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第五話  青藍という名

 まだ空は、夜の帳を完全に払ってはいなかった。

 東の空にだけ、ほのかに紅が差し始め、世界は静かに新たな一日を迎えようとしていた。


 鳥の囀りがどこからともなく聞こえ始め、窓のカーテン越しには柔らかな風の音と、「ギョエー」とも「ギュオー」とも聞こえる竜らしき遠吠えのような鳴き声が届いてくる。

 その微かな気配に、朔は静かに目を開けた。


 昨日の記憶は、柔らかな光のように、でもしっかりと心の奥に残っていた。ゆっくりと体を起こし、ベッドから足を下ろす。欠伸をひとつし、両腕を頭の上に伸ばして背伸びをする。朝の空気を肺に取り込み意識を覚醒させる。

 カーテン越しに差し込む光がまぶたを照らし、空気には甘い草花の香りがほんのりと漂っていた。


(……朝か)


 ぼんやりとそう思いながら、朔はベッド脇のテーブルに目をやる。

 昨夜の食器はいつの間にか綺麗に片付けられており、代わりにそこには透き通った水を湛えたクリスタルのデキャンタと、丁寧に畳まれた衣服が置かれていた。おそらく、これに着替えろってことなのだろう。


 両手で摘み持ち上げると、その衣はどこか東洋の意匠を感じさせた。

 淡い青の光沢をまとった生地は、ズボンと上着に分かれている。朝の光を受けて静かにきらめいていた。アオザイに似たその衣を、「こーでもない。あーでもない」と慣れない手つきで身に纏い、ようやく着ることが出来た朔はそっと扉を開け、部屋の外に足を踏み出した。


 館内はまだ深い静寂に包まれていて、まだ使用人たちも起きていないのかもしれない。

 高い天井と、大理石の床が続く長い回廊。壁には繊細な刺繍のタペストリーや、時を感じさせる古風な絵画が並び、この建物が長い歴史を刻んできたことを語っていた。


 朔は建物の中を見廻しながら、極力音を立てないよう気遣いながら静かに歩いていく。

 けれど、どこへ行くという目的地はなかった。ただ――


(……また、会える気がする)


 微かな希望が胸の中に宿っていた。

 昨夜の光景が、胸の奥に残っている。竜のまなざし、そして頭に直接響く、低く少しくぐもっ声――どれも何処か懐かしさを感じた。


 この世界にきて、初めて会ったはずなのに初めてではない感覚。どこかで会ったことがあるような不思議な記憶。それが現実なのか、夢だったのか、ひどく曖昧で不確かなもの。


 館内を足音を忍ばせながら回廊を進むうちに、だんだん心臓の鼓動が少しずつ高鳴っていくことに気が付く。自分でも理由はわからない。けれど、確信のようなものがあった。


 ーーこの先に、きっと“彼”がいる。


 やがて行き着いた、ひときわ大きな扉。両手を添えて体重を乗せて押し開けると、朝の冷気が頬を撫でる。

 歩みを進めてみると、そこは中庭だと気づいた。


 幾何学模様の花壇が整然と並ぶ、手入れの行き届いた石畳の庭。花々の葉には朝露が残り、中央の噴水では水が静かに流れ落ちている。

 その一角に――彼はいた。


 白銀の鱗に包まれた竜が、翼をたたんだまま、静かに眠るように佇んでいた。首をたれ、まぶたを閉じたその姿は、神殿に祀られる像のような荘厳さをまとっている。


(……やっぱり、ここにいた)


 思わず息を呑む。胸の奥が、静かに震えた。

 なぜ、この存在を目にするたびに心が騒ぐのか。ただの恐れではない。むしろ、切なさを伴った感情だった。


 そのとき――気配を感じたのか竜がまぶたをゆっくりと開けた。淡い紫の瞳が、真っ直ぐに朔をとらえる。

 陽の光を受け、氷のように冷たくも美しく輝くその眼差し。その奥に、ほんの一瞬だけ揺らぎのような戸惑いが浮かんだ気がした。

 朔は、そっと彼の目の前に歩み寄る。ゆっくりと、まるで夢の中をなぞるように。


「……また、会えた」


 自然にこぼれたその言葉に、竜の身体が淡い銀光に包まれる。大きな翼がふわりと広がり――次の瞬間、その姿が変化した。

 眩い光の中から現れたのは、ひとりの青年。流れるような長い銀髪、絹の衣と黒の外衣を纏い、静かにそこに立っていた。竜の時と同じ、透き通った淡い紫の瞳が無言のまま、まっすぐに朔を見つめている。


「……え」


 息が止まった。竜から人になる。その姿は、現実離れしすぎていて、言葉を失うほどに美しかった。

 それ自体、異様に思えるはずなのに、嫌悪の対象になり得るはずなのに、怖いとも嫌だとも思えない。寧ろ神々しく思ったくらいだ。

 けれど――


 青年は朔の視線に何かを感じたのか、すっと目を逸らした。そして明らかに距離を取るように一歩、後ろに下がる。

 その仕草は拒絶をはっきりと示していた。「近づくな」そう言われているようで、胸の奥がチクリと小さく痛む。それでも朔は、負けじと足を一歩前に踏み出した。


「……あの、助けてくれてありがとう。俺……あなたに、どこかで会った気がして……」


 朔の言葉に応えることなく、青年はただ静かに立っていた。表情は変わらず無表情で、何を考えているのか分からない。風にすら無関心なような冷たさを纏っている。

 それでも朔はもう一歩、踏み出した。


「名前……聞いても、いいですか?」


 風が庭を横切る。花が揺れ、噴水の水面に小波が生まれる。二人にも風が届き、髪を揺らす。

 しばらくの静寂が包み朔が諦めかけた時、ポツリと小さく聞こえた。竜の姿の時と同じように、言葉ではない“声”


 『……青藍』


 小さく零れ落ちたような音。けれど確かに朔の心の奥に“響いた”名。

 弾かれるように朔は顔をあげ、彼に視線を合わせ「セイラン……」と確かめるように小さく丁寧にその名を繰り返す。


 朔の小さな声に応じるように、青年――青藍は、ゆっくりと瞬きをした。

 けれど、その瞳には情の色はなかった。

 そして――


 『……二度と、近づくな』


 氷の刃のような冷たい拒絶。その言葉を残し、青藍は静かに朔の横を通り過ぎ背を向けた。

 足音もなく中庭の奥へと歩き去っていくその背に、朔はぽつりと呟いた。


「……ありがとう。名前、教えてくれて」


 朔の言葉に返事はなかった。けれど――その足取りが、一瞬だけ、わずかに揺れたように見えた。

 青藍が去り、ひとりきりとなった中庭。朔は空を仰いでいた。朝の光に染まりつつある空に、昼間と同じ二つの月が薄く浮かんでいる。


(……冷たい。でも……その奥には、優しさがあるような気がした)


 短い時間だったけれど青藍と向き合うことが出来た。思いがけず、人の姿の彼に。胸に広がる切なさと、説明のつかない懐かしさ。

 それが何なのか、まだ分からない。もしかしたら夢の何かと重ねて見ているだけなのかもしれない。雛鳥が最初に見たものを親と感じる”刷り込み”と同じかもしれない。

 唯一言葉が通じる、この世界の人だからーー。


「セイラン……また、会いたいな」


 胸に手を当て、そっと呟く。冷たく拒まれても、心は不思議と折れていなかった。むしろ、“もっと知りたい”という気持ちが、自分の中で強く確かなものになった。


 この世界のことを知ろう。

 改めて心に誓った。


 ――言葉が通じないなら、覚えればいい。


 社会で培ってきた粘り強さ。この世界でも、それがきっと役に立つ。

 名前を知れた。現時点では、それだけでも僥倖だ。

 次は、この世界の言葉を覚え、この世界の理を知り、一つ一つ課題をクリアしてけば、いつか彼と真正面から向き合えるようになるはずだ。それが今の自分にできる“努力”だ。


 そう誓った朔の髪を、朝の風がやさしく撫でていった。


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