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Blood & Powder

革命の嵐が吹き荒れる都市の一角で、その女はまるで嵐の目に咲く一輪の花のように、鮮烈な色彩を放っていた。アデル。その名は、かつて王の寵愛を一身に集め、宮廷の華として咲き誇った過去を物語っていた。だが、今はその肩書きも、彼女を処刑台へと追いやる足枷と化している。しかし、彼女の瞳に宿る輝きは、いかなる逆境にあっても決して色褪せることはなかった。

その日、アデルは気まぐれに、いや、あるいは計算された偶然のように、一人の男に目を留めた。彼の名はレイモン。群衆の中に埋もれるように立つその男は、他の誰とも違う、深い影を纏っていた。彼の顔には疲労と、何かを隠し続ける者の重圧が刻まれている。しかし、その瞳の奥には、アデルの好奇心を刺激する、抗いがたい孤独が宿っていた。

「ねぇ、あなた。まるで思い出し笑いを耐えてるみたいじゃない。何か面白いことでもあったのかしら?」

アデルは微笑んだ。その声は、まるで絹が擦れ合うような滑らかさで、レイモンの凍てついた心をそっと撫でた。彼は一瞬、警戒するように身構えたが、アデルの揺るぎない視線と、その問いかけに込められた純粋な好奇心に、戸惑いを覚えた。処刑人として、常に人々の憎悪と恐怖の視線に晒されてきたレイモンにとって、これほどまでに無邪気な興味を向けられることは、ほとんど記憶になかった。

「...別に、何も。」

レイモンはぶっきらぼうに答えた。彼の声は低く、感情を押し殺した響きがあった。だが、アデルは怯まない。むしろ、その反応が彼女の遊び心をくすぐった。

「あら、つまらないわね。でも、あなたのその瞳、何かを隠しているでしょう? 私、そういうの、嫌いじゃないのよ。」

アデルは一歩、レイモンに近づいた。彼女の纏う香水の甘い香りが、レイモンの感覚を麻痺させる。彼は、処刑台の上でさえ感じたことのない種類の動揺を覚えた。この女は、自分が何者であるかを知らない。そして、知る由もない。その事実が、レイモンの中に、一瞬の安らぎと、拭い去れない罪悪感を同時に呼び起こした。

その日を境に、二人の関係は急速に深まっていった。アデルは、レイモンの寡黙さの中に秘められた優しさや、時折見せる人間らしい感情に触れ、彼に惹かれていった。彼女にとって、レイモンは革命の混乱の中で見つけた、唯一の心の拠り所となりつつあった。王の愛人という華やかな過去を持ちながらも、常に孤独と隣り合わせだったアデルは、レイモンとの偽りのない(と彼女は信じていた)関係に、真の安らぎを見出した。

レイモンもまた、アデルとの関係に深く溺れていった。処刑人として、彼は常に死と隣り合わせの生活を送ってきた。人々に忌み嫌われ、孤独の中で職務を遂行する日々。だが、アデルといる間だけは、その重苦しい現実から解放されるような感覚があった。彼女の明るさ、大胆さ、そして何よりも、彼を「レイモン」という一人の男として見てくれるその視線が、彼の心を癒やした。それは、彼が処刑人として背負う業を、一時的に忘れさせてくれる甘美な毒だった。

数週間が過ぎた。二人はまるで普通の恋人たちのように、街の片隅でひっそりと逢瀬を重ねた。人気のない公園のベンチで言葉を交わしたり、薄暗い酒場でグラスを傾けたりした。アデルはレイモンの過去や仕事について深く詮索することはなく、ただ彼の隣にいることを楽しんでいるようだった。その無邪気な信頼が、レイモンの胸を締め付けた。彼は何度、真実を打ち明けようとしただろう。しかし、そのたびに、アデルの笑顔が、彼の口を固く閉ざさせた。この偽りの安息を手放すことなど、今の彼にはできなかったのだ。

アデルは、レイモンが時折見せる陰鬱な表情や、急に沈黙に陥る癖を、彼の「繊細さ」や「思慮深さ」と解釈していた。彼女はレイモンが抱える「何か」に気づいてはいたが、それが処刑人としての業だとは夢にも思わなかった。むしろ、その影こそが、彼女が王宮で見てきた軽薄な男たちとは違う、レイモンの人間的な深みだと感じていたのだ。

しかし、その安息は常に危うい均衡の上に成り立っていた。レイモンは、アデルを欺いているという罪悪感に苛まれ続けた。いつか、アデルが自分の正体を知った時、この偽りの関係は音を立てて崩れ去るだろう。その恐怖が、彼の心の奥底に常に重くのしかかっていた。彼は、アデルの笑顔を見るたびに、その秘密が露呈する瞬間のことを想像し、胸を締め付けられた。この関係は、彼にとっての救いであると同時に、いつか訪れる破滅の予兆でもあった。それでも、彼はこの偽りの安息を手放すことができなかった。アデルの存在は、彼が正気を保つための、唯一の綱だったのだ。

レイモンとアデルが築き上げた偽りの安息は、数週間という短い期間で、脆くも崩れ去った。街にはびこる噂話は、革命の混乱に乗じて、あっという間に広がる。それは、レイモンが最も恐れていた、彼の正体に関する囁きだった。最初は些細なものだった。特定の時間帯にしか姿を見せないこと。いつもどこか影を纏っていること。そして、彼の住む区画に漂う、奇妙な鉄の匂い。アデルは、それらの断片的な情報が、やがて一つの恐ろしい真実へと繋がることに、初めは気づかなかった。


ある日のことだった。アアデルは市場で買い物をしていた。賑わう人々の声の中に、聞き慣れない囁きが混じっていた。

「あの女、知ってるか?あの処刑人とつるんでるらしいぜ。」

「処刑人?まさか、あの冷たい目の男のことか?」

アデルの耳は、その言葉を拾い上げた瞬間、凍りついた。処刑人。その言葉が、彼女の脳裏に、レイモンの顔を鮮明に映し出した。彼の寡黙さ、時折見せる陰鬱な表情、そして、決して語られることのなかった彼の仕事。それら全てが、一瞬にして恐ろしい意味を持ち始めた。彼女の心臓は激しく脈打ち、手から持っていたパンが地面に落ちた。

信じられない。信じたくない。アデルは、その場で立ち尽くした。彼女が愛し、信頼した男が、まさか、この革命で最も忌み嫌われ、恐れられる存在だというのか。彼女の脳裏に、レイモンとの甘い時間がフラッシュバックする。彼が優しく微笑んだ顔、触れた手の温もり、そして、決して明かされることのなかった彼の秘密。その全てが、今や裏切りと偽りの色を帯びて、彼女の心を深く抉った。

その日の夜、アデルはレイモンの元を訪れた。彼の部屋の扉を叩く手は震えていた。扉が開くと、いつものように寡黙なレイモンが立っていた。彼の顔には、どこか諦めのような表情が浮かんでいる。アデルは、もはや言葉を必要としなかった。彼女の瞳が、全てを物語っていたからだ。

「...なぜ、私に隠していたの?」アデルの声は、か細く、しかし怒りに満ちていた。

レイモンは、何も答えなかった。ただ、深く息を吐き、視線を床に落とした。その沈黙が、アデルの怒りをさらに燃え上がらせた。

「答えてよ! なぜ、私を欺いたの? なぜ、あなたが...あなたが処刑人なのよ!」

アデルの叫びが、狭い部屋に響き渡った。彼女の目からは、とめどなく涙が溢れ落ちる。それは、裏切られた悲しみと、欺かれたことへの激しい怒りがないまぜになった涙だった。

レイモンは、その涙を見ることができなかった。彼は、アデルの怒りを受け止める資格など、自分にはないと知っていた。彼の沈黙は、アデルの言葉を肯定するに等しかった。アデルは、もう何も言わなかった。ただ、レイモンの顔を、憎悪と悲しみが入り混じった瞳で見つめ、そして、踵を返して部屋を後にした。扉が閉まる音は、二人の関係が完全に破綻したことを告げる、冷たい響きだった。

アデルが去った後、レイモンは膝から崩れ落ちた。彼の心は、深い絶望の淵に沈んでいた。唯一の心の拠り所だったアデルが、今や彼を憎んでいる。彼の秘密が暴かれ、偽りの安息は完全に砕け散った。

その絶望の中で、レイモンの意識は、アデルとの関係が始まる少し前に執行した、もう一つの処刑の記憶へと鮮明に引き戻された。それは、彼の心を最も深く抉り、彼を精神的に追い詰めていた、マリアンヌの処刑だった。

処刑台の上、18歳と主張しながらも、その外見はあまりにも幼い少女、マリアンヌ。彼女は、革命の名のもとに不当な罪を着せられ、処刑される運命にあった。レイモンは、職務としてその処刑を執行しなければならなかった。彼の脳裏に、処刑直前のマリアンヌの瞳が焼き付いている。恐怖と、しかしどこか諦めにも似た、透き通った瞳。

「これが、正義なんですか?」

マリアンヌの声が、幻聴となってレイモンの耳に響く。それは、彼の処刑人としての業、そして革命の掲げる「正義」の矛盾を、容赦なく突きつける問いだった。処刑は滞りなく進んだ。しかし、その後に続く光景が、レイモンの心を永遠に縛り付けることになった。マリアンヌの首に、革命の象徴である赤い「マリアンヌ帽」が被せられたのだ。無垢な少女の死と、革命の理想の象徴が、あまりにも皮肉な形で結びつけられたその光景は、レイモンの精神を深く蝕んだ。

処刑以降、レイモンはマリアンヌの幻視や幻聴に悩まされ続けてきた。最初は激しい動揺に襲われ、夜も眠れぬ日々が続いた。しかし、時間の経過と共に、彼はその幻視に「慣れてきた」と自分に言い聞かせていた。それは、正気を保つための、彼なりの防衛策だった。だが、アデルとの関係の破綻という新たな絶望が加わった今、その「慣れ」は脆くも崩れ去った。マリアンヌの幻影は、以前にも増して鮮明に、そして容赦なくレイモンを襲い、彼の精神を極限状態へと追い詰めていった。彼は、床に膝をついたまま、頭を抱え、苦痛に喘いだ。

幻影は、以前にも増して鮮明に、そして容赦なくレイモンを襲い、彼の精神を極限状態へと追い詰めていった。街を歩けば、物乞いの少女の痩せた手が、処刑台で最後に見たマリアンヌの白い腕と重なって見えた。施しを乞うその瞳は、恐怖ではなく、静かにレイモンを見つめ、まるで「これが正義なんですか?」と問いかけているようだった。道端に落ちた赤茶色の布切れが、一瞬、乾いた血痕に見え、マリアンヌの首に巻かれていたはずのない血染めの布を幻視する。夜になれば、部屋の隅の陰がマリアンヌの座る姿に見え、首に被せられた赤い帽子の色が、暗闇の中で一層際立って彼を嘲弄する。

彼は自らの掌を何度も見つめた。処刑の際に使用したギロチンの刃の冷たい感触が蘇り、拭っても拭えない血の匂いがまとわりつくように感じる。眠ろうと目を閉じれば、瞼の裏にはマリアンヌの顔が浮かび上がり、その問いかけは、容赦なく彼の良心を締め付ける。彼は、マリアンヌの存在そのものを恐れていた。彼女の無垢な瞳が、自身の犯した罪、そして革命の矛盾を映し出す鏡のように思えてならなかった。群衆の視線など問題ではなかった。彼が何よりも恐れているのは、マリアンヌの幻影であり、彼女の問いに答えることのできない、臆病な自分自身だったのだ。

アデルとレイモンの関係が破綻してから数週間後、アデルは革命裁判所に召喚された。しかし、その罪状は、公的なものではなかった。彼女が告発したのは、他ならぬレイモン、国家公認の処刑人だった。


アデルとレイモンの関係が破綻してから数週間後、アデルは革命裁判所に召喚された。しかし、その罪状は、公的なものではなかった。彼女が告発したのは、他ならぬレイモン、国家公認の処刑人だった。

革命裁判所は、異様な熱気を帯びていた。市民たちが詰めかけ、アデルの告発に耳を傾ける。アデルは、毅然とした態度で証言台に立った。その瞳には、恐怖ではなく、燃えるような怒りが宿っていた。

「私は、この裁判の正当性に異議を唱えます。」アデルの声が、法廷に響き渡る。

裁判官たちがざわめく中、アデルはまっすぐレイモンを見据えた。レイモンは、処刑人として、裁判官の隣に控えていた。アデルの視線が、彼の心を射抜く。

「この男は、私を欺きました。自らの身分を隠し、私に近づき、私を誘惑したのです。」

法廷は、一瞬にして静まり返った。市民たちの間には、驚きと困惑のざわめきが広がる。アデルの告発は、公的な罪状とは全く異なる、個人的な内容だったからだ。

「彼は、国家公認の処刑人でありながら、その事実を隠し、私と恋人関係を築いた。これは、革命の掲げる『自由』と『平等』を欺く行為ではないでしょうか? 処刑人が、その職務を隠して市民に近づくこと自体、革命的正義に反する行為であり、この国の処刑制度の腐敗を如実に示している!」

アデルの言葉は、私的な怒りを巧妙に「革命的正義」という大義名分にすり替えていた。彼女の弁論術は巧みで、その言葉には、聴衆を惹きつける力があった。レイモンは、アデルの告発に、怒りよりも先に、深い羞恥と絶望を感じていた。彼の秘密が、今、白日の下に晒されている。そして、その告発が、革命の「正義」として受理されようとしているのだ。

しかし、レイモンはただ黙って晒される男ではなかった。アデルの告発が彼の精神を深く抉った一方で、処刑人としての長年の経験が、彼の思考を研ぎ澄ませていた。彼は、この場で沈黙すれば、アデルだけでなく、処刑制度そのものが不当なものとして糾弾されかねないことを理解していた。彼は一歩前へ出た。その顔には、苦悩と、しかし確固たる決意が浮かんでいた。

「...私は、彼女を欺いた。その罪は認めよう。だが、私の職務が非難されるならば、私にこの職務を与えた高等法院の皆さんは、もっと非難されるべきだ!」レイモンの声が、法廷に響き渡る。その声には、処刑人としての重圧と、彼自身の魂の叫びが込められていた。

「なぜなら、もし処刑が罪であるならば、それを実行する者よりも、それを指示する者の方が重罪となるからです。死刑執行人がいなかったら、どうなるでしょうか? いくら裁判で有罪と言い渡しても、何の役にも立ちません。私たちの振るう剣こそが、犯罪を思いとどまらせるのです!」

彼は、処刑人という存在が、いかに社会にとって必要不可欠であるかを説いた。そして、自身が背負う業が、いかに重く、そして孤独なものであるかを、感情を込めて語った。

「軍人は人を殺しても名誉とされるのに、なぜ処刑人は不名誉なのでしょうか? 軍人は罪のない人を殺しますが、処刑人が殺すのは犯罪者だけです。一般人が我々を恐れる理由がありましょうか? 軍人は国境を守り、私たちに平和を与えてくれます。彼らが名誉に包まれるのは当然のことです。しかし、軍は外で戦い、我々は国内で平和を守っています。我々の職業も社会にとって有用だと認めて欲しいのです!」

レイモンの言葉は、さらに熱を帯びる。

「古代の王たちは、処刑人を高貴な役割と位置付けていた。彼らは、王権の象徴として、秩序を維持する重要な役目を担っていたのだ! それすら知らぬというのに、この場で弁護士を名乗り、正義を語るなど、恥ずべきことではないか!」

彼は、法廷にいる裁判官や弁護士たちを、その歴史的無知と偽善を以て糾弾した。

「我々は、侯爵夫人と席次を争う十分な資格があると思っています!」

レイモンの演説は、法廷の空気を一変させた。彼の言葉は、単なる弁明ではなかった。それは、処刑人という存在の悲哀と、革命の裏側に隠された矛盾、そして、彼自身の魂の叫びだった。聴衆は、彼の言葉に耳を傾け、その重みに息を呑んだ。アデルもまた、レイモンの予想外の反論と、その言葉に込められた真剣さに、一瞬、たじろいだ。彼の演説は、法廷の心を打ち、アデルの告発は、私的な感情に過ぎないものとして退けられた。結果として、アデルはレイモンへの告発では無罪となり、釈放されることになった。

しかし、アデルが自由の身となったのも束の間だった。彼女のレイモンへの告発は、革命政府の耳目を集めることになった。そして、その過程で、アデル自身に関する「怪しい箇所」が浮上し始めたのだ。政府の諜報機関は、アデルが平民出身でありながら、革命の混乱期に不自然なほど裕福な生活を送っていたこと、そして、特定の亡命貴族たちと密かに連絡を取り合っていたという情報を掴んでいた。

アデルの告発は、皮肉にも彼女自身の首を絞める結果となった。革命政府は、アデルが「亡命貴族への財産輸送」に関与しているという確たる証拠を掴み、ついに彼女の逮捕に踏み切った。アデルは、かつての華やかな生活から一転、冷たい牢獄へと放り込まれることになった。彼女は、レイモンへの個人的な復讐を試みた結果、自らの運命を決定的に変えてしまったのだ。

その報は、すぐにレイモンの耳にも届いた。アデルが、先の裁判で無罪となったばかりだというのに、全く別の罪状で再び逮捕され、処刑対象となったというのだ。レイモンは驚きを隠せなかった。同時に、心の奥底では「いい気味だ」という、どこか冷酷な感情が湧き上がるのを感じた。自分を公衆の面前で晒し、私怨を「正義」とすり替えて糾弾した女が、結局は自らの行いで破滅する。それは、ある種の因果応報に見えた。

だが、その冷たい感情の奥に、拭いきれない嫌な予感がよぎった。彼女が処刑される。その事実は、レイモンの胸に、鉛のような重さでのしかかった。彼は、処刑人としての職務を淡々とこなす傍ら、密かにアデルの件を調査し始めた。公的な記録を辿り、裏の情報を集めるうちに、彼女が亡命貴族への大規模な財産輸送に関与していたという確たる証拠が、革命政府によって掴まれていたことを知った。それは、彼が彼女に告発された裁判とは、完全に独立した罪だった。

アデルが、今度こそ確実に処刑される。その事実を突きつけられ、レイモンの心は激しく揺さぶられた。かつて、自分の秘密を共有し、しばらく恋人関係にあった相手が、今度こそ自分が処刑しなければならない対象として、目の前に現れる。彼は、アデルを欺いていたという自身の非を認めないわけではなかった。しかし、それ以上に、処刑人としての揺るぎないプライドが彼を突き動かした。この国の処刑は、彼の一族にしか許されない神聖な業であり、同時に、秩序を保つための最も重要な職務だ。そして何より、もし自分が執行を拒めば、この処刑は、まだ幼い、未熟な処刑人に任されることになるだろう。そのような事態だけは、断じて避けなければならない。

苦悩の末、レイモンは、処刑人としての覚悟を固めた。それは、感情を押し殺し、ただ職務に徹するという、彼にとって最も辛い選択だった。彼自身が、この国の処刑制度の象徴であり、その歯車の一部であることを、改めて自覚した瞬間だった。

そして、再び処刑の日が訪れる。処刑台へと続く道は、市民たちで埋め尽くされていた。彼らは、王の愛人であったアデルの最期を、好奇と憎悪の混じった視線で見つめている。アデルは、護衛に囲まれながら、しかし毅然とした足取りで進んでいく。その顔は青ざめていたが、どこか諦めにも似た、あるいは覚悟を決めたような表情を浮かべていた。

処刑台の麓に立つレイモンの目に、アデルの姿が映った。彼女は、恐怖に震えながらも、どこか覚悟を決めたように、そして「せめてレイモンに処刑されるなら」と、特別な準備を施していた。彼女は、あえて外見を、レイモンのトラウマであるマリアンヌに寄せていたのだ。髪は乱れがちに、しかしどこか幼さを感じさせるように整えられ、顔には薄く化粧が施され、その佇まいは、かつてレイモンが処刑した少女の面影を鮮明に呼び起こした。そして、彼女がレイモンを見つめたその瞳には、恐怖だけでなく、どこか諦めと、そして微かな、しかし確かな「問いかけ」の光が宿っていた。

「これが、正義なんですか?」

幻聴が、レイモンの脳裏に響き渡る。それは、処刑台に立つアデルの姿と、マリアンヌの無垢な問いかけが重なった、悪夢のような幻影だった。処刑人としてのギリギリの覚悟は、音を立てて崩れ去る。彼は激しく動揺し、わずかながらに制御を失った。その一瞬の隙を、アデルは見逃さなかった。

アデルは、震える体を無理に動かし、動揺で動きが止まったレイモンに素早く飛びついた。その細い腕が、彼の首に絡みつく。市民たちは何が起こったのか理解できず、ざわめきが広がる。アデルは、市民から恨まれていないレイモンを人質に取る形で、処刑場から大胆に逃亡を始めた。護衛たちは一瞬躊躇し、その間に二人は群衆の中へと消えていく。

アデルは、震える体を無理に動かし、動揺で動きが止まったレイモンに素早く飛びついた。その細い腕が、彼の首に絡みつく。市民たちは何が起こったのか理解できず、ざわめきが広がる。処刑場の警備兵たちが、一瞬の判断を迷う。彼らは、市民から恨まれていない処刑人を人質に取ったアデルに、易々と銃口を向けることができなかったのだ。それどころか、レイモンが日頃から見せる苦悩や、処刑される者の苦痛を少しでも減らそうとする彼の細やかな配慮を知る市民たちは、彼に危害を加えることをためらった。その躊躇の間に、アデルはレイモンを盾にする形で、処刑場から大胆に逃亡を始めた。護衛たちは追跡を試みるが、すでに二人は群衆の中へと紛れ込み、闇の中へと消えていく。

レイモンの逃亡は、彼以外に処刑人がいない国家の処刑制度を完全に破綻させ、革命の混乱はさらに深まっていく。街の喧騒が遠ざかり、闇の中を駆ける二人。レイモンは、人質としての不満や、アデルに対する割り切れない感情を抱えながらも、処刑を執行しなくて済んだという、奇妙な解放感に包まれていた。その解放感は、彼から叫ぶ気力さえ奪い、彼はただアデルに引かれるまま従った。

アデルは疲弊したレイモンをまっすぐに見据え、冷徹なまでに明確な言葉を告げた。彼女の瞳には、逃亡の疲労と、しかし揺るぎない決意の光が宿っていた。

「私があなたを人質にとったのは、生き延びるためだけではないわ。この腐敗した革命から、私の財産と、奪われた『国』を取り返すためよ。」

その言葉に衝撃を受けるレイモン。彼は、アデルの個人的な復讐心と、その裏にある壮大な野望に息を呑んだ。しかし、アデルはさらに言葉を続ける。

「そしてあなたも、ただ私に利用されるだけではないでしょう? あなたがいなければ、この国は無秩序な暴力に飲み込まれるでしょう。あなたは、この国の秩序を保つ最後の砦なのよ。」

アデルの言葉は、レイモンの処刑人としての業と、その彼にしかできない逆説的な「救済」の道を示唆していた。レイモンは、自分がこれまで奪った命、そしてこれから奪うことになるはずだった命の重みを改めて感じた。二人の奇妙で歪んだ共犯関係が、国家の命運を巻き込みながら、壮大な目的へと突き進む旅の、最初の夜明けを迎えた。


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