第六話 風が揺らすもの
この世界に“異物”が迷い込んだのは、ほんの数日前のことだった。
高塔の上。
塔の端に腰掛け片足を乗せて、青藍はただ静かに風を感じていた。
この高さにまで届く風は冷たく、どこか乾いている。白銀の髪が微かに揺れ、頬を掠めていく。
眼下に広がるのは、城の中庭。白くまぶしい石造りの通路と、深い緑の植え込みが、網目のように整然と広がっている。
そして――その片隅に、一際目を引く姿があった。
黒髪、黒い瞳。陽に焼けていない白く滑らかな肌。着慣れぬ我が国の服をまとい、どこにいても浮いてしまう細身の男が、使用人のひとりと何かをやりとりしていた。
異国の言葉を話し、使用人とは意思疎通が難しいはずなのに、その男の顔には笑みが浮かんでいた。
紙に指を走らせ言葉をなぞる。発音に苦慮し通じない単語に眉をひそめ、時折苦笑し、それでも通じた時には小さなガッツポーズを見せては喜ぶ。
……水無月 朔。
突然、空中に現れた異界からの来訪者。
我々の理とは何もかも違うのか、言葉も、服装も、体の成りも全てが異なる――それでも笑っている。
ベランダであった際、もし泣き喚き害をなす存在と分かれば、その場で処することも考えていた。だがアイツは泣き喚くどころか「綺麗だ」と宣った。彼の口から出た言葉に嘘は感じられなかった。
素直に本心から出た言葉なのだろう。
不思議なことにアイツの言葉を俺だけが認識できた。王である陽騎すら言葉は分からないと言った。解せぬ。
周囲の者たちは”異界から来た者”だと知りつつも、アイツを拒むことはしない。むしろ、自然に受け入れつつあるようにさえ見える。彼の素直な心を無意識的にも感じているのかもしれない。
だが青藍はそれすらも信じられないでいた。「何が目的だ」と眉を顰める。
「……あいつは、何をしようとしている?」
誰に問いかけるでもなく、言葉が漏れる。
塔の縁に置いた指先が、冷たい石の感触を微かに拾っていた。
(馴染むつもりか、この世界に? ――滑稽だ)
”異物”は排除される。この世界の理だ。この国の人が竜族が受け入れようとしても、結局、居なくなるのだ。この世界が淘汰してしまう。
それなのに、なぜ彼は笑えるのか。なぜ、あれほど無防備に懸命に言葉を覚えようとする?馴染もうとするのか理解できない。
胸の奥に、ざらりとした感情が渦巻く。
不快――そう分類すべきはずだった。けれど、それ以上に、どうしても拭いきれない”謎”があった。
――自分だけが聞こえる、アイツの”声”。
あの日、空を裂くような叫び。助けを求める声。誰も気づけなかったあのかすかな”声”を、なぜか自分だけが捉えていた。
喰らってしまうことも、握り潰すこともできた。けれど拳が自然と柔らかく握られていた。さも当たり前のように無意識に。
理由もなく、ただその事実が胸の奥に残り続けていた。だから、竜の姿でもう一度アイツを見て確かめたいと思った。ベランダで再び目にしたアイツは無防備だった。何度目かの問い。
(……なぜ、俺にだけ)
なぜアイツを目の前にすると、胸の奥がザワつくのだ。
ふと視線を戻すと、ちょうど朔がこちらを見上げているのが見えた。
目が合った――ような気がした。人間であるアイツが、この塔の上まで見えるはずがない。そう理解しているのに、自分の何かが期待をしている。
今はもう、彼は視線を戻し使用人たちと話をしている。
(くそッ。なんなんだ、このザワつきは。気持ちが悪い)
アイツの一挙一動に、胸の内が良くも悪くも波打つ。なんの変哲もない笑みが、なぜ、こうも引っかかる?解せぬ。
自分の中で起こる変化に、青藍は混乱しイラついていた。そして一つの結論を出していた「アイツに近づいてはならぬ」そう決意し、眉根を顰め朔を見つめた。
「青藍」
背後から聞き慣れた声に振り返れば、陽騎が相も変わらず気の抜けた様子で手を振っていた。金の髪が風に踊り、陽の光を反射して揺れている。
塔の縁まで歩み寄ると、彼はあっさりと中庭を覗き込み口角を上げた。
「……また上から見てたな」
「……監視だ」
「嘘だ。睨んでただろ、さっき」
軽口に苛立つ気配を見せるでもなく、陽騎は片手に果実酒の瓶を持って、「お前も飲むか?」といつもの調子でそれを差し出す。
青藍は睨んで受け取らず、陽騎は苦笑して自分で飲んだ。
「……俺は、あいつ好きだけどな。素直で努力家で、言葉は通じなくても真っ直ぐだ」
「王として、情を移すな」
「情じゃないさ。純粋な興味さ。お前はどうなんだ?」
陽騎はそう返すと青藍を見つめる。返事を待つでもなく、ただ柔らかく笑っている。
青藍は答えなかった。いや、答えられなかった。王を前にして嘘は吐けない。けれど自分の中でまだ処理ができていない。答えが出ていないのだ。
「……お前の方がよほど、気にしてる」
「違う」
即答だった。
だが、自分の口から発せられたその拒絶が、どこか空々しく響いた。
その時、中庭から朔の声が風に乗って届いてきた。眼下に視線を向ければ、小さな紙を片手に使用人と一緒に言葉の発音練習をしているようだった。
その声音が耳に残る。早朝、名前を呼ばれた瞬間のことを思い出す。ハッキリと呼ばれたわけじゃない。けれど耳に届いた瞬間、胸の奥底に眠る何かが震えた気がした。
拒んでも歩み寄ってくる、真っ直ぐな思い――なぜ、あのとき名前を教えてしまったのだろう。
(……アイツは”異物”だ。迷うことなど、何もない)
目を閉じ、心を鎮めようとした。湧き上がる感情全てに蓋をするようにーー。
だが、内側に渦巻くものはなかなか静まらない。
あの声には、確かにあったーー“懐かしさ”ーー忘れかけていた何かに、ふと触れてしまったような感覚。
(なぜ……)
答えのない問いを胸に抱えたまま、青藍は風に揺れる黒髪を自然と目で追っていた。
――その様子を陽騎が、意味深が笑みを浮かべ見つめていたことに、気がづくことはなかった。