徹に動かしている。少年の描く図面の上で、パリという都市は幾何学的な迷宮として記述されていた。砲台の死角、補給の動線、そして権力の空白地帯。少年の瞳は、それらを一つの数式として処理していた。 「この男を連れて行きますわよ、レイモン。彼は私の『目』になりますわ。登記所の奥に眠る、私の財産のありかを知る唯一の鍵ですもの。」 「…パリへ戻るというのか。あそこは今、死の機械が休まず動いている広場だ。正気ではない。」 レイモンの声には、低く、重い警告が込められていた。だが、アデルはその警告を、風に乗って飛んできた枯れ葉でも払うかのように切り捨てた。 「ええ、正気ですわよ。あそこは今、私の持ち物が山積みになっている巨大な倉庫でしてよ。鍵のありかを知る人間を、ここで野垂れ死にさせるわけにはいきませんわ。」

アデルはそう言うと、震える書記の顎を指先でクイと持ち上げた。泥に汚れた彼女の指が、青年の肌に冷たく触れる。 「貴方、死にたくなくて私についてきたのでしょう? ならば、私の位を取り戻すまで、その無能な頭をフル回転させなさい。私が元の場所へ戻った時、貴方のその臆病な魂にも、相応の居場所を与えて差し上げますわ。」 書記の青年は、言葉を失ってアデルを見上げた。彼女の瞳にあるのは、慈愛などではなく、ただ純然たる「奪還」への意志だった。その強固なエゴイズムが、青年にとっては逆に、この混沌とした世界で唯一信頼できる道標のように感じられた。

レイモンは短く吐息し、強く剣を握り直した。彼の額に浮き出た青筋が、静かな怒りと、抗いようのない覚悟を物語っている。彼は、アデルという女が持つ「惚れ込むほどの傲慢さ」に、自分自身の贖罪の機会を預けていることを、今さらながらに痛感していた。 岩棚に差し込む陽光は一段と強まり、石灰岩の白さを際立たせていく。一行の影が岩肌に細長く、しかしはっきりと伸び、それは逃亡の足跡ではなく、奪還のための進軍の軌跡へと姿を変えようとしていた。アデルは、かつて王の愛人として君臨したその不屈のプライドを、今度は泥まみれの現実を支配するための武器へと研ぎ澄ませていた。

陽光が石灰岩の岩壁に反射し、狭い岩棚を白熱した刺すような光で満たした。風は依然として吹き荒れ、一行の汚れた衣服を激しく はためかせている。レイモンは、アデルが書記の青年の顎を指先で 弾くようにして離した瞬間、音を立てて剣を鞘に収めた。その金属音が、風の音を一瞬だけ切り裂く。 男は膝をついていた体勢からゆっくりと立ち上がり、アデルの前に立ちはだかった。彼の影が、アデルの泥に汚れたドレスの上に重く落ちる。レイモンの前腕の筋肉は、極限の疲労と静かな怒りによって、皮膚の下で脈打つように痙攣していた。

「この男は、貴様の『道具』ではない。登記所の鍵でも、財産のありかを示す台帳でもない。…ただの、怯えた人間だ。」 レイモンの声は、低く、押し殺した響きを持っていた。彼の瞳には、かつて裁判の席でアデルを断罪した時と同じ、一点の曇りもない純粋な怒りの炎が宿っている。 「人間? ええ、そうね。無能で、臆病で、死にたくなくて私に縋りついてきた、卑小な人間。それが何か?」 アデルは眉一つ動かさず、レイモンの怒りを正面から受け流した。彼女は泥のついた指先を自身の唇に添え、退屈そうに鼻を鳴らす。 「貴方はいつもそう。目の前の『命』という感傷的な言葉に溺れて、その先にある本質を見ようとしない。滑稽でしてよ。」

「…俺は、ただ死なせたくなかっただけだ。そこに理由などいらない。」

レイモンの言葉は、風に流されることなく、重く岩棚に留まった。彼は拳を強く握り締め、指の関節が白く浮き出るほどに力を込める。彼の背中では、乾燥した泥の隙間から、再び鮮血が滲み出し、服の生地を赤黒く染めていたが、彼はその痛みに気づく様子もなかった。 「理由がいらない? それこそが、無能な人間の甘えでしてよ、レイモン。世界は、貴方のその独りよがりな善意だけで回っているわけではないわ。」 アデルは一歩、レイモンに近づいた。彼女の瞳にあるのは、逃亡者としての焦燥ではなく、奪われた場所を取り戻そうとする、成り上がりの女特有の、美しくも醜悪な覚悟だった。

「この男が救われたのは、幸運だったからではなく、私が価値を見出したからでしてよ。」

その言葉が放たれた瞬間、レイモンの我慢は限界を超えた。 男は咆哮にも似た短い呻き声を上げ、握り締めた拳を、アデルのすぐ傍らの岩壁へと叩きつけた。 鈍い衝撃音が岩棚を震わせ、石灰岩の破片が飛び散る。レイモンの拳からは皮が弾け、鮮血が白い岩肌を赤く染めた。彼は岩に拳を押し付けたまま、激しい呼吸を繰り返し、肩を大きく上下させる。額からは冷たい汗が泥と混じり合い、目元へと流れ落ちていた。

アデルは、目の前で起きた暴力的な行動に対し、微動だにしなかった。飛び散った岩の破片が彼女の頬をかすめ、僅かな切り傷を作ったが、彼女は瞬き一つせず、レイモンの震える拳を冷めた目で見下ろしていた。 「気が済みましたかしら? 貴方がそうやって岩を砕いても、パリの登記所にある台帳は一枚も減りはしませんわよ。」 アデルの声は、どこまでも冷徹で、感情の起伏がなかった。彼女は泥のついた手で、自分の頬についた血を無造作に拭い去る。 「貴方がこの男を救った。それは事実。そして私がこの男を利用して、元の場所へ戻る。それもまた、動かしがたい事実。貴方の『善意』と私の『野心』は、今この瞬間、この男という一つの交差点で繋がっているのよ。」

レイモンはゆっくりと拳を岩から離した。彼の掌は血と泥で 塗れ、無残に裂けている。彼はその手を見つめ、それからアデルの、汚れながらも垂直に伸びた背筋を見つめた。男の瞳にあった純粋な怒りは、アデルの圧倒的なエゴイズムの前に、行き場を失い、静かな絶望へと色を変えていく。 傍らでは、少年が二人の衝突には一切目を向けず、岩肌に刻んだ図面の上に、新しい動線を書き加えていた。少年の瞳は、レイモンの流した血も、アデルの覚悟も、ただの「数」として処理し続けていた。 「…西に五マイル。そこなら明日の正午までに、追っ手の届かない高地へ出られる。」 少年の冷徹な声が、岩棚に吹き荒れる風の中に落ちた。レイモンは短く吐息し、傷ついた拳を隠すようにして、再び家族の元へと歩き出した。アデルは彼の背中を見送り、それから震える書記の青年を見下ろし、冷ややかな嘲笑を浮かべた。一行の間に、主従でもなく、共犯者でもない、奇妙に歪んだ新しい秩序が、この岩壁の上で確立されようとしていた。

岩棚を吹き荒れていた風が、太陽の高度が上がるにつれて凪ぎ始めた。白熱した光が石灰岩を焼き、空気の中に乾燥した石の粉の匂いが混じる。レイモンは岩壁に叩きつけた自身の拳を、布の端で無造作に縛り上げた。裂けた皮膚から滲み出た鮮血が、すぐに泥と混ざり合ってどす黒い染みを作る。彼はその痛みを確認することもなく、傍らで震える書記の青年の首根っこを、まるで荷物でも扱うような無慈悲な手つきで掴み上げた。

「…歩けるか。次は、あそこだ。」 レイモンが指し示したのは、少年が岩肌に刻んだ図面の先、より険しく、しかし確実に敵の視線を遮る高地の稜線だった。青年は力なく頷き、折れそうな足取りでレイモンの歩みに従った。先ほどまで広場にいた略奪者への恐怖は、今や目の前の処刑人と、その後ろで冷徹に微笑む女への「有用性」を示さなければ殺されるという、より具体的な生存本能へと書き換えられていた。

アデルは丸太のように横たわっていた古い倒木から腰を浮かせた。切り裂かれたドレスの裾が、乾燥した岩肌を擦って乾いた音を立てる。彼女は泥に汚れた自分の指先を太陽に翳し、レイモンによって掻き出され、今は白く清潔になった爪を見つめた。その指先が、再び「位」という名の権力を掴むための武器に見える。彼女は乱れた髪を掻き上げ、泥濘の行進で失われた香水の香りの代わりに、自身の体温と石灰の匂いを吸い込んだ。

少年の影が、岩肌に刻まれた地図の上に重なった。彼は鋭い石を捨て、自身の小さな掌についた白い粉を、無造作に膝の上で叩き落とした。少年の瞳は、既にこの岩棚を去り、その先にある中継都市の街路を、数式としてシミュレーションしている。彼にとって、レイモンの流した血も、アデルの剥き出しの野心も、ただの「進行速度を規定する変数」でしかなかった。少年は誰に促されることもなく、垂直に近い崖の縁を、獣のような確かな足取りで降り始めた。

一行は、この束の間の休息地を後にした。レイモンは再び、エリーズと子供たちの手を引き、自身の傷ついた肩を起点にして、家族という重石を運び続ける。アデルは彼らの一歩先を歩き、泥と血に汚れた岩場を、まるで宮廷のダンスホールであるかのように優雅に、しかし峻烈な意志を込めて踏みしめた。 背後の岩肌には、レイモンの拳が砕いた岩の破片と、乾き始めた赤い血痕が残された。それは逃亡の足跡ではなく、奪われたすべてを取り戻すための、最初の一撃の痕跡としてそこに刻まれていた。 アデルは、かつて王の愛人として君臨したその不屈の矜持を、今度は泥まみれの現実を支配するための、研ぎ澄まされた刃へと変えていた。

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