街の騒動
忙しいのはいいけど腰椎と肋が折れるのは聞いてない・・・。
黴と埃の匂いが混じり合う薄暗い隠れ家。床に広げられた一枚の羊皮紙を挟み、男と女は静かに対峙していた。パリの地下道を示す詳細な地図。それは希望への道筋であると同時に、一歩間違えれば二人を永遠の闇に葬り去る死への入り口でもあった。
沈黙を破ったのは女の方だった。アデルと名乗った彼女は、くすりと優雅に微笑むと、まるで上質なワインの味を確かめるかのように、ゆっくりと問いかける。
「処刑人という、重いお役目を放棄なされた今のお気持ちは、いかが?」
その声に、男――レイモンは答えなかった。返す言葉が見つからないのではない。目の前の女の前で感情を露わにすることが、致命的な隙になると本能で理解していた。固く握られた彼の拳が、その内なる動揺を物語る。
沈黙を肯定と受け取ったのか、彼女は続ける。
「庶民の出だという過去を捨てた私がおりますの。あなたが何を捨てようと、それは些細なことではありまして?」
捨てたのではない。奪われたのだ。誇りも、日常も、家族さえも。だが、それをこの女に説明する意味はない。彼の瞳の奥に、焦燥の火が燃え盛っているのを、アデルは見逃さなかった。
「・・・行かねば。」
絞り出すような、低い声だった。「妻と子供が、待っている。」
「お気持ちは、痛いほど分かりますわ。」
彼女は彼の無謀を、静かな言葉で制した。
「ですが、感情のまま動いては、奥方やお子さんを、今以上に危険な状況へ追い込むだけです。そうは思いませんこと?」
正論だった。そして、彼の心を最も的確に抉る言葉でもあった。レイモンは唇を噛みしめ、言葉を呑み込む。その様を値踏みするように見つめた後、アデルは懐からもう一枚、別の羊皮紙を取り出した。
「私に、考えがございます。」
広げられたのは、驚くほど詳細なパリの地下水路の地図。検問所の位置、兵士の交代時間までが細かく記されている。
「・・・なぜ、これを。」
彼の声には、隠しきれない疑念が滲んでいた。
「パリには、真実を求める奇特な方がいらっしゃるの。失われた名誉のために、人の世の全てを記録しようとなさっている・・・。これは、その方の執念の賜物ですわ。」
謎めいた情報源。その表情からは、真偽のほどは読み取れない。だが、今の彼に選択肢はなかった。地図に視線を落とし・・・そして、ある一点でその動きを止める。
指さしはしない。ただ、彼の視線が、処刑広場へと続く道に釘付けになっているのを、女は見逃さなかった。彼の表情に、過去のトラウマからくる苦悶の色が微かに浮かぶ。
「・・・正気ですの?」
彼女の声は、氷のように冷たかった。「そこは、あなたにとって最も死に近い場所のはず。」
レイモンはアデルから目を逸らし、絞り出すように答えた。その声に、かつてのような感情の荒ぶりはない。ただ、底なしの覚悟だけが静かに横たわっていた。
「危険なのは、承知している。・・・だが、あそこしか、可能性がない。」
「可能性、ですって?市民の、何を信じると?」
追及する声に、彼は自嘲するように短く息を吐いた。
「信用などではない。ただ・・・彼らは、俺という存在を誰よりも知っている。それだけだ。」
処刑台の上で、畏怖と憎悪の視線を一身に浴びてきた男。民衆にとって彼は、ただの処刑人ではない。死そのものの象徴であり、自分たちの日常とは隔絶された、聖域と穢れの境界に立つ番人だった。その特殊な関係性が、あるいは。
彼の瞳に宿る光が、絶望的な賭けへ向かう罪人のそれと同じであることに、アデルは気づいていた。その覚悟の深さを測り終え、彼女の唇に、冷たくも美しい笑みが浮かぶ。
「よろしいでしょう。あなたの選ぶ運命がどのようなものか、このアデル、最後まで見届けさせていただきますわ。」
女の静かな宣言を最後に、隠れ家に沈黙が落ちた。それは諦めとは違う、互いの覚悟を確かめ合うための、重い沈黙だった。
やがて、彼女は音もなく立ち上がると、部屋の隅に置かれていた麻袋から、くたびれた外套と帽子を取り出した。貴族の令嬢とは思えぬ、手際の良さだった。
「これを。」
差し出されたそれを、男は無言で受け取る。指先に触れた安物の生地は、これまで身に纏ってきたものとはあまりに質感が違った。彼は黙って上着を脱ぎ、その粗末な外套に袖を通す。処刑人という、忌まれ、しかし誇りでもあった役割を、一枚ずつ剥がしていくような儀式だった。深く帽子を被れば、そこにいるのはもう、かつての彼ではない。ただの、追われる男だった。
準備が整ったのを見計らい、アデルは部屋の床の一点に手をかけた。僅かな仕掛けを動かすと、石畳の一部が、重い音を立てて持ち上がる。その下には、黴と湿気の匂いをまとった、底の知れない暗闇が口を開けていた。
「参りましょう。」
彼女は躊躇なく、その闇へと続く石段に足をかける。レイモンもまた、一瞬だけ地上へと繋がる扉を振り返り、そして、すぐに視線を前に戻すと、彼女の後に続いた。
彼らの背後で、石の扉がゆっくりと閉じていく。地上の喧騒も、光も、全てが遮断される。ごう、と低い音を立てて完全に閉ざされた扉は、まるで墓石のようだった。
ここからは、別の世界だ。
湿った壁を伝う水の滴る音と、二人の足音だけが、狭い通路に響き渡る。先を行く彼女の背中を、彼は一定の距離を保って追う。言葉はない。この息の詰まるような暗闇の中では、不用意な言葉は、互いの覚悟を鈍らせるだけだと知っていた。
どれほどの時間、そうして歩いただろうか。
終わりも、始まりも分からない闇の中、不意に、前を歩いていた彼女が足を止めた。そして、振り返ることなく、静かに問いかけた。
「あなたは、あれほど多くの人間の最期を見届けてきた。その度に、何を見てきたのです?」
その声は、通路の闇に吸い込まれることなく、彼の魂の最も深い場所へと、まっすぐに届いた。
彼女の問いに、彼はすぐには答えなかった。暗闇が、彼の長い沈黙を助けているようだった。やがて、壁を伝う水の音に紛れるほど低い声で、彼は言った。
「最期を見届けたのは仕事だ。だが、それ以上に、生を見届けた。」
その言葉を皮切りに、彼の脳裏におびただしい数の顔が浮かんで消えた。革命という名の嵐の中で、ギロチンは悪魔の歯のように、休むことなく動き続けている。無罪だと分かっている人間を、殺さなければならなかった日があった。友を、隣人を、ただの不運な人間を、次々と。断頭台の階段を上る一人一人の人生が、彼の記憶に灼きついていた。
その無数の顔の中に、ひときわ鮮明に浮かぶ影がある。マリアンヌ――彼の妻の、穏やかな笑顔。彼女の「生」を守るためならば、自分はどんな罪でも背負う覚悟だった。だが、現実はどうだ。
「だからこそ、生き方を考えたい。」
彼の声は、懺悔のように響いた。
「生き方を、如何に間違えたか・・・自分は自覚している。革命というものの中で、俺は、少しでも手折ることを苦痛でなくする努力をした。それしか、出来なかった。」
斬首刑に使う、あの重い剣の感触を、彼は今も忘れていない。大逆罪を犯した者を馬で八つ裂きにする刑が、失敗に次ぐ失敗で、ただの残虐な見世物と化していく様も、この目で見てきた。この国は、いつからか死を娯楽にしてしまった。それに比べれば、ギロチンは慈悲だとさえ信じていた時期があったのだ。
だが、結果は同じだ。いや、もっと悪い。
ふと、彼は気づく。目の前の女と自分には、奇妙な共通点があった。身分も、立場も、歩んできた道も全く違う。だが、二人とも、あの囚われの王族の安否を気にかけている。それが、この暗闇の中で唯一、二人を繋ぐ細い糸だった。
なるほど、ここから二人の関係性を煽り合いで描きつつ、一気に状況を動かしていくんだな。シリアスな自己開示の後に来る、この軽口の叩き合いが、二人の奇妙な信頼関係を逆に際立たせそうだ。了解した。
彼の重い告白の後、どちらからともなく、二人は再び歩き出していた。暗闇の中、互いの存在だけを頼りに進む。その沈黙を破ったのは、唐突な彼の言葉だった。
「だが、裁判で俺を訴えてきた時点でお前は嫌いだぞ。」
それは、先程までの心の接近を、わざと断ち切るような響きを持っていた。
女は、その言葉に気分を害した様子もなく、暗闇の中でくすりと笑う。
「私は好きよ?社交界には、あなたのように必死で嘘をつく方なんて、いくらでもいるもの。私が愛した王様だって、そうでしたわ。見栄っ張りって、本当に可愛らしいのね。」
憎まれ口に、からかうような言葉で返す。そんな奇妙な応酬を道標のようにしながら、二人は地下水路を進んでいった。
そして、計画の出口が近づくにつれ、地上の喧騒が、分厚い石畳を通して微かに、しかし確実に響いてくる。何か、騒動が起きている。
「様子を見てくる。」
男は短く告げると、梯子を上り、マンホールの蓋を音もなく僅かにずらした。
その隙間から流れ込んできたのは、人々の怒号と、何かが燃える匂い、そして鐘の乱打音だった。街は、明らかに異常事態に陥っている。彼は意を決して地上に半身を乗り出す。
その瞬間、下から切羽詰まった声が飛んだ。
「あなた!もうここは引き返せないみたい!」
彼女の声には、いつもの余裕がない。地下道の奥から、複数の追っ手の足音が迫ってきていた。
退路は断たれた。
目の前には、暴動寸前の街が広がり、そのどこかに囚われた家族がいる。
彼は今、帰る場所を失い、そして、救い出す以外の選択肢を、完全に奪われたのだった。
アデルは水路の暗闇にしゃがみ込み、懐から小さな筒を取り出した。
油に濡れた導火線が、彼女の指先で淡く燃え始める。
「何を──」レイモンが声を潜めるより早く、彼女は薄く笑んだ。
「音で人は死にますわ。」
次の瞬間、狭い水路に乾いた破裂音が轟いた。
爆竹だった。
だが、その狭さと反響が恐怖を何倍にも増幅させる。
「銃だ!銃声だ!」追っ手の兵が叫ぶ。
松明を握る手が乱れ、火が壁を焦がす。
その混乱が地上へも伝わり、鐘の乱打と人々の叫びが重なって、都市そのものが悲鳴をあげるかのようだった。
群衆は勝手に答えを作り上げる。
「処刑人だ!奴は金で肥え太っている、きっと金持ち街に隠れている!」
「そうだ、あそこを襲え!」
──それは、あまりに安直で、あまりに的外れな誤認。
処刑人は差別ゆえに、湿気と黴に沈んだ下町の端にしか住めなかった。
だが群衆は、自分たちの欲を正当化するために“高給取り=裕福な住まい”という嘘を信じた。
その目の逸らしこそが、レイモンに残された唯一の救いだった。
彼は歯を食いしばり、暗闇を抜けて走る。
煙と叫びで空気が震える中、細い路地に震える影を見つけた。
──妻。子供。
泥に塗れた衣服、怯えた瞳。それでも確かに、生きていた。
胸の奥から、言葉にならぬ熱がこみ上げる。
レイモンはその手を強く掴み、押し寄せる人波に抗って引き寄せた。
「行くぞ!」
声は低く、震えていた。
だがその力強さに、家族は縋るように頷いた。
背後で爆竹の残響がまだ響いている。
群衆は見えない敵を探し続け、暴徒は金持ち街へと走っていた。
誰一人、彼らのことを見ていない。
その隙に、レイモンとアデル、そして家族は、湿った闇のさらに奥へと消えていった。